NHK 知る楽 歴史は眠らない 2009 06/07月

日本放送出版協会
刊行:2009/06/01
名大生協で購入
読了:2009/07/23
最近仏教の話に興味があるので購入。後半の裁判員制度の話もタイムリーで興味深い。

ひろさちや「智慧の結晶 お経巡礼」

代表的なお経4つの話。 以下、内容のサマリー。

[第1回 華厳経―壮大なる宇宙論 6 月 2 日]
東大寺の大仏は、盧舎那仏(ヴァイローチャナ・ブッダ)である。盧舎那仏は宇宙仏である。 釈迦仏は、宇宙仏が人間界に送り込んだメッセンジャーである。 この構造は、「神―神の子―人間」というキリスト教の構造と似ている。 華厳経は、盧舎那仏について語った経典である。
華厳経の世界観は「一即多・多即一」である。結び目に宝珠が付けられた無限に広がった網(宝網)を考えよう。 宝網は宝珠で作られている一方、宝珠の一つ一つは全体の宝網を写し込んでいる。 宇宙はこのようなものである。ミクロとマクロは相互に依存している。これを「縁起」と言う。
華厳経では、正しい方向に進もうと思いさえすれば、誰でも仏になれると言っている。 善財童子の物語によれば、人は、さまざまな人から謙虚に学び、宇宙仏の声に耳を傾ければ、仏になることができる。
華厳とは「雑華厳飾(ざっけごんじき)」あるいは「雑華厳浄(ざっけごんじょう)」の略である。 さまざまの花で厳かに飾るということである。花の多様性を認め、あらゆるものに仏が宿ると考えるところが 華厳経の宇宙観である。

草いろいろおのおの花の手柄かな     芭蕉

[第2回 法華経―悟りへ導くファンタジー 6 月 9 日]
法華経は日本の仏教に大きな影響を与えた。天台宗は法華経を根本経典としており、空海も重視した。 さらに、比叡山には鎌倉仏教の開祖が多く学んでいる。そこで、法華経は日本の文化に大きな影響を与えている。
「法華経」という名前は、「白蓮華のような最高の真理を説いた経典」という意味である。白蓮華は、 泥水から生じ、泥水から出て上に開く。泥水は現実の人間世界の比喩である。したがって、 汚い現実世界を出て、美しい花を咲かせましょうという意味になる。
法華経では、「火宅の喩」が有名である。大富豪の邸宅で火事が起こった。子供たちはそれに気付かなかったので、 出てきたら羊車・鹿車・牛車をあげようといった。富豪(釈迦のたとえ)は、 子供たちに大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。ここで、羊車・鹿車は小乗のたとえ、牛車は大乗のたとえで、 釈迦仏はそれらを方便として使った。法華経は、方便を超越した宇宙の真理である。 真実の仏は永遠の昔に仏になり、永遠に説法を続けている。涅槃も方便であった。

[第3回 阿弥陀経―極楽へのいざない 6 月 16 日]
阿弥陀経では、阿弥陀仏がいる極楽の様子が語られる。極楽は、娑婆に対する言葉で、娑婆には 天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六界がある。極楽には、三悪道(畜生・餓鬼・地獄)という名前すらない。
平安末期には、世の中が乱れ、人々は極楽浄土に行きたいと願った。しかし、これまでの仏教では 修行や寄進が必要で庶民は救われない。これを救ったのが法然である。 法然は、唐の善導の「観無量寿経疏」(「観無量寿経」の解説書)にヒントを得て、 「他力の仏教」の理論を確立した。ただ「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願によって 誰でも救われるとした。

[第4回 般若心経―心を癒やす処方箋 6 月 23 日]
薬師寺の「般若心経」写経運動によって「般若心経」の知名度が高まった。薬師寺は法相宗の寺で、 法相宗の開祖の基(き)の師である玄奘三蔵が「般若心経」を翻訳したことから、薬師寺では 写経に「般若心経」を選んだ。
般若経典は、「摩訶般若波羅蜜多経」の略で、これは経典のグループである。この中には 「大般若経」「大品般若経」「金剛経」「般若心経」などがある。 「摩訶般若波羅蜜多経」は、サンスクリット語では、 「マハー・プラジュニャー・パーラミター・スートラ」である。 「マハー」は「大きい」、「プラジュニャー」は「智慧」、「パーラミター」は「最高」「完成」 もしくは「彼岸に渡ること(パーラム=彼岸、イター=渡る)」、「スートラ」は「お経」の意味である。
「般若心経」は、般若経典のエッセンスを簡単に記したものである。五蘊皆空(ごうんかいくう)、 すなわちすべてが空である、というのがポイント。有る無いを超越すると、その先には「空」がある。 たとえば、寒いのを苦しいと思わず、苦でなくすれば良い。それには、スキーに行けばよい。すると 寒いことが苦しみではなく楽しみになる。


青木人志「裁判員制度への道」

日本人の裁判に対する意識の歴史的な移り変わりを見て行きながら、新しく導入された裁判員制度の 意味を考えるシリーズ。そもそも私は裁判員制度と比較すべき外国の制度というとアメリカの陪審制度しか 聞いたことがなかったのだが、このシリーズで、それと対照的なものにドイツの参審制というものがあるのを 初めて知った。日本の裁判員制度は、それらの中間的なものになっている。もともと日本の裁判は 英米法と大陸法の中間的なものなので、裁判員制度も中間的なものにしたということであろうか?

ところで、シリーズを全部見終わった後でもまだ一つ疑問があるのは、なぜ重大な刑事事件に限るのかが よくわからなかった。もちろん全ての事件に関与するのは無駄だが、国民の関心が高い裁判ということでは、 たとえば一票の格差の違憲訴訟などがあるのだが、そういうのにも何らかの国民参加ができないものだろうか? もっとも、諸外国でも陪審・参審は刑事事件が中心のようである。

以下、内容のサマリー。

[第1回 「大岡裁き」の深層 6 月 30 日]
初回は江戸時代までの法制度を見て行く。律令制度の時代から江戸時代まで、裁きを行うのはずっと 「お上」であった。大岡政談は、ほとんど創作ではあるが、日本人が持っている理想の裁判官像が反映している。 それは、「厳格な父」のイメージである。お上がうまく収めてくれるだろうという意識が見られる。 現実の大岡は、裁判官としてはかなり厳しい裁きをしていたが、一方で行政官として 町火消制度を作ったり小石川養生所を作ったりしたような業績が評価されて良いイメージが生まれたのであろう。
もっと遡ってみると、律令制度が法律に基づく裁判制度の始まりである。律令の律は刑法、令は行政法に対応していた。 このような構造は江戸時代まで続いていた。江戸時代には、裁判の種類は出入筋(でいりすじ)と 吟味筋(ぎんみすじ)の2つに分かれていた。出入筋は民事事件、吟味筋は刑事事件に相当していた。 刑事事件に対しては、拷問を伴う厳しい糺問主義が取られていた。 一方で、江戸幕府は私人間の金銭紛争に対して冷淡で、私法分野の法令があまり発達しなかった。

[コラム 大久保治男「江戸人の沙汰(裁判)嫌い―拷問は何を語るのか?」]
「表沙汰にする」という言葉が嫌なことの意味で使われているように、日本人は裁判を嫌がる。
江戸時代の裁判は自白主義なので、残酷な拷問が行われた。「笞打」「石抱せ」「海老責め」「釣責め」の 4種類があった。このほか、キリシタン弾圧ではすさまじい拷問が行われた。処刑は公開で行われ、 見懲らしで威嚇する意味があった。

[第2回 国家か権利か 明治の相克 7 月 7 日]
明治の初めの裁判は、江戸時代の糺問主義の続きで拷問も行われていた。しかし、日本はすぐに西洋法を学び始めた。 このように日本が西洋法を学んだ背景には、不平等条約改正問題があった。ちゃんとした法律と裁判所がなければ、 在留外国人が日本の法律による裁きを受けることを西洋諸国は認めない。西洋諸国にしてみれば、拷問があるような 野蛮な裁判を自国民に受けさせるわけにはいかない、というわけだ。そこで、明治前半には、日本は主にフランス法を 学ぶようになった。フランス人法学者ボワソナードとフランスで学んだ井上毅(いのうえこわし)らの努力により、 明治 8 年、拷問を用いないようにという命令を政府が出し、明治 9 年、自白以外の証拠が認められるようになり、 明治 12 年、拷問が廃止された。
一方、陪審制度については、ボワソナードが法案に盛り込んだものの、井上毅らの反対により、明治 13 年の 治罪法(現在の刑事訴訟法)には入れられなかった。その背景には、不平士族の反乱や自由民権運動などに 政府が危険を感じていたということがある。
明治 22 年、大日本帝国憲法が発布される。その後、明治後半には、 日本の法律はドイツ法の影響を強く受けるようになった。

[第3回 陪審制15年の挫折 7 月 14 日]
日糖事件や大逆事件を機に、原敬が陪審制導入の努力を始めた。陪審制は原敬の暗殺後、大正12年に公布、 昭和3年に施行された。しかし、以下に書くような欠点があったために、陪審制度の利用が減っていって、 昭和18年に停止された。
殺人や放火などの事件は法廷陪審といって、陪審裁判にかけられたが、被告人は辞退することができた。 詐欺や窃盗などで比較的重いものは、被告人が陪審裁判を請求することができた(請求陪審)。 しかし、陪審裁判は控訴をすることができなかった。さらに、裁判官は陪審の答申を忌避することができた。 答申が不適切だと思えば、裁判官は陪審をいくらでも変えることができた。このようにあくまでも 裁判官に最終決定権があるものとされた。加えて、陪審を請求して有罪になると、陪審費用の全部または一部が 被告人の負担になった。
このような制度であったため、請求陪審はほとんどなく、法廷陪審でも辞退する場合が85%にのぼり、 辞退率は年とともに増えていった。このようにして、この陪審制度は失敗に終わった。

[コラム 三谷太一郎「なぜ、いかにして旧陪審制は日本に導入されたか」]
明治 10 年代、ボワソナードが陪審制を導入しようとしたが潰された。大正デモクラシーの時代に、 原敬が政治主導で陪審制を導入した。

[第4回 苦闘のバトン 7 月 21 日]
昭和 20 年の敗戦の後で、陪審制は導入されなかった(ただし、日本復帰前の沖縄では、 アメリカ流の陪審制が行われていた)。しかし、死刑囚が再審無罪になるような出来事が いくつか起こり、過去の裁判のありかたが問われるようになった。そこで陪審・参審を導入する気運が高まり、 昭和 63 年から調査が始まり、多くの議論を経て平成 21 年に裁判員制度が始まった。裁判員制度の 特徴としては

といったようなことがある。