日本仏教史 思想史としてのアプローチ

末木文美士著
新潮文庫 す 13 1、新潮社
刊行:2006/09/01
単行本の元になったもの:「図説日本の仏教」全六巻 (1988-1990) の中の解説 文庫の元になったもの:2002/04 新潮社刊
名古屋瑞穂通りの古本屋 BOOK OFF 新瑞橋駅前店で購入
読了:2009/09/09
古本屋店頭で見つけて買った。最近はけっこう仏教が流行っていて、仏教関連の本が出ているように思う。 日本の多様な仏教思想をひととおり眺められるようになっている。 本覚(ほんがく)思想とその影響が重要だとして、ひとつの軸になっているのが特徴 (最近のトレンドなようだけど)。

仏教というのは元々超世俗的宗教だから、そのままの形ではなかなか広まらない。そこで、その土地の 風土と混ざって変容してゆくことになる。そのような変容がいろいろな形で起こったのが日本である。 本来の仏教からすれば堕落とも見えることが、日本の風土の深層心理を表している。

橋本治の巻末の解説もおもしろい。いわく、ブッダの教えはシンプルで「思い込みを捨てて、 冷静に自分の頭で物事を考える」ということだったのだが、日本にやってくると「ただ祈れ」みたいに 全然違うものになってしまっている。こういう訳の分からないところのデータを提供してくれているのが この本だということである。


以下、簡単なサマリー。

第1章 聖徳太子と南都の教学
日本に初めて仏教が入ってきたとき、仏は神の一人として受け入れられた。聖徳太子は、伝説の多い人物で、 「三経義疏」を著したとされるが、大陸からもたらされたものであるとする説もある。奈良時代には、 国分寺・国分尼寺が建立され、東大寺盧舎那仏が造られた。このような国家仏教とともに、行基に代表される 民間仏教もさかんになってきた。学問仏教には南都六宗がある。南都六宗は、 倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律(りつ)・三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)の 6つである。「宗」といっても、教団というわけではなくて、今で言えば大学の学科のようなものである。
第2章 密教と円教
平安仏教は、鎌倉仏教に比べて研究が遅れている。804 年の遣唐使船で、 最澄は還学生(げんがくしょう:短期留学生)として、空海は留学生(るがくしょう:長期留学生)として 唐にわたり仏教を学ぶ。最澄は、天台山で学んで日本に天台宗を伝える。空海は、密教を学んで高野山を開く。
最澄に始まる日本天台宗では、円(天台の教理)・戒(戒律)・禅・密(密教)の4つが総合されている。 最澄は、晩年2つの論争に明け暮れる。ひとつは、法相宗の徳一との教理上の論争で、中国で行われていた 一乗・三乗論争が日本に持ち込まれたものである。もうひとつは、独自の大乗戒壇を比叡山に設けようとした ことに対する南都の反対を押し切ることであった。
普通の仏教が無我や空などの思想で永遠の実体を否定しているのに対し、密教では大日如来を 永遠の絶対者であるとする。このような点で、密教は仏教の中の異端である。空海は「即身成仏義」で、 密教の理論を体系づけ、「十住心論」で仏教諸宗や道徳を体系づけ密教が最高のものであるとした。
天台宗は、その後、円仁・円珍・安然らによって密教化してゆく。加持祈祷が求められたことと、 空海の理論を学んだりしたことによるのだろう。この後、天台の密教は、大日の下に現象世界一切を 肯定するという方向に進む(本覚思想)。
[吉田感想:これだけ読むと、密教というのは、箱は大きいけど中身は空っぽ、という感じがする。 こんなふうに密教が理論的にも堕落したので、鎌倉仏教が生まれたのではないだろうか?]
第3章 末法と浄土
永承7 (1052) 年、末法第1年(仏が亡くなって 2000 年)となる。末法とは、仏の教えはあるけれども 修行や悟りはなくなるという暗黒時代である。折しも天変地異が相次ぎ、社会が不安定化してゆく。 もっともこの計算の基礎である仏滅紀元前 949 年説は、中国で捏造されたものである。 正しい仏滅年代は、紀元前 4-6 世紀のどこかと考えられている。また、正法・像法の年数も、 中国では一定しておらず、末法1年 1052 年説は日本でだけ広まった。
比叡山の恵心僧都源信は 985 年、「往生要集」を著した。「往生要集」の冒頭の地獄の描写は有名である。 しかし、その中心は正修念仏(しょうじゅうねんぶつ)である。そのさらに中心は「観察門」とよばれる 阿弥陀仏の姿を観想することである。念仏と言っても、単に南無阿弥陀仏を唱えるだけではない。
本覚(ほんがく)思想という日本独特の思想が比叡山の天台宗で、院政期ころに始まり中世に発展した。 それは、衆生のありのままの姿が悟りの表れであり、さらには草木国土すべてが悟りを開いているという 汎神論的な世界観である。スローガンとしては、「草木国土悉皆成仏」とも言われる。 この考え方は中世の芸術・芸能などにも広く影響を与えている。ただし、一方で、安易な現状肯定と 努力の放棄につながる危険性を持っている。草木成仏の考え方の源流は中国にある。とくに唐では 草木も成仏するという考えがさかんだった。それが日本に輸入されて、さらに進み、本覚思想では、 一本一本の木や草がそれぞれそれ自体で成仏しているという考えに変わった。 本覚思想は、仏教全体からすると以下のような立場になる。仏教では、現実世界は因果がいろいろと からまりあっているという「縁起」の原理を認識することが悟りである。悟りを得るためには 長くて困難な修行が必要というのが本来の仏教だったが、修行など必要なく現状そのままで悟っている とするのが本覚思想である。
第4章 鎌倉仏教の諸相
鎌倉仏教が成立した背景には本覚思想がある。本覚思想は現状肯定的で堕落しやすいので、 何とか実践性を取り戻そうという動きが2つの方向で現れた。ひとつは、南都の改革派のように 戒律を復興しようとしたり、禅の修行に励んだりすることである。もうひとつは、 浄土念仏や日蓮の唱題などのような新しい実践の方向である。
ここでは、鎌倉仏教を3期に分けて考える。第一期は鎌倉幕府誕生から承久の乱まで、 第二期は執権政治の安定期、第三期は元寇以降の動乱期である。第一期には、法然と栄西が現れた。 法然は念仏を広めたが、旧仏教からは貞慶によって批判され、弾圧に遭った。しかし、念仏は それを乗り越えて広がった。栄西は禅を広めた。栄西は権力と接近し、禅は公認されるようになった。 第二期には、明恵、親鸞、道元らが現れた。明恵は、旧仏教の立場から法然を批判するとともに、 仏光観という観想の一種の実践を説いた。親鸞は、信の一念で往生が決定し、往生が悟りの世界に 至ることとした。道元は、座禅が悟りであるとした。第三期には、元が攻めてきて南宋が滅ぶ中で、 否応なく日本独自の思想が育まれるとともに、現実への関心が強まった。日蓮は、法華信仰を説き、 法華経に依らなければ国が乱れると説いた。一遍は、踊り念仏とお札配りで念仏を広めた。 一遍には土着的な要素が強い。一方、旧仏教側では、叡尊・忍性の戒律復興運動と慈善救済活動が起こった。
室町時代には、臨済禅が幕府と結びついて中心勢力になった。
第5章 近世仏教の思想
江戸時代には、本末制度と寺檀制度を通じて、仏教は幕府の支配装置に組み込まれた。
仏教はいろいろな立場から批判を受けるようになった。儒教の藤原惺窩(もとは僧であった)は、 仏教が世俗を超越しているところを批判して、世俗倫理にこそ真理があるとした。 仏教でもこれに応える動きがあり、禅宗の鈴木正三や真言宗の慈雲飲光は、世俗倫理を重視する書物を著わした。 江戸時代には、合理的な思想も出てきた。 富永仲基は、仏教思想史の研究から、仏教の経典がすべて釈迦が説いたものではないと主張した。 山片蟠桃は、合理的唯物論の立場から、輪廻やら須弥山説やらを批判した。 仏教界は、これらの合理論にはうまく応えられなかった。
仏教内部での論争もあった。天台宗においては、最澄以来の大乗戒を批判し、それ以前の厳しい 四分律を学ぶべきだとする安楽律派が勢力を伸ばした。浄土真宗では、功存(こうぞん)らが 身・口・意の3つのはたらき(三業)をそろえて往生を願うことが必要だと主張し、 三業惑乱と呼ばれる騒動に発展した。日蓮宗では、もともと不受不施(ふじゅふせ)、すなわち 法華経を信じない人との布施のやり取りを禁じていた。ところが、時の権力から弾圧を受けて 妥協する者が現れ、非妥協派は地下に潜った。
幕末には、天理教をはじめとする新宗教が興った。
コラム 仏教土着
仏教が葬式にかかわるようになったのは、日本では奈良時代のころからである。江戸時代の寺檀制度で 葬式仏教が確立する。仏教では、本来は死者供養はしなかった。しかし、死者供養の原形はインドで すでに出てきていて、死者供養は中国で発展した。日本では、仏教の呪力が葬式に強く結びつくことになった。
第6章 神と仏
日本における神は、もともと「人知を超えた恐ろしいもの」であった。仏は、最初は神の一種とされて 迎えられた。やがて、仏教は政治や大陸文化と結びつくことで、古来の神々は仏に従属することになった。 従属のパターンには3つある。(1) 神が仏の救済を必要とする。(2) 神が仏法を守護する。(3) 本地垂迹。 鎌倉時代から神道理論が出てくる。仏教系の山王神道、両部神道、神道の側からの伊勢神道などである。 室町末期の吉田神道で、仏教から独立した神道の立場が打ち出された。ただし、仏教に比べて神道の優位性を 主張するのは無理もあった。というのも、仏教の方がもともと内容が豊かなので、神道の優位性は 始原的な純粋さのようなところに求めないといけないからだ。
役小角を伝説的な開創者とする修験道が平安時代から出来てくる。教理的には本覚思想の影響もあって、 大自然を肯定して、それと一体化する即身成仏が目標とされた。
終章 日本仏教への一視角
日本の仏教は、元々の仏教とはかなり違っていて多様性も大きい。これまで 歴史学と仏教学の両面からの研究がなされてきた。今後は、民俗学からの研究も望まれる。
日本では仏典は漢文訓読で読まれてきた。そのために勝手で強引な解釈もしばしばみられる。 日本の仏教は、本覚思想に見られるように現世主義的に変容している。これは一方で、仏教が 思想的に崩壊する要因にもなった。仏教は日本に溶け込んだが、そのことによって仏教の根は 腐ってしまったのかもしれない。