真昼のプリニウス
池澤夏樹著
中公文庫 い 3 4、中央公論新社
刊行:1993/10/09
文庫の元になったもの:1989/07 中央公論社刊
名古屋市緑区の古本屋 BOOKOFF 名古屋滝ノ水店で購入
読了:2010/08/27
この小説の主人公の芳村頼子(よしむらよりこ)は火山学者で、研究対象としてここでは浅間山がでてくる。といっても、この小説のテーマは火山にあるのではなく、むしろ科学では語れないような何かである。言葉で語ることの限界のようなもの。それは、小説というものが常に追っているものかもしれない。そのようなものを語らせるために科学者を出してきているのがうまい仕掛けである。女性科学者にしているのも、男性にそういう微妙な感性を語らせるとリアリティがなくなるせいかもしれない。
主要登場人物には、それぞれ異なる感性を持たせてあり、それらを折り重ねて主人公の感性を浮き立たせている。
- 門田(もんでん):主人公の弟の友人で広告業界の人。電話をかけると、at random に小さなお話が聞こえてくるというシステムを作ろうとしている。名付けて「シェヘラザード」。主人公は最初は興味を持つものの、だんだんと反発を覚えるようになる。その言葉を弄ぶような言い方に主人公は反発するのだが、門田の言葉には一種の真実が含まれていておもしろい。たとえば、
ぼくは神話とか物語とか、そういうものの製造と販売を仕事にしてきました。できあがった物語として人に聞かせるのではなく、相手の心を読んで、それに合わせた物語を提供する。およそ人心の操作において、これほど強い武器はない。そもそものはじまりから、人は自分が望むような物語を自分で作って自分に聞かせてきた。それはあなたの言うとおり右手で左手をだますような行為だった。(p.228)
- 神崎幸三郎:製薬会社の社長だが、易がうまい。この人の易に導かれて、頼子は最後の場面で浅間山に独りで登る。観念論的な台詞がある。
人があるから世界があると、こうは考えられんかな?人の目が向く先に景色が生じ、草木が生え、お日さんが光る。易というのは、その生じかたを見てとる方法、遠い世界を望遠鏡で見るのではなくて、人の目の先をしっかりと見てやる方法だよ。(p.210)
- 壮伍:主人公の恋人で、今はメキシコで遺跡の撮影をしている。手紙が時々主人公のところに届く。その言葉が思索的なのだ。たとえば、
事実をこの手紙の文章の中に閉じこめてしまったことを、ぼくはどこかで悔いているのだ。本当はこんなものではなかったという思いがつきまとう。ではどんな風だったのか、それを説明しはじめれば便箋の数ばかりがいよいよ増えて、そして言葉が多くなる分だけまた事実からは遠くなるのではないだろうか。(p.150)
- ハツ:鎌原火砕流をすぐ隣の集落で体験し、体験談を書いたことになっている女性。主人公が架空のインタビューをする。
あとになってから言葉にすれば、それは目の前にあって、掌に乗せることもできます。とても恐ろしかったけれども、そこに書かれた以上には恐ろしくなかった。そういうことが言えると思います。(p.177)
こういった引用から、この小説が描こうとしているのが、人間と言葉と真実の間であることがわかるだろう。言葉で捉えられそうで捉えられない世界という真実、その中での言葉の役割。
主題は、科学ではないにしても、それなりに良く取材をしてあるらしく、学者の生態はよく描けているし、科学的な知見もあまり間違っていない。細部にも手を抜いていないようだ。
たとえば、研究者の日常を言い当てている一節 (pp.58-59):
次の論文のアイディアはなかなか具体的には展開せず、雑務ばかりが時間を盗んだ。仕事の中心には興味深いことがたくさんあるのに、そこに到達するのは容易ではない。立ち止まって考えれば苛立つことになるから、仮の運動感で自分を麻痺させる。動いているのだから何かしていると思わせる。その一方で、それで満足してはいけないと自分に向かって小さな声で言う。事態が何も変わっていないことはわかっている。だが、どう変えればいいのかわからない。一つの分野の中堅になるというのは、こんなことだったのかと思う。どこかでだまされたような気持ちだ。
あるいは、地震予知に関する警句 (p46)
つまり、いずれにしても、恐怖と警戒心で予算が付くのは事実ですよ。予知の研究はいわばスポンサーの要請じゃないんですかね
そして、何より第4部の「天明三年浅間山大噴火の記録ー大笹村のハツ女の体験記」が面白い。体験記は創作だと思うけど、おそらくきちんと実際の噴火の記録を調べてあり、迫力がある。
けれども、細かいツッコミを入れるならば、以下のようなことに気づいた。
- p19 200kbar:一桁大きすぎる。200kbar だと、遷移層の圧力で、マグマができる深さとしては、ふつうは深すぎる。
- p36 地球というのは中の方は液体だし、地殻はその上に浮いている…:マントルは固体で地殻はその上に浮いているのだから、これは誤り。ただし、これは学生の台詞だから、このように間違っているのもリアリティがあるとも言える。主人公の頼子の台詞としては、たとえば pp.19-20 では、沈み込み帯でのマグマの生成について正しいことが書いてあるから、作者はちゃんと理解しているのであろう。
- p78 噴石や火砕流より溶岩流の方が怖い:技手の風間がこのように言っているが、ふつうは溶岩流より火砕流の方がスピードが速い分怖い。しかし、これも火山学者ではなく、技手の台詞だから、ちょっと違っていてもダメということでもないだろう。