戦国仏教 中世社会と日蓮宗

湯浅治久著
中公新書 1983、中央公論新社
刊行:2009/01/25
名古屋栄のジュンク堂書店ロフト名古屋店で購入
読了:2009/09/21
日蓮宗の戦国時代の発展について書いてある本。宗教の解説というよりは、日蓮宗関連の文献から 宗教がどのように民衆に浸透していったかを解説するとともに、もっと広く当時の民衆や社会の動きを 浮き上がらるのが主旨。興味深く読めたけれども、一方で、見えてくるものが断片的なのが少し不満。 日蓮宗が少しずつ広がっているのはわかるけれど、どのようにどの時点でなぜ広がったのかは 漠然としかとらえられない。数少ない断片的な資料からの推測だから、しょうがないことと言えば そうなのかもしれないけれど。
以下、サマリー。

第1章 戦国仏教とは何か
中世においては鎌倉仏教は異端であった。中世の主流は、古代以来の顕密仏教であった。 このことは 1975 年、黒田俊雄によって唱えられて、以後主流の考え方になった。 顕密仏教は、呪術、祈祷、荘園制などを通して民間に浸透していた。日蓮宗や浄土宗などの 鎌倉仏教が影響力を持ってくるのは、戦国時代からである。本書では、日蓮宗に注目して 社会への定着過程を見ていきたい。
第2章 日蓮―祖師の生涯と鎌倉社会
日蓮は 1222 年生まれ。比叡山に学び、法華経のみに依るべきだという「是一非諸」という 過激な主張に至った。このために迫害され、佐渡配流になり、1274 年以降身延に隠棲、1282 年死去。
日蓮は、現世を「穢土」として否定する浄土教を激しく批判した。さらに、「仏法」を「王法」の 上に位置づけることで、旧来の顕密仏教を越えていた。鎌倉の前浜を管理していた律宗は、権力と関わって 商業や貿易もやっていたので、日蓮はそれを堕落していると批判した。
13 世紀には飢饉が頻発した。そのため、百姓はしばしば奴隷に転落し、支配者たちもしばしば借金で苦しんだ。 当時は、社会のセーフティーネットのようなものが無かったことも人身売買が横行した理由であろう。
第3章 門流ネットワークと南北朝動乱
日蓮の死後、弟子たちはいくつかの門流に分裂してゆく。南北朝の内乱の時代の中で、各門流は、御家人の 外護(げご=庇護)を得たり、民間の金持ち(有徳人)の寄進や協力を得たりして、勢力拡大を図っていった。 有徳人は、特定の宗派や門流にあまりこだわらずに仏教を支援した。
第4章 日親―結衆と一揆の時代を生きる門流ネットワークと南北朝動乱
15 世紀も飢饉の多い時代だった。政治的には、南北朝統一ののち 15 世紀前半は比較的平穏だった。 しかし、15 世紀後半になると、応仁の乱から動乱の時代に突入する。そんな中、中山門流の日親が 非常に原理主義的だったので、貫首日有と対立する。その対立を日親が記録した「折伏正義抄」から、 日蓮宗が他宗や神祇に対して寛容になることによって、徐々に民衆に浸透していった様子がうかがえる。
第5章 西と東の日蓮宗
京では 15 世紀あたりから日蓮宗が勢力を伸ばしている。門流の間ではいろいろな論争があったものの、 山門との対決を機に 1466 年、大同団結が成立する(寛正の盟約)。社会情勢の混乱から武装化も始まる。 1536 年、山門と日蓮宗との武力衝突が起こる(天文法華の乱)。この戦いでは、六角氏が山門に加担したため、 山門側が勝利する。復興の中で、1565 年、日蓮宗諸寺院が会合として結合することを決める。
寺院法の型は、日本の東西で性格が違う傾向がある。 東国では、武家が外から決めてしまうものが多いのに対し、西国では、僧侶や信者がみんなで決めるものが多い。
第6章 戦国仏教の成立
戦国時代の仏教の民衆への浸透を3つの寺の資料から浮き上がらせてゆく。
第1は、千葉県松戸市の本土寺の「本土寺過去帳」である。14 世紀末期から 300 年間の死者の記録である。 15 世紀半ばから 16 世紀の初めまでは飢饉の時代であったことが読み取れる。また、大野郷の関連記事が多く、 寺と村と領主のつながり、民俗信仰との共生などがうかがえる。
第2は、山梨県河口湖畔の常在寺の「常在寺衆中記」である。とくに 1466-1563 年の詳細な年録がある。 ここからも多くの飢饉が読み取れる。産土神の神事のことも書いてある。明応の東海・東南海地震 (1498 年) の記録もある。天文 20 (1551) 年の飢饉の翌年には出開帳があった。民俗信仰の記載もある。そういうわけで、 天災の続く中、また民衆の信仰と折り合いを付ける中で日蓮宗が広がっていた様子がうかがえる。
第3は、備前国牛窓の本蓮寺の関係資料である。牛窓は、瀬戸内航路の拠点の一つである。 本蓮寺は、商人とみられる石原氏から支援を受けて建立された。本蓮寺は、金融活動もやっていて、 それに関連して敷地を広げていた。祈祷や追善供養などで、民衆に浸透していったらしい。