【信長の戦い①】 桶狭間・信長の「奇襲神話」は噓だった
藤本正行著
新書y 206、洋泉社
刊行:2008/12/22
千葉県習志野市の古本屋 BOOK OFF モリシア津田沼店で購入
読了:2010/06/14
桶狭間の戦いの戦場は私が今住んでいる名古屋市緑区、ということで、古本屋で見かけたので
買ってみた。面白かったので一晩で読破した。
著者によれば、桶狭間の戦いに関しては、「信長公記」のみが信頼できる資料ということのようで、
そうするとわかることは限られるけれども、それでしょうがないということのようだ。
で、「信長公記」によると、桶狭間では、信長は今川軍に正面から攻撃を仕掛けたのであり、
戦場は名古屋市緑区の東海道沿い(名鉄の駅で言えば、鳴海から中京競馬場前にかけて)
ということになる。
現在の地名を付けて言えば、当日以下のように戦いは進行した。
住んでいるところが同じ緑区内なので、ある程度地理が分かって興味深く読むことができた。
現在桶狭間の地名がある緑区有松町桶狭間は戦場からは少し外れているようだ。
- 朝、信長が清洲を出発。
一方、今川軍の先陣部隊(松平元康ら)は、鷲津砦(緑区大高町鷲津山)と丸根砦(緑区大高町丸根)を落とす。
- 昼、信長は善照寺砦(緑区鳴海町砦)に着いて状況観察。今川軍本隊は、緑区平子が丘〜緑区曽根〜緑区左京山〜緑区大高町平部高根のあたりのどこかの一帯に布陣。
- 織田軍の佐々、千秋が抜け駆けするものの、あえなく今川軍に潰される。
- 信長が中嶋砦(緑区鳴海町下中〜緑区曽根)に移動。
- 突然の豪雨発生。
- 雨がやむと同時に、織田軍が緑区平子が丘のあたりにいた今川軍の前衛軍を急襲して蹴散らす。
- 織田軍は敗走する今川軍をだいたい東海道に沿って追いかける。最後は田楽狭間(名鉄の中京競馬場前付近、豊明市の桶狭間古戦場跡付近)のあたりで義元を討ち取る。
そういうわけで、織田軍は今川軍を正面から急襲して撃破した。善元を討ち取ることができたのは、
運が良かったので、最初からそのつもりだったわけではない。
信長がなぜ多勢に無勢をひっくりかえして勝利したのかということは、著者は明確には
書いていないし、要するにはっきりとは分からないということだと思う。しかし、
それに関連することがらを2つほど書いている。
- まず、両軍の人数の数え方が難しい。「信長公記」には、信長軍二千足らず、今川軍四万五千という
数字が出ているが、このうちどのくらいが実働だったのかがわからない (pp.50-52)。
「信長公記」の信長軍の数は、実働に近いのだろうが、善照寺砦の守備にある程度の数を
割いていたかもしれず、もう少し少なかったかもしれない。今川軍はそもそも数字の信憑性が
不明な上、四万五千がどの範囲を指しているのかが不明で、実働にするには、留守部隊、
非戦闘員の兵站部隊、大高城や鳴海城にいた部隊などを差し引く必要があるだろう。
その結果の人数は全く不明である。
- 当時の戦闘の常識は、夜中に軍を展開し、明け方に戦闘が始まるというものだった。
ところが、信長は、朝清洲を出て、熱田を通って、午後に戦闘を始めるという
日帰りコースを選んだ。これが、今川軍としてはちょっと予想と違ったということはありそう
(pp.55-57)。とはいえ、今川軍はまったく油断していたというわけでもなく、北西に向かって、
つまり正しく織田軍の方向に向かって布陣していたようだ (pp.30-31)。
本書の後半2/3は桶狭間の戦いに関する通説や最近の新説を論破することに割かれている。
- 簗田出羽守政綱による諜報活動が勝利のポイントだという説がある。これは明治時代に
参謀本部が作った「日本戦史」が捏造したもので、さらに武岡淳彦「戦国合戦論」や
小和田哲男「国際情報人信長」では「簗田特務機関」とでもいうべき組織になっていたという
尾鰭が付いている。しかし、今川の大軍に見つからないように様子を探るのはほぼ不可能であっただろう。[第5章]
- 最近、黒田日出男が「乱取状態急襲説」を出した。今川軍が油断してあちこち略奪を働いている所を
織田軍が急襲したという説である。これは「甲陽軍鑑」に基づく。しかし、「甲陽軍鑑」は
誤りが多くて信用できない上、近くに略奪できるような町はないし、今川軍から織田軍は
見えていたと考えられるのでそこまで油断していたとは思えない。[第6章]
- 最近、橋場日明が、織田別働隊による迂回奇襲説を出した。これは「信長公記」を
誤って解釈している。[第7章]
- 最近、太田満明が「狂気の信長による正面奇襲説」を描いている。恣意的で情緒的な解釈が
多く、現実離れしている。[第8章]
- 通説であった迂回奇襲説は、「甫庵信長記」に端を発し、参謀本部の「日本戦史」で
確立された。「甫庵信長記」は、そもそもそれほど信用できない。「日本戦史」に描かれた
桶狭間神話の影響で、太平洋戦争においては無闇に奇襲作戦が立てられ、ほとんどが無惨に失敗している。
奇襲などそうそううまく行くはずがない。[第9章]
結局のところ、奇襲戦法が成功する確率は低く、信長は正攻法で今川軍を破ったというのが
著者の考えである。多少不利な状況をスピーディーな果断でひっくり返すというのが信長の
真骨頂だったようである (pp.61-63 など)。