大宰府の歴史メモ
original: 2011/01/01
last update: 2011/01/09
歴史
前身
- 那津官家(なのつのみやけ):536(宣化元)年、有事に備えて各地の屯倉を那津に集めた。
- 前期筑紫大宰:推古朝(7世紀前半)。福岡平野に置かれたと考えられている。
- 後期筑紫大宰(つくしたいさい)、筑紫総領
大宰府成立のきっかけは、663(天智天皇2)年の白村江の戦いであった。
660 年、百済が新羅・唐連合軍により滅亡する。
百済の援軍要請に対し、天智天皇が派兵したものの、白村江の戦いで惨敗。
唐・新羅連合軍を恐れた大和朝廷は、防人・烽(とぶひ)を配備し、水城を築く。
これにともなって、筑紫大宰が現在の大宰府政庁の位置に移ってきたと考えられる。
さらに、665 年には、大野城、基肄城を築いたほか、長門の国にも城を築いた。
その2年後には、金田城(対馬)、屋嶋城(讃岐)、高安城(大和)が築かれ、西日本の防備が強化された。
大宰府政庁の建物は三期に分かれる。
- I 期古段階:7世紀後半の掘立柱建物。663 年の白村江の戦いの大敗に伴って移ってきた筑紫大宰と考えられる。
- I 期新段階:7世紀末から8世紀第一四半期の掘立柱建物。689(持統天皇3)年の飛鳥浄御原令にかかわる筑紫大宰、701(大宝元)年の大宝令に伴う大宰府の成立に伴う。
- II 期:8世紀初めの礎石建物。941(天慶4)年の藤原純友の乱で焼失。
- III 期:10世紀後半の礎石建物
12世紀前半に廃絶。
統治体制
大宰府は、西海道、すなわち九州全域を統括する。
行政の長は大宰帥(だざいのそち)であったが、中央貴族で現地に行かないことも多かった。その場合、実質的には次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)が政務を取り仕切った。
大宝律令施行 (702年) 以後、西海道の国司のうち、掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう))と郡司の任命権は大宰府にあった。
ただし、弘仁 3 (812) 年になって、郡司の任命権が国司に移った。
西海道の調庸物はまず大宰府に集められた。一部は大宰府で消費され、一部は中央政府に送られた。
政庁周辺
行政施設
- 政庁前面:南に広場があって、その東西に官衙域があった(東側が日吉地区、西側が不丁地区と呼ばれる)。
- 蔵司地区:政庁の西側丘陵に大きな礎石建物の跡がある(政庁正殿よりも大きい!)。
倉庫と役所と見られる。大量の鉄鏃・甲冑片が出土し、武具が集められていたこともわかった。
防衛施設
- 大野城:北側背後の四王寺山(もしくは大城山)に築かれた朝鮮式山城。土塁の総延長は約 8 kmにも及ぶ。
- 基肄城:坊主山に築かれた朝鮮式山城。土塁の総延長は約 3.9 km。
- 水城:土塁とその内外の水濠。東西両側に門があった。西門には3時期の遺構があった。I 期(7世紀後半)は掘立柱形式、II 期(8世紀前半)は瓦葺の礎石形式、III期(9世紀代)も瓦葺礎石形式。II 期よりも III 期の方が間口が狭くて防御的。
鴻臚館
博多湾岸にあった饗客施設、貿易施設。最初は「筑紫館」という名前であった。
資料に初めて現れるのは、持統2(688)年、最後の記録は永承2(1047)年。
遺構は大きく三期に分かれる。
- I 期:7世紀後半の掘立柱建物と塀、石垣。
- II 期:8世紀前半。南館と北館があるが、詳細は不明。
- III 期:8世紀後半から9世紀前半の礎石建物。
参考
九州歴史資料館 (2010) 開館記念特別展「太宰府―その栄華と軌跡」