二十億光年の孤独

Two-Billion Light-Years of Solitude

谷川俊太郎著、William I. Elliot・川村和夫訳
集英社文庫 た 18 9、集英社
刊行:2008/02/25
文庫の元になった単行本:1952/06 創元社刊、英訳:1996/05 北星堂書店刊
名大生協で購入
読了:2010/08/02
谷川俊太郎の処女詩集である。この文庫版には、英訳が付いており、 さらに付録の部分が充実していて、谷川俊太郎自身によるちょっとした解説と自伝風の文章があり、 山田馨(岩波書店の元編集者)による解説があり、 丸っこく几帳面な字で書かれた自筆ノートの一部がある。 これらの付録を読んでから改めて詩を読むと理解が深まる。 というのも、これらの詩は必ずしも出版を意識して書かれていないせいか、 私的な部分を多く含んでいるからだと思う。

モチーフとして数多く登場する春や宇宙や電車などが、 若さというか幼さ(良い意味で)を感じさせる。 掲載されているが書かれたのが1950年頃、ということは終戦からまだ5年しか経っていない。 歌謡曲の「青い山脈」もまた同時代の歌で、 同種の明るさが感じられる気がするのはその時代の空気であろうか。

以下、掲載されている詩のいくつかを取り上げてみる。 自作解説や英訳などを一緒に読むとわかることもあったので、そんなことを中心に書く。

祈り
読んだだけではわからないけれど、英訳の注によると、 この詩は朝鮮戦争の間に書かれたものだそうだ。中ほどの部分を引用しておこう。
人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりの前に僕は祈ろう
理屈より祈りが重要だと言っているところに、詩人の戦争への不安感が反映されている。
かなしみ (Sadness)
2連6行からなる短い詩である。英訳を読んでいて気づいたのだが、 2つの連の間に行ごとの対応関係があることがこの詩のポイントになっている。 訳でも対応関係があるのだが、その対応関係が異なるところがおもしろい。 訳者が苦労して、英語として自然な対応関係を作ったのであろう。 以下、全文を引用して対応関係を見てゆく。
あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
Somewhere in that blue sky
where you hear the sound of waves,
I think I lost something incredible.

Standing at Lost and Found
in a transparent station of the past,
I became all the sadder
日本語の方は、それぞれの連の一行目が場所、二行目は「おとし物」と「遺失物係」、 三行目は「僕」がしたこと、という具合に対応している。 これに対して、英語の方は音の呼応があって、 一行目は S という強い子音で始まり強勢が3カ所、 二行目は sound of waves と station of the past が響き合い、 三行目は I で始まり、 something と sadder がともに s の音で始まる。 英語だと題名が Sadness なので、s の音がいたるところで響きあうことになっている。
わからない単語が2つあったので、ネットで調べてみた。 それは「亜成層圏」と「ミス・クロソー ミス・ランキス ミス・アトロポス」である。 前者は、長距離爆撃機が飛行する高度としてよく出てくる。 後者は、ギリシャ神話の運命の三女神で人間の寿命を決めるのだそうだ。 ということで、どちらも、人の生死がテーマのこの詩を彩るのにふさわしい単語なのだった。
はる
漢字の「春」という詩もあるけれど、これはひらがなの「はる」。 詩も全部ひらがなで書かれている。 どんどん空を昇って神様のところまで行ってしまうという単純な内容だけど、 このひらがなと相俟って、素直に幼さ(これまた良い意味で)と育ちの良さが出ていて、 いかにも谷川らしくて好きになれる。童話のようでもある。
二十億光年の孤独
詩集の表題となっている作品である。作者によると、二十億光年は、 当時作者が宇宙の直径だと思っていた値だそうである。 今ならもっと大きな数字にするのだろうか。作者は、社会生活の苦手な青年だったようで、 であればこそ宇宙と直接対峙しているような実感を持っていたそうだ。 それがこの詩に現れている。宇宙と作者との軽い一体感が感じられる。 たとえば、詩は以下のように終わる。
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
ネロ ―愛された小さな犬に
作者の解説によると、ネロは隣の家の犬だそうである。それから、 ここに出てくるメゾンラフィットの夏/淀の夏等々の夏は、 谷川が体験したり本を読んで味わったりした夏だそうだ。 夏の強い陽射しの中でネロの死を思いだして、これから自分が生きる未来を力強く見つめている、 そういう詩だそうだ。
中ほどから引用:
新しい夏がやってくる
そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく
美しいこと みにくいこと 僕を元気づけてくれるようなこと 僕をかなしくするようなこと
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろうと
最後の3つの問いは、作者によれば、 当時の作者の未来に向かった性急な意志のあらわれだそうだ。 実際、何についての問いなのかがあまりはっきりしない。英訳も難しいだろうと思って見てみると
what are all these things,
what's brought them on,
what can I do with them?
ということで all these things つまり、 その前に書かれている「新しいいろいろのこと」に関する質問であるということになっている。 この解釈も十分ありうるけど、もっと漠然とした焦燥感かもしれず、 それが作者自身の解説による「若い性急さ」のあらわれなのだろう。
現代のお三時
最初の3つの連は、文明批判と野生への憧れである。それだけだと、よくありがちで、 私からすると考えが甘いのではないかと思ってしまう。そもそも文明が発達しすぎたために、 詩という形式では批判しきれなくなってしまったのだ。 文明批判的な詩は他にもあったけど(たとえば「病院」)、私はそれらをあまり評価しない。 ところが、この詩の場合は、最後の連の調子をがらっと変えて夢見がちにしているので 少し救われている。
この飲みものはお伽話
このクラッカアは小麦色の牧場
あの雲は古風なフーガ
せめてお三時を夢にしよう
見方によっては、育ちの良い坊やの別荘でのおやつの時間(だと思う)への逃避ではある。 しかし、さらにひっくり返して言えば、育ちの良い坊やの気持ちが素直に現れているとも言える。
山荘だより3
ちょっとした英訳の問題。元の詩が
堆積と褶曲の圧力のためだろうか
となっているところが
With accumulation and tectonic shifting,
と訳されている。でも、地球科学者なら
Under the pressure of sedimentation and folding,
と訳すはずだ。堆積も褶曲も地球科学用語だから、こっちを使ってほしかった。
山荘だより4
ちょっとした英訳の謎がある。元の詩が
吾亦紅(われもこう)から
共産党問題を
女郎花(おみなえし)から
女権拡張問題を
蛍袋から
住宅問題を
連想しろとてそれは無理だ
となっているところの英訳が
There's no sense in asking me to assochiate
the red poppy
with the Communist Party,
the daphne
with women's rights,
or the bell-flower
with the housing problem.
となっていることで、確かに蛍袋は bell-flower なのだが、 そのほかの2つの植物は日本語と英語が対応していない。なぜだろうか? そもそも日本語の詩の方でなぜこの植物名が書かれているのかがはっきりとはわからない。 私の勝手な想像だと、吾亦紅は「私も赤い」と読めるから共産党を連想させ、 女郎花は「女郎の花」→「強い女の花」と読めばフェミニズムを連想させ、 蛍袋を「蛍の住処」と読めば住宅を連想させるということだろうか。 あるいはもっと深い意味があるのだろうか? すると、英語の方はどうだろう?red poppy で連想するのは、 Remembrance Day (あるいは Veterans Day, Poppy Day)と呼ばれる 戦没者記念日なのだが、共産党との関係は?単に赤いということで関連づけているのだろうか? daphne(学名で言えばジンチョウゲ)で最も連想しそうなのは、 ギリシャ神話のダフネであろう。 ダフネがフェミニズムの原点だと書いてある 論文を見つけた。 女性の自立を連想させるというのは理解できる。 また、ダフネがアポロンの求愛を拒否したという神話からのネーミングであろうが、EC に The Daphne Programme という女性や子供に対する暴力を防止する計画がある。
埴輪
詩という表現形式に感服してしまう作品である。埴輪を見て説明を書けと言われても、 私であれば、なんと書いて良いかわからなくなってしまう。もちろん、 感受性が足りないせいと、つい理屈っぽく考えてしまうせいもあるけれど、 表現の仕方がわからないせいでもある。そういった障害を乗り越えて、 実にみずみずしく埴輪の神秘性と土俗性が表現されているのである。