[第1回 明治百鬼夜行 2 月 5 日]
[コラム 千田稔「明治の疑獄事件 知られざる真相」]
扱っているのは明治初期の2つの事件である。第一のものは、山城屋事件で、悪者は山県有朋、
第二のものは、尾去沢銅山事件で、悪者は井上馨である。明治政府は最初から腐敗していたことが分かる。
(1) 山城屋事件というのは、長州出身の政商山城屋和助が、陸軍の公金をたくさん借りて
運用に失敗し返済できなくなり、最後には詰め腹を切らされたという事件である。
公金を使うに当たって、陸軍のボス山県有朋が関わっていたわけである。外国から突然阿漕な資本主義が
やってきて、それに慣れない日本人が踊らされた結果とも言えるので、その意味では山城屋はかわいそう
だとも言える。しかし、山県がそれに乗ったのは軽率だったわけで、もっとまずかったのは、
結局山県が追及されずに事後処理がうやむやになってしまったことである。それがこの後の軍部と財閥の
闇の結びつきの端緒になってしまった。
(2) 尾去沢銅山事件というのは、盛岡藩のものだった尾去沢銅山を、井上馨が無理矢理取り上げ、
自分と関係の深い政商にあげてしまった事件である。尾去沢銅山は、盛岡藩の御用商人の村井茂兵衛が
採掘権を持っていたのだが、井上は証文の意味をわざと取り違えることによって、村井から採掘権を取り上げ、
自分の息がかかった岡田平蔵に払い下げる。見方を変えれば、旧体制の政商から新体制の政商への交代とも言える。
江藤新平がこれを追求していたのだが、征韓論→佐賀の乱を経て、江藤は文字通り抹殺され、事件は闇に葬られる。
この事件の後遺症は、これによって藩閥政治と、それに伴う腐敗の構造ができてしまったことである。
[第2回 焼け跡の若き狼 2 月 12 日]
戦後まもなくの光クラブ事件が取り扱われている。光クラブは、現役東大法学部生の山崎晃嗣が作った
高利貸し事業である。月1割5分でお金を借りて、3割で貸し出すという暴利で金儲けをした。
この事業が世間の注目を集めたため、山崎は逮捕される。しかし、法律の知識を駆使して起訴を免れる。
でも、それが元で信用を失い、債務返済ができなくなって、自殺する。それだけだと、単にひどい奴だということで
おしまいになるが、戦争が山崎に与えた暗い影が、この事件を興味深いものにしている。
山崎は学徒動員で軍隊に入ったのだが、戦後、その軍隊で食糧の横流しに関わって逮捕され、
旭川の刑務所に入れられた。刑務所では、寒さで気を失うまでにいじめられ、刑務所を出てからも、
一緒に横流しに関わった連中は一切助けてくれなかった。これらのことが山崎を極度の人間不信にしている。
彼が残した言葉に「自己のみが世界の根本規定」というものがある。他人は全く信じられないということである。
自殺に際しても、これは借金の返済に困って死ぬのではなく、人は死ねば物体になるから契約が
そもそも無効になるので、契約を無効にするために死ぬのだと言っている。すなわち、人間を信じることができずに、
契約に極めて忠実になるという歪んだ合理主義に殉じたのである。
[第3回 幻想の王国 ネズミ講 2 月 19 日]
1970 年代のネズミ講の「天下一家の会」の事件を扱っている。ネズミ講というのは、
後から考えれば馬鹿馬鹿しい仕組みだが、けっこう流行ったので大事件になった。
この事件が起きたのは、高度成長期で、旧来の共同体が崩壊していっていた時期であった。
天下一家の会は、共同体的な感情を煽るような仕組みを作ったために、
その時代の人々がコロリと騙されたのだという分析がなされている。
[第4回 バブル万歳! 2 月 26 日]
1980 年代中〜後期のバブル経済と関連して、豊田商事事件とイトマン事件が取り上げられている。
このくらい最近の話になると、ニュースになっていたのを覚えている。
(1) 豊田商事事件は、1980 年代前半に起こった現物まがい商法の悪徳商法事件である。
ここではお金の虚構性を象徴する事件として取り上げられている。手口は、
金の地金(きんのじがね)への投資をしてあげるといって証券を買わせるというもので、とくに老人が狙われた。
実際は、会社は金地金をほとんど持っておらず、お金は会社の運営・拡充と商品相場に投入されていたらしい。
1985 年、永野会長は町工場の主によって刺殺される。
(2) イトマン事件は、大阪の商社イトマンに、闇の大物二人(地上げ屋の伊藤寿永光と、
裏のフィクサーと呼ばれた許永中)が入り込んで巨額の資金を引き出した事件。
バブルの崩壊と同期するように、住友銀行から来ていた加藤吉邦専務が自殺、首謀者たちが逮捕される。
しかし、お金の行方は結局いまだに闇の中らしい。
商社「イトマン」の消滅までの顛末については、ネット上の
「web 論壇」読書室
に野木昭一著の詳細なレポートがある。
[第1回 瀬木慎一「それは「ひまわり」から始まった」 3 月 5 日]
1987 年から 1990 年までのバブルの時期の4年間に、日本人は世界の美術品を買いまくった。
投機として買ったものが多かったため、バブル崩壊後は再び海外に流出したものが多い。
今から見ると信じられないことだが、その時代、美術品投資のハウツー本まで出回っていた。
きっかけとなったのは、1987 年、安田火災海上保険(現在の損保ジャパン)が、
ゴッホの「ひまわり」を当時史上最高額の約 60 億円で購入したことである。
これは、安田の創立 100 周年を記念してちょうど 100 年前に描かれた名画を買ったものだった。
これは投機ではなかったので、「ひまわり」は、今でも損保ジャパン東郷青児美術館で見ることができる。
その後は投機目的のものが多く、殊に際立っていたのは、1990 年に、大昭和製紙名誉会長の斎藤了英が
当時史上最高額と第二位の額で、ゴッホの「医師ガシェの肖像」とルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を
買ったことである。これらは、その後公開されず、斎藤了英の死後、大昭和製紙が売却して海外に流出した。
その後、海外でもおそらく成金どもが買ったらしく、公開されていない。絵にとっても、
見られる人がほとんどいないということは、不幸なことである。
[第2回 小和田哲男「信長は茶器も狙った」 3 月 12 日]
織田信長は、名物茶器を集めていた。とくに「大名物(おおめいぶつ)」と呼ばれるものは、
多くはもともと足利将軍義政が持っていたもので、幕府の衰退とともに豪商たちの手に渡っていた。
信長はこれらを再び集めようとした。そこで、信長は京都や堺の商人などから名物茶器を強制的に買い上げた。
これを「名物狩り」と呼ぶ。また、信長の力が増すにつれ、名物茶器を献上されるというパターンも多くなった。
信長は、これを秘蔵していただけではなく有効活用した。従来、恩賞と言えば、まず土地で、そうでなければ
刀か馬であった。しかし、土地はやがて無くなるわけで、信長はある段階から名物茶器を褒美とするようになった。
これは、茶会を開くことができるステータスを与えることを意味した。
このことを「茶湯御政道(ちゃのゆごせいどう)」と呼ぶ。ここの「政道」は禁止するという意味で、
茶会を開くのに制限を加えたことを意味する。滝川一益などは、武田攻めの後、土地とポストはもらったものの、
名物茶器をもらえず、とても落胆したということが記録に残っている。
本能寺の変の前夜、茶会が開かれた。変によって、多くの名物茶器が失われたという。
[コラム 矢島新「近世美術のパトロンとアーティスト」]
洋の東西を問わず、つい最近まで美術にはパトロンが必要であった。江戸時代における特徴を3つ挙げる。
[第3回 橋爪節也「なにわの知の巨人 木村蒹葭堂」 3 月 19 日]
江戸時代の町人コレクター木村蒹葭堂の話。本、絵、地図、標本などあらゆる学問的な資料のコレクションをしていた。
そのため、図書館兼博物館兼美術館のような状態になり、多くの文化人が訪れた。「蒹葭堂日記」には、
訪問した人の来訪日と名前が克明に記してあり、文化サロンのようになっていたことが分かる。
「諸国異魚図」には、全国の魚の報告があることから、コレクターの全国的なネットワークがあったことが
推測される。自らも「一角纂考」という博物学の研究書を著したり、文人画を描いたりした。
蒹葭堂は、そのような偉大な知的趣味人であった。
参考 HP:
[第4回 小田部勇次「2つの「源氏物語絵巻」」 3 月 26 日]
国宝「源氏物語絵巻」は、現在、徳川美術館にある3巻分と五島美術館の1巻分がある。
それらの所有者は、明治以降対照的な変遷をたどった。徳川美術館にある徳川本は、
尾張徳川家伝来のもので、それが徳川美術館に移されただけである。一方、五島美術館のものは、
蜂須賀本と呼ばれ、所有者は、阿波蜂須賀家→柏木貨一郎(古美術愛好家)
→益田孝(鈍翁)(三井財閥)→瀬津雅陶堂(古美術商)→高梨仁三郎(キッコーマン、コカコーラ)
→五島慶太(東急グループ)とめまぐるしく移り変わり、五島美術館に納まった。
背景となる出来事が2つある。ひとつは、大正時代から昭和初期にかけての「大売立の時代」である。
この時代、旧大名家が没落してくる一方で第一次大戦後の好況期がやってきたので、
大名家の名品が売られて、実業家が高額で買い取った。二つ目は、戦後の改革に伴うもので、
資産家に高額の財産税がかけられたため、戦前の資産家から名品が売りに出された。
これらの波に翻弄されて次々に所有者が変わったのが蜂須賀本である。すなわち、大売立の時代の少し前に、
三井財閥の益田孝に買われ、戦後はそれが売りに出されて、結局東急グループ総帥の五島慶太が買い取った。
一方、徳川本の方は所有者が変わらなかった。これは、徳川義親が大売立の時代に危機感を抱いて、
財団法人徳川黎明会を設立し、その傘下に徳川美術館を作り、そこで伝来の名品を管理することにしたからである。
義親はさらに他家の美術品も購入して、所蔵品の充実を図った。これは結果的にはうまくいった。
個人の持ち物ではなくなっているので、戦後の財産税もかからず、現在まで徳川美術館の所有となっている。
[コラム 後藤和子「芸術文化振興の財政システム〜経済学から見た芸術」]
美術品は富の象徴とされることが多いが、一方でパブリックなものもある。パブリックな芸術の
原点の一つに、農村舞台がある。現在では、芸術文化のパブリックな部分は、
補助金や寄付税制などの組み合わせで支えられている。