進化心理学的には、宗教の「起源」という言い方には本当は語弊がある。 ポイントは、世代を受け継がれていく間に淘汰されて消えてしまうことが無い性質は何か? ということである。宗教の最初の形はどうであれ、伝わりにくい性質は伝わらない。 人間の思考に合った伝わりやすい形式だけが伝えられる。 そのような形式は、あらゆる宗教に共通のはずである。 そこで、人類学の知見から宗教に共通の性質を取り出し、 その性質が無意識の思考や推論のシステムに適合していることを示す、 というのが本書で試みられていることである。
宗教ってこんなものということが初めて分かった気がした。 宗教の本質は教義ではなくて、むしろ御利益とか厄除とか葬儀などが重要と言われれば、 現在の日本の状況にもぴったり合うし、したがって非常に自然な気がする。 そういうものこそが人間の心が欲しているものなのである。
宗教は、伝達され淘汰されてきたものである。 伝達に際して、概念は心の中のテンプレートに従って再構築される。 そこで、伝達されやすい概念はいかなるものか、という問題を考える。
世の中のものを、われわれは無意識のうちにいくつかの存在カテゴリーにあてはめている(テンプレート)。たとえば、「人」「動物」「植物」「道具」などである。 宗教的概念は、この存在カテゴリーに対して反直感的な概念(カテゴリーから期待されることに対する違反)を一つ含んでいる。たとえば、「全知の神」という概念は、「人」というカテゴリーに、人が持っていないはずの特殊な認知能力を付け加えたものである。
概念が生得的かどうかという問いにはあまり意味が無い。概念は、運動スキルのように次第に発達してゆくものである。適切な推論システムを働かせてゆくことで、概念は次第に磨かれる。
推論システムには進化という背景がある。ヒトにおいて重要なのは、ヒトは情報を求めるということと、他者と協力するということである。その結果、たとえば、人間はゴシップ好きだし、他人の信頼度を日常的に評価しているし、群れたがる。
人間の推論システムは、現実に起こっていることと切り離して使うことができる。仮想的な状況を思考できるし、幼児でもままごとができる。
神や霊は、人間に似たものとして作られている。Guthrie によると、そうなってしまう理由は、人間が他の存在よりも複雑だからである。擬人化のうち最も特徴的な性質は、神や霊には心があるということである。
身の回りで予期せぬ何事か起こると、われわれは「何かがいる」とつい考えてしまう。 Barrett によると、これは進化的に自然なことである。ヒトにとって、長い間、 捕食者や獲物を検出することは非常に大切であった。そこで、必要以上に捕食者や獲物を検出してしまうようになった。 このことが神や霊という概念のきっかけになるのだろう。
社会的相互作用に関係する心のシステムを働かせるような情報のことを「戦略的情報」と呼ぶことにする。ある情報が戦略的かどうかは状況次第だしその人次第である。 神や霊には、戦略的情報を多く知っているという特徴がある。「神は、あなたが昨日誰と会ったかを知っている」という文に比べて「神は、世界中のどの冷蔵庫の中身も知っている」という文は変な感じがするだろう。 前者は、ふつう戦略的情報なのに対し、後者はふつうそうではないからだ(もちろん状況次第ではある)。
心を持つ行為者という概念は、豊かな推論を生み出す。「聖なる野獣」では、あまり推論システムがはたらかない。 これに対して、戦略的情報を持った行為者は、推論システムをはたらかせるし、重要なので他の人がその行為者のことをどう考えるかということも気になる。 そういったようなわけで、戦略的情報を持っていて心がある行為者(すなわち、神や霊)の概念は、社会の中に定着しやすいのであろう。
多くの宗教では、超自然的行為者は、人々の行為に関心を持っているとされる。これに対して、立法者としての神、手本としての聖人という側面は飾りにすぎない。
人には道徳的感情がある。心理学の研究により、幼い子供でも道徳的直観があることがわかっている。道徳的感情や正直さへの傾向は、人間が長い間社会的協力をしてきたことから、それに有利な性質が進化的に発達してきたものだろう。
超自然的行為者は、「戦略的情報」をすべて知っているはずだから、行為の善悪がすぐにわかるはずだと私たちは直観的に仮定してしまう。われわれは道徳的直観を持っているものの、その起源は知らない。しかし、超自然的行為者を持ち出せば簡単に説明できてしまうので、その説明を受け入れてしまう。このようにして、宗教的概念は道徳的緒間に寄生している。
次に災いの問題を考えよう。災いは妖術や邪視などの結果とされ、妖術は邪視は嫉妬が原因であるとされることがある。あるいは、先祖が生贄を欲したからだとされることもある。
人間においては、常に社会的相互行為の推論システムがはたらいている。そこで、災いなど大きな出来事が起こると、「だれか」が何かをしたという解釈をしたがる。神や霊は「戦略的情報」を持っているので、有力な候補者になる。
儀礼は、遺体に対して行われる。その儀礼に従うことによって、生者に害が及ばないようにする。
遺体はけがれであるとされる。この死体の忌避には、接触感染を避けるという実質的な意味がある。
死体は、人間の直観的心理システムに矛盾を生み出す。「有生性システム(生き物に反応するシステム)」は、死体が生きていないことを示す。一方で、「人物ファイルシステム」は、その人間がまだ生きているかのような推論を生み出し続ける。たとえば、「こんなふうにしたので彼も喜んでいるさ」という常套句が示すように。さらに、「人物ファイルシステム」にある人物をけがれとして処理することは罪悪感を生み出す。そこで、この人物ファイルシステムをストップさせる過程が儀礼だと考えられる。
死者は、このように特別に強い感情を生み出すので、死者の魂を超自然的行為者であるとする文化が多い。
(1) 儀礼は正しく行わなければ良からぬことが起こるとされる。これは強迫性障害の症状に近い。どちらもけがれを気にすることが多い。ということは、感染システムが活性化されているのだろう。供物が捧げられることも多い。これは、もちろん御利益を期待してのことである。しかし、一方で、この供物はふつう参加者に分配される。これには、集団メンバーの助け合いになっている。
(2) 儀礼は、社会的役割を創り出す。成人儀礼、結婚式などには、社会的相互作用が変化したことを周知させる役割がある。私たちは、小さな狩猟生活集団の中で進化した。そこで私たちの心にはそれに合った直観的心理学がある。ところが、直観的心理学では社会的相互作用の変化をうまく扱えない。そこに儀礼が入ると、社会的な効果があるという錯覚を生み出すことができる。さらに、儀礼を行わないと集団のメンバーから非協力的だと見なされることになるので、儀礼を行わざるをえなくなる。
(3) 神や霊は儀礼に必要ではない。事実、神や霊が強く関わる儀礼からそうでない儀礼まで、神や霊の関わり方の程度は連続的にさまざまのものがある。神や霊は、儀礼の説明に便利だから導入されることがあるのである。儀礼自体は、何の意味があるのかわからないようなものが多い。そこに説明を与えようとすれば、手近にあるのは神や霊ということになる。
儀礼には2種類のものがある。ひとつは、成人儀礼や結婚式のようなものである。一生で一回限りで、一般に派手である。これは、社会的相互作用の変化を他の集団メンバーに印象づける効果があるのだろう。もうひとつは、収穫祭のように神や霊に供物を捧げて五穀豊穣を祈るようなタイプのものである。これは、何度も行われ、一般には地味である。これは、基本的には個人と神や霊との交換なので、派手である必要は無い。
文字文化が生まれた地域では、大きな国家が出来た。宗教においても、専門家集団が出来た。しかし、宗教の専門家は、特殊技能でもなく3K職場でもなく基盤が脆弱なので、宗教ギルドは政治的影響力を持とうとするし、サービスをブランド化しようとする。宗教ブランドは、はっきり識別できる画一化されたサービスを提供する。このために教義が必要とされる。宗教ギルドは、テクストを重要視し、体系的な教義を提供する。しかし、教義は、常に民衆によって勝手に改変されたり歪められたりする。
人間は集団に属したがる。集団の一員になると、自分の属する集団は、ほかの集団と本質的に違うのだと考えるようになる。宗教集団の連帯もこの本能に基づく。
原理主義は現代的な現象である。現代は文化が多様であり、ほかの生き方に変わることが簡単に出来ることを示している。これは連帯への脅威になる。そこで、原理主義者は、連帯から離脱しようとする動きが高くつくことを示そうとする。これが原理主義者の暴力である。
まず、人には「多数意見効果」などの心理的なバイアスがある。次に、人には無意識的な推論システムが数多くある。これらの推論システムのいくつかを活性化させる概念は、信念へと結びつく。周囲の人が同じ概念を用いていることも必要である。
宗教は、おそらく現生人類の心の誕生とともに生まれた。それは10万年から5万年前くらいである。
宗教は、心の中の推論システムによって淘汰を受けた結果形成されるものだ。だからこそ、さまざまの宗教には共通の特徴がある。心を調べることで宗教がわかるようになるし、逆に宗教を調べることで心の仕組みがわかるようになる。