NHK 知る楽 歴史は眠らない 2009 08/09月

日本放送出版協会
刊行:2009/08/01
名古屋栄の本の王国中日書店で購入
読了:2009/09/15
捕鯨問題と漢字問題という controversial な話題を扱っていておもしろそうだったので購入。

秋道智彌「日本くじら物語」

長らく国際問題になっている捕鯨のお話。著者は、人類学・民族学の人なので、 捕鯨文化を大事にしていきましょうね、という立場。述べていることは といったようなことである。

以下、内容のサマリー。

[第1回 大国に翻弄された町 8 月 4 日]
ペリー来航は、日本の港をアメリカ捕鯨船の補給基地にすることが目的であった。18 世紀から欧米諸国は クジラの乱獲をして、19 世紀になって日本にまでやってきたというわけだ。欧米の捕鯨は、鯨油とクジラひげを 取ることが目的であった。
一方、日本の太地(和歌山県)では、17 世紀に突き取り式捕鯨と網掛け突き取り式捕鯨が編み出された。 以後、太地は沿岸捕鯨の中心地となっていった。19 世紀後半、欧米諸国が日本にまでやってきてクジラを 乱獲したことのあおりで、「背美流れ」と呼ばれる悲劇が 1878 年に起こった。 これは、アメリカによる乱獲のためクジラが捕れなくなってきていたために、 太地の捕鯨者が悪天候の中無理に出漁し、100 名以上の漁師が遭難して死んだ事件である。 この事件によって、太地の古式捕鯨は終焉を迎えた。 その一方、19 世紀後半になると、アメリカでは石油が発見されて、捕鯨が衰退してきた。
太地は、南氷洋捕鯨によって復活する。しかし、昭和 40 年代にはアメリカが反捕鯨に回り、 昭和 57 年、IWC が一時的捕鯨停止を採択、昭和 62 年、南氷洋捕鯨中止という流れの中で、 太地の捕鯨はふたたび衰退する。

[第2回 捕鯨の精神 今もなお 8 月 11 日]
日本において捕鯨は先史時代から行われてきた。太地では、知多半島からの技術移転をしつつ、 1606 年、和田忠兵衛頼元が突き取り式捕鯨を考案した。その後、和田惣右衛門頼治(太地角右衛門)が 網掛け突き取り式捕鯨を編み出して、太地の捕鯨の繁栄をもたらした。捕鯨は、多くの人々の 協同作業であったために、太地では共同体によるセーフティネットの制度ができていた。 鯨の解体加工、船大工、道具業者なども含めて、太地は捕鯨を中心とした運命共同体であった。
太地では、捕鯨を通して自然を守る伝統も生まれていた。太地角右衛門は、 「海を渡ってくる魚や鳥は安全な場所を求めて来るから、海辺の岩や草木を大切にしなければならない」 という家訓を遺した。

[第3回 鯨食文化の灯は消えず 8 月 18 日]
欧米の捕鯨が鯨油の採取が目的だったのに対し、日本では鯨の肉や内臓まで食べてきた。 地方や時代によっても違うが、多くの部分が利用されてきた。それとともに、クジラに感謝して 供養する文化も各地にあり、たとえば山口県長門市の向岸寺には鯨の戒名も残っている。

[第4回 くじらは誰のものか 8 月 25 日]
西洋では、17 世紀以降、イギリス、オランダ、北欧諸国が捕鯨をおこなって、クジラの乱獲をしてきた。 18 世紀以降、アメリカも捕鯨国に加わった。1925 年以降、母船式の捕鯨が行われるようになり、 クジラの個体数が激減してきた。1948 年に総量規制(捕鯨オリンピック方式)が始まったが、 各国の競争で乱獲は止まらなかった。一方で、マーガリンなどの原料として植物油が普及してきて、 ヨーロッパでは捕鯨が経済的に見合わなくなってきた。そこで、クジラは環境問題の旗印として 使われるようになり、ヨーロッパ諸国が反捕鯨に回って、1982 年、商業捕鯨が全面的に一時停止される ことになった。
一方、日本においては、戦後間もなくの頃は、食糧難の救世主として捕鯨が奨励された。 その後、昭和 40 年代ころまで安い蛋白源としてクジラが広く食された。 その後の国際的な反捕鯨の嵐の中で、日本の捕鯨は急速に衰退していった。


円満字二郎「戦後日本 漢字事件簿」

現代の「常用漢字表」につながる漢字制限の歴史の話。 講師の名字が「円満字」なのが面白い。ペンネームでないとすれば、文字が取り持つ縁なのだろうか?

[第1回 禁じられた「八紘一宇」―戦後民主主義と当用漢字の誕生 9 月 1 日]
明治から終戦直後までの漢字制限論の流れをたどると次のようになる。

コラム [一九四〇年夏、海辺の二つの掲示板]
明治時代にできた法律には、「袒裼(たんせき)、裸[衣へんに呈](らてい)」(意味は、 着物を脱いで裸になること)といったような過度に難しい単語が使われていた。

[第2回 “名前の漢字”をめぐる攻防―1950年代、孤立する漢字制限論 9 月 8 日]
当用漢字表は、始まって早々から問題を生み出した。「弘」など名前に良く使う漢字が入っていなかったために、 出生届が受理されないという事件が頻発したためである。1950 年には、松原宏遠さんが、 わが子の名前に瑛美、玖美という字が使えないのは、表現の自由を制限していて、憲法違反であるという裁判を起こした。 裁判では訴えは却下されたものの、世論の高まりによって、名前の漢字制限撤廃のための戸籍法改正案が出された。 ところが、国語審議会は、人名漢字別表 92 字を加えることで、漢字制限は維持しようとする方向で動き、 参議院を戸籍法改正案反対に仕向けて、法案は廃案となった。人名漢字別表の制定により、世論も鎮静化した。 松原瑛美さんは、その後しかたなく戸籍上の名前をエミというカタカナにした。
ところで、新聞は、おおむね当用漢字に賛成してきたのだが、新聞社自身、題字の「新」の字に横棒が一本多い ものを使っていたりする(たとえば、朝日新聞は現在でもそうである)。新聞も、自らのアイデンティティに 関しては、原則を曲げてもこだわりがあるらしい。

コラム [一九六四年、意味深な裁判官]
離婚するときに「中島」という姓を変えることを約束して離婚した妻が、ペンネームで元の姓を使い続けたことに対して、 元夫が止めろという裁判を起こした。妻は敗訴したのだが、判決では「中嶋」なら大丈夫とほのめかされていた。

[第3回 常用漢字への軌跡―1970年代、個性の時代の中で 9 月 15 日]
国民の教育水準を上げるという意味で、当用漢字がある程度の目的を果たした一方、 当の国民は自らを表現するために漢字制限を逸脱することが発生してきた。 たとえば、学生運動家は極端な略字をよく使った。水俣病の被害者は、当用漢字には無い「怨」の一字を 旗印にした。暴走族は、やたらに複雑な漢字をグループ名に使った。このような多様化の時代の中で、 1981 年、当用漢字表が廃止、常用漢字表が採択され、漢字使用の「目安」と性格づけられた。

コラム [一九七〇年、とある団地での悲劇]
母親が漢字で名前を書けない娘を折檻して、娘が死んでしまうという事件が起こった。教育の競争激化を 反映した事件であった。

[第4回 漢字制限の“遺産”―常用漢字から新常用漢字へ 9 月 22 日]
1980 年代以降、ワープロが急速に一般化して、漢字が印刷のために非能率であるという問題が消滅した。 さらに 1990 年代以降、インターネットが発達して、一億総表現者時代になった。 多くの人が多くのことを勝手に書くようになった中で、現在、まとめられつつある新常用漢字表の試案では 5 字が削除され、191 字が追加されている。「常用」の範囲は人によって異なる。 そうなってくると、問題は、何のために常用漢字表が必要なのかということになる。 著者は、問題は教育であろうと考えている。