これまで読んだ神道の本の中では、歴史を追った説明ということでは最も系統的だった。 ただ、一方で、政治体制との関係や神道思想に力点があるので、たとえば稲荷信仰や 祇園信仰のような比較的大衆信仰的なものに関する記述はほとんどない。
ひとつの大きな疑問点は、現代に続く宗教儀礼の社会習俗化を、政治だとか支配体制の面から 説明しようとしている点である。私の感覚では、現代のように科学が発達し、それが 曲がりなりにも教育される時代では、昔からの神話はどうがんばっても信じろという方が無理なので、 まともな教育が行われるとそうならざるを得ないのではないかと思える。 とくに神道のように思想的な深みがあまりないとそうなってしまうだろう。 仏教はまだうまくやれば信者を増やすことができる可能性があるというのが、 実はオウム真理教が示していたことではなかったか。 もっとも、オウム真理教は狂って犯罪集団になってしまったので、 そのために日本人の無宗教指向がさらに高まったというのはここに書かれている通りだと思う。
[1. 律令制国家]
神道は、アニミズムの延長ではない。 神社以前の信仰では、神は祭礼の度ごとに招き降ろすものであった。 これに対し、神社は常時祭神がいることを前提とする。 神社は、律令制に伴って中央政府が創った宗教である。
律令制の導入とともに、中国から仏教も本格的に導入された。 これに対抗する天皇中心の国家宗教施設が神社であった。 天武 10 年(682 年)に神社の造営が命ぜられた。平行して、 天武天皇は「古事記」「日本書紀」の編纂も命じ、その神々が神社の祭神とされるようになる。 このようにして成立した神社以外の従来からあった宗教施設は非官社として区別された。 だが、非官社も後には神社とされることになる。
ところが、実際には神社(官社)の造営はなかなか進まなかった。常設神殿が存在しなかったり、 祭神が在来の神々だったりして、結局「神社」概念が曖昧になってしまった。
延暦 17 年 (798 年)、官社が官弊社と国弊社に分けられ、国弊社は国司の管轄となった。 これによって、官社が、伊勢神宮―官弊大社―官弊小社―国弊大社―国弊小社の ヒエラルキーができた。また、国弊社の整備が進んだ。
8 世紀から神仏習合が進んだ。修験道もできてきた。これに伴って、石清水八幡宮や 塩竃神社など大きな勢力を持った非官社が現れた。これに対応して、9 世紀に入ると、 官社・非官社の区別無く神社に位階を与えるという神社神階制が導入された。 9 世紀には天皇直轄祭祀も成立した。それまでは、天皇は現人神で、神祇官が祭祀を行った。 これが、天皇自らが神を祀るように変わった。
10--11 世紀の摂関政治の時代には、仏教や神祗信仰や陰陽道などを場合によって使い分けることが行われた。 仏教、神祗信仰、陰陽道、修験道などはいずれも儀礼体系として理解されており、それらがまとめて信仰されていた。
[2. 中世]
11 世紀末頃から中世が始まった。荘園が発達し、荘園領主層を権門と呼んだことから権門体制国家と呼ばれる。天皇は象徴的な存在になった。 「王法仏法相依」論が支持され、世俗権力と仏教は持ちつ持たれつの関係になった。 寺社も所領を持って封建領主となった。本地垂迹説が成立して、神と仏が一体のものとして 理解されるようになった。 それに伴って、神宮寺が設けられたり、神社境内に仏教施設が作られたりした。
中世には天皇の系譜が再編された。アマテラスが大日如来もしくは阿弥陀如来の化身であると理解され、釈迦が誕生する以前に存在したとされた。
神・天皇 | 古代 | 中世 |
---|---|---|
クニノトコタチからイザナギ・イザナミまで | 神代の中の神世七代 | 天神七代 |
アマテラスからウガヤフキアエズまで | 神代のその後 | 地神五代 |
神武天皇以後 | 歴代天皇 | 人王 |
中世には神社の階層が3つになった。
中世において「神道」とは、神に関する思想的解釈のことを指す言葉であった。 神社においては、天皇神話を適宜組み替えて神社ごとに神話が作られた。これを本迹縁起神道という。 多くは神社に所属する僧が作った。ただし、伊勢神道は外宮の神官である度会氏が作った。 仏教の側では、密教に基づいて伊勢神宮を説明する両部習合神道が作られた。 このように、中世においては、天皇神話が神を理解するための理論的支柱になってきた。
室町時代になると、儒教・仏教・神道が一体のものであるとする三教一致説が成立した。
戦国時代から織豊時代になって、従来の政治体制が解体するのに伴い、寺社体制も解体した。 宗教権力が力を失い、世俗権力に従属するようになった。
戦国時代になって、吉田神道が現れた。これは、神道を日本固有の宗教であるとし、 理論や儀礼に留まらず、宗教組織の再編まで行おうとするものであった。
[3. 近世]
戦国大名は「天道」思想(すべての人が従わないといけない自然の法則)に支えられて、 寺社勢力と対決した。最後には、宗教が世俗権力に屈服することとなった。
江戸幕府は、吉田神道を公認し、江戸時代を通じて吉田家が圧倒的な地位を保った。 とはいえ、流行神を祭る多数の神社があり、吉田家と関係のない神職も多かった。 神社には、神宮寺がありそこには僧侶もおり、従来通りの神仏習合の行事も催された。
檀家制度では、個人の信仰と関係なく葬儀を行う寺院が決まってしまったので、 信仰心と宗教儀礼が切り離され、宗教儀礼が社会的習俗化していった。
神道思想には儒教の影響を受けて新しいものが生まれた。 林羅山は、儒学思想に基づいて「理当心地神道」を提案した。 山崎闇斎は、朱子学と融合した「垂加神道」を提唱した。 さらに、儒学において古学派(古文辞学)が成立すると、国学が起こってきた。 本居宣長は、「神道」を日本固有の道だと考えた。 平田篤胤は、さらに死後の安心を論じて、神道教説に宗教色を濃くした。 そのような背景の中で、吉田神道は批判を受けて、天皇中心主義的に傾斜していった。
幕末の後期水戸学では、祭政教一致の国体思想が説かれた。
幕末の 19 世紀前半には、黒住教、天理教、金光教などの民衆宗教も生まれた。
[4. 明治〜戦前]
明治政府は、古代律令制に倣って「祭政一致」を目指した。しかし、ここでいう祭政一致は、もちろん 古代律令制とは異なり、天皇が自ら皇祖神を祀り、その直系の子孫として政治を行うという意味である。 そこで、神仏分離を行い、上層神社に留まらず中小神社まで天皇神話上の神々を祭神とした。 神仏分離が行われたために、神社には宗教的な自立性が無くなり、国家や政治への従属が甚だしくなった。 明治 4 年(1871 年)、政府はすべての神社を官社と諸社(民社)に分け、官社を官弊社と国弊社、 諸社を府社・県社・郷社・村社に分類し、官社は神祗官、諸社は地方長官の管轄下とした。 このようにして国家神道が成立した。
ところが、信教の自由や政教分離の観点からの批判があったり、神官に天皇制イデオロギーの教育ができないことが明らかになったりして、新しい神社制度には大幅な見直しが必要となった。 結局、宗教ではない神道としての「国家神道」と、宗教としての神道である「教派神道」を分けるという 形での決着が図られた。「国家神道」は、道徳と儀礼から成るものとされた。 これが神社儀礼の社会習俗化を進めることとなった。
明治時代、中下層神社への財政支援が減ってきて財政が厳しくなってきた。 そこで、神社が宗教ではないという論理を逆手に取って、神社が国に財政援助を求めるようになってきた。 そのことによって、神社は自ら宗教であることを捨てて国家権力と癒着することになった。
軍国主義がエスカレートする中、神社はそれを支える役割を担った。
[5. 戦後]
国民の大多数が、自分は無宗教であると考えるようになった。宗教儀礼は、さらに社会習俗化した。