[第1回 ”多国”県の陰に国策あり―兵庫県 3 月 31 日]
兵庫県は、日本海から瀬戸内海まで貫通している大きな県である。なぜ、摂津、淡路、播磨、但馬、丹波、備前、美作
という旧7つの国にわたる大きな県が作られたのか?日本海側と瀬戸内海側で地域性がかなりちがうにもかかわらず。
この答えは、神戸を国際貿易港にしたいという明治政府の政策による、というものである。
明治政府は、神戸を国際貿易港にするために、絹織物の産地である但馬と丹波、豊かな土地があって税金をたくさん
納めてくれる播磨を神戸に結合した。これが兵庫県である。この作戦が功を奏して、現在のように繁栄した港町神戸が
出来上がった。もちろん、播磨にしてみると、税金を神戸に吸い取られるので不満があり、
分離独立を望む声があったが、明治政府はこれを許さなかった。
[第2回 不合理なる分断線―両毛地域 4 月 7 日]
狭義の両毛地域とは、JR両毛線の周辺、すなわち群馬県の桐生、太田、館林、
栃木県の足利、佐野のあたりの地域である。この地域は、現在県境を越えて結びつきが深まってきている。
もともと平野に引かれた線なので、自然条件による障壁は少ない。
この県境は、上野と下野の境界に対応しており、歴史は古い。なので、上野と下野には対抗意識も
あったようである。明治の廃藩置県の時、このあたりの県境は何度か変えられたのだが、結局元の上野、下野に
戻ってしまった。しかし、近年経済的に両毛地域の連携が深まり、それとともに行政の連携も県境を越えてきている。
番組では、栃木県足利郡菱村が群馬県桐生市に越県合併された経緯も紹介されていた。越県合併と言えば、
最近長野県木曽郡山口村が岐阜県中津川市に越県合併されたときに結構な騒動になったので、それがほとんど
前代未聞なのかと思っていたら、そうでもなくて、市町村単位では菱村以来ということで、もっと細かい変更ならば
たくさんあったようである。
本題とはずれるが、上野・下野がなぜ「こうずけ」「しもつけ」と呼ばれるのかをここにかいてあることで初めて知った。
もともと「上毛野国(かみつけのくに)」「下毛野国(しもつけのくに)」と書かれていて、両方合わせて
「毛野国(けのくに)」だからのようである。広義の「両毛地域」はこの「毛野国」すなわち、群馬と栃木の両県を指す。
番組では、福島県、山形県、新潟県の県境で、飯豊山のところだけが福島県側から細く伸びている理由も、
民衆が県境を変えた例として紹介されていた。これは、飯豊山が喜多方側の人々から信仰されていたことによる。
[
asahi.com による飯豊山の県境の紹介、
blog 「山いろいろ」の中の飯豊山の紹介]
[第3回 137年目 湖上の決着―十和田湖 4 月 14 日]
十和田湖上の青森県と秋田県の県境が決まったのは、ようやく去年 (2008 年) だったという話。
明治の始めは、十和田湖は「どうでも良い」場所だったので、県境が決まっていなかった。
ところが、ヒメマスの養殖が始まると漁業権が生じてどうでも良くはなくなって、両県の間で
争いになった。結局お互いに譲らず棚上げ状態が長く続いた。しかし、近年十和田湖観光が振わなくなってきて、
ずっと宙に浮いていた十和田湖の面積分の地方交付税を両県が欲しくなってきた。
そこで、県境を決め、十和田湖の面積分の地方交付税を十和田湖の観光振興と環境保全に充てることにした。
[コラム 浅井建爾「県境と道州制」]
2005 年の地方制度調査会による11道州制案は実情に即さない点があるので、それを改良した10道州制案を提示する。
しかし、それ以前に、道州制のメリット・デメリットが国民にきちんと提示されていない。
[第4回 “完全飛び地”の誇り―和歌山県北山村 4 月 21 日]
和歌山県北山村は、和歌山県の飛び地で、三重県と奈良県に挟まれている。なぜ飛び地になったのか
はっきりとはわかっていないようではあるが、新宮に木材を筏で流す中継地として重要であったことから、
新宮との結びつきが強かったことが理由だろうということにここではしている。北山村は人口600人に満たず、
状況は危機的だが、何とか生き残りの努力をしている
[北山村 HP]
[第1回 それはアリランから始まった 4 月 28 日]
韓国映画が始まったのは、日本の植民地になっていた 1920 年ころである。1926 年には検閲が始まる。
この回で紹介されているのは、主に羅雲奎(ナ・ウンギュ)と日夏英太郎(本名:許泳(ホ・ヨン))の
二人の映画監督である。ナ・ウンギュは、1926 年に「アリラン」を監督、同時に主演した。
この映画は、暗に支配への抵抗を描いていて、大ヒットになった。民謡「アリラン」もこの映画から広まった。
検閲をくぐることができたのは、無声映画だったことと、表現が斬新で抵抗の表現がストレートでなかったせいだろう。
ナ・ウンギュは 36 歳の若さで 1937 年に病死する。一方、日夏英太郎は、日本で映画を学び、朝鮮で国策映画を監督する。
日夏はインドネシアで終戦を迎え、以後日本へも朝鮮へも帰らず、インドネシアで映画を撮り独立運動に協力する。
国策映画を作った慙愧の念から、祖国朝鮮へも家族のいる日本へも帰れなかったのだろう。番組に出ていた
中西萠子氏(日夏英太郎のお嬢さん)の
ホームページに
日夏英太郎のことが書いてある。
[コラム 植民地時代の国策映画]
日本統治下の国策映画の多くは、朝鮮戦争のさなかにフィルムが失われた。ところが、その一部が、
最近北京で発見された。
[第2回 朝鮮戦争 巨匠たちの苦悩 5 月 5 日]
第二次世界大戦が終わっても、検閲は続いた。さらに朝鮮戦争と南北分断によって苦悩は深まる。
この回で紹介されているのは、主に兪賢穆(ユ・ヒョンモク)と林權澤(イム・グォンテク)という二人の巨匠である。
ユ・ヒョンモクは、朝鮮戦争がもたらした精神の荒廃を描いたと傑作とされる「誤発弾」(1961 年) を監督している。
しかし、検閲でいろいろチェックされ、後には上映禁止となった。一方、イム・グォンテクは、
父親や親族が左翼ゲリラだったので、子供のころ迫害を受けてずっと苦労している。
60 年代から 70 年代は、検閲のため思ったような映画が撮れず、
ようやく 1980 年の「チャッコ」で朝鮮戦争を扱った。この映画も一部検閲でカットされたものの、
朝鮮の人々が米ソ対立の犠牲になったことを描いている。さらに進んで、1994 年の「太白山脈」では、
南北分断によって左右の狭間で生きる絶望を正面から描いている。この映画は、中立的立場で撮っているので、
右派からも左派からも評判が良くなかった。
[第3回 風吹く良き日を求めて 5 月 12 日]
1979 年、朴正熙大統領が暗殺され、一瞬民主化への機運が高まったのも束の間、1980 年に光州事件という
大弾圧事件が起こる。しかし、新しい時代への機運は確実に高まっていて、映画の世界でも
李長鎬(イ・チャンホ)監督が新しい時代の旗手となった。とくに 1980 年の「風吹く良き日」が、
都会に出てきた田舎青年の姿をリアルに描いて記念碑的な作品となった。李監督の影響で、
1980 年代以降は、大卒の高学歴の若者が次々と映画界に入ってくるようになった。
[コラム 韓国映画の身体性]
韓国映画では、身体障害者や知的障害者が重要な役割を演ずることがよくある。ひとつの理由は、
「病身舞」という伝統の影響、もうひとつの理由は、検閲の下での抵抗表現であろう。また、
韓国の役者は、演技が多少大袈裟で、役のためなら肉体改造を積極的に行う。そこに激しい情熱が感じられる。
[第4回 映画は国境を越える 5 月 19 日]
1996 年に検閲が撤廃され、1998 年からの金大中(キム・デジュン)政権の下では映画業界が政府の助成を受け、
韓国映画は花開いた。タブーとされていた、朝鮮戦争や光州事件も映画で取り扱われるようになった。
たとえば、朴贊郁(パク・チャヌク)監督は、「JSA」で北朝鮮の兵士を人間的に描いた。
李滄東(イ・チャンドン)監督は、「ペパーミント・キャンディー」において、
光州事件で人生を狂わされた男を描いた。さらに、「オアシス」では、障害者を描くことを通じて
心の通じ合いを扱った。奉俊昊(ポン・ジュノ)監督は、「殺人の追憶」で、
全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事政権下の社会の暗さと同時に、従米的にならざるをえない韓国の矛盾を描いた。
このように優れた映画が作られる一方で、制作費の高騰により、韓国映画には陰りが出始めている。
著者は、日韓合作による新展開に期待をしている。