大宰府の歴史メモ

original: 2011/01/01
last update: 2011/01/09

歴史

前身

大宰府成立のきっかけは、663(天智天皇2)年の白村江の戦いであった。 660 年、百済が新羅・唐連合軍により滅亡する。 百済の援軍要請に対し、天智天皇が派兵したものの、白村江の戦いで惨敗。 唐・新羅連合軍を恐れた大和朝廷は、防人・烽(とぶひ)を配備し、水城を築く。 これにともなって、筑紫大宰が現在の大宰府政庁の位置に移ってきたと考えられる。 さらに、665 年には、大野城、基肄城を築いたほか、長門の国にも城を築いた。 その2年後には、金田城(対馬)、屋嶋城(讃岐)、高安城(大和)が築かれ、西日本の防備が強化された。

大宰府政庁の建物は三期に分かれる。

12世紀前半に廃絶。

統治体制

大宰府は、西海道、すなわち九州全域を統括する。

行政の長は大宰帥(だざいのそち)であったが、中央貴族で現地に行かないことも多かった。その場合、実質的には次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)が政務を取り仕切った。

大宝律令施行 (702年) 以後、西海道の国司のうち、掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう))と郡司の任命権は大宰府にあった。 ただし、弘仁 3 (812) 年になって、郡司の任命権が国司に移った。

西海道の調庸物はまず大宰府に集められた。一部は大宰府で消費され、一部は中央政府に送られた。

政庁周辺

行政施設 防衛施設

鴻臚館

博多湾岸にあった饗客施設、貿易施設。最初は「筑紫館」という名前であった。 資料に初めて現れるのは、持統2(688)年、最後の記録は永承2(1047)年。 遺構は大きく三期に分かれる。

参考

九州歴史資料館 (2010) 開館記念特別展「太宰府―その栄華と軌跡」