あっぱれ!江戸のテクノロジー

鈴木一義(講師)
NHK 直伝 和の極意 2011 年 6-7 月、NHK 出版
刊行:2011/06/01
福岡箱崎の明林堂書店箱崎店で購入
読了:2011/08/07
江戸時代を代表する技術を見てゆくシリーズ。いかにも手作りの工夫がいろいろ見られて楽しい。

第1、2回の田中久重は、福岡県内の久留米出身である。 久留米市も観光で田中久重を売りにしようとしている雰囲気はあるものの、 博物館もなければ、生家も残っていないので今一つである。

第5回の渋川春海は、最近「天地明察」という小説で有名になった。 碁方の初代安井算哲の子で、二代安井算哲という名前もあるが、碁の力では当時の第一人者の本因坊道策には及ばなかったらしい。碁では、初手天元の棋譜を残したことで知られている。


サマリー

[第1回 2011/06/07 田中久重 からくり人形の極意]

テキスト

弓曳童子は、田中久重が作ったからくり人形の最高傑作である。童子の人形が、矢を弓につがえて次々に射る。注目すべきなのは、わざと的を外すこともできる仕掛けである。 これはいかにも日本らしい。

放送

「からくり儀右衛門」田中久重は、数々の機械を作った。今日は、久重が生まれた福岡県久留米市を訪れる。 JR 久留米駅前に、久重を紀念したからくり時計がある。生家跡には碑が立っている。 久重はべっこう細工職人の家に生まれた。近くの五穀神社のお祭りでは、江戸時代にはからくりの興行が行われていた。 これが久重の心を奪った。

茶運び人形を解説。カムをうまく使ってUターンができるようになっている。ぜんまいは、クジラの歯で作られていた。

とある倉庫で、久重作の弓曳童子を見せてもらう。11本の糸と7枚のカムでやわらかな動きを作り出している。 金属のぜんまいを使ったので、ぜんまいのパワーを調整するためにサザエ車を使っている。

[第2回 2011/06/14 田中久重 万年時計の極意]

テキスト

万年時計は、田中久重の傑作である。不定時法に対応しており、一年に一度ぜんまいを巻くだけで正確に動くというスグレモノ。さらに、工芸品としても優れている。

田中久重は、久留米藩で生まれ、48 歳で京都に移り住み、発明品を商った。万年時計や弓曳童子は、京都時代の作品である。55 歳で佐賀藩に招聘され、職人からエンジニアに成長する。 明治維新後、76 歳で東京に移住し、田中商店を設立。これが後に東芝に発展する。

放送

今日は、神奈川県川崎市の東芝科学館を訪れる。ここに久重の作ったいろいろなものが展示されている。 たとえば、懐中燭台、和時計。機械時計の最高傑作が、万年時計である。上面にはプラネタリウム、 側面には6種の時計が配されている。

江戸時代、一般に使われていたのは香時計。ぜんまい仕掛けの時計が使えたのは大名などごく一部の人々。 江戸時代は、日の出、日没を基準にした不定時法が使われていた。これを機械時計で実現するのが和時計。 二丁天符式(針の進み方を変える)と割駒式(文字駒を手で動かす)があった。

久重の万年時計にある和時計は、割駒式の文字盤の動きを自動化したもの。 これは、虫歯車を用いて実現された。「虫歯車」という名前は、時計を復元した人が付けたもの。 万年時計のレプリカが東芝科学館に、本物が国立科学博物館にある。

[第3回 2011/06/21 大野弁吉 箱型写真機の極意]

テキスト

大野弁吉は、経歴に分からないところは多いものの、結婚後の生涯を加賀の大野村で過ごした。 大野村は加賀の港町で、商人が多くいた。 弁吉は、からくり師として知られるが、科学技術一般に優れていた。 弁吉は、かなり早い時期から写真術を導入した。 加賀の商人が弁吉の活動を支えていた。

19世紀前半に、フランスで銀板写真が開発された。その後、 イギリスのフレデリック・スコット・アーチャーが湿板写真を発明して、露出時間が大幅に短縮された。 この湿板写真が日本で普及した。

放送

今日のテーマは「写真」。大野弁吉の写真術を学ぶ。石川県金沢市を訪れる。 弁吉は博覧強記で、いろんなものを作っていた。「大野からくり記念館」では、 弁吉の作った数々の作品が展示されている。たとえば、エレキテルなど。 その後、弁吉作とされる箱型カメラを鑑賞する。

最初の写真機は銀板写真で、これは露出時間が数十分かかる。 それを改良した湿板写真で露出時間が数秒に減った。 湿板写真を発明したのは、イギリスのスコット・アーチャー (1851 年)。 湿板とは、ガラス板にコロジオンを塗って、それに硝酸銀を分散させたもの。 コロジオンはもともと「水ばんそうこう」として用いられていた。これが 適度な粘り気があって銀を分散させる媒質として都合が良いことが分かり、転用された。

弁吉は、すでに 1949 年に湿板写真に取り組んでいたとされる。 西洋の最先端に後れを取っていなかった。そのようなことができたのは、 海運業者の銭屋五兵衛が弁吉のパトロンをしていたおかげだった。 五兵衛は、莫大な資金力とネットワーク力で弁吉を支えた。

[第4回 2011/06/28 華岡青洲 全身麻酔手術の極意]

テキスト

華岡青洲は、世界で初めて全身麻酔による乳癌の手術に成功した。青洲は医師の家に生まれ、父から手ほどきを受けた後、京都に遊学する。京都では、 実証的な古方派(こほうは)の漢方医術とカスパル流(蘭学以前の南蛮医術)の外科を学んだ。和歌山に戻った青洲は、麻酔薬「通仙散」の開発に成功した。 麻酔薬の開発では、妻が被験者になって失明するという困難もあった。1804 年 10 月、「通仙散」による全身麻酔で、世界初の乳癌摘出手術に成功した。 青洲は、多くの膏薬の開発も行い、現代でも紫雲膏(しうんこう)という消炎殺菌薬が用いられている。

青洲流の漢蘭折衷医学は、明治時代まで日本の医療を支え続けた。

放送

華岡青洲は、全身麻酔薬「通仙散」の開発をした天才医師。世界で初めて全身麻酔による乳癌手術を行った。

今日は、和歌山県紀の川市を訪れる。まずは博物館を訪ねる。次に、地元の漢方薬製造会社で漢方薬を学ぶ。

通仙散の主要材料は、曼陀羅華(チョウセンアサガオのことで、神経を麻痺させる)と烏頭(トリカブトのことで、筋肉を麻痺させる)。

青洲は、22歳で京都に遊学。蘭方医学を学ぶ。その後、漢蘭折衷の医学を開発していった。漢方を元にして、通仙散を開発した。 新しい手術道具も開発した。乳癌手術に成功したので、全国から患者が集まり、134人が治療を受けた。

[第5回 2011/07/05 渋川春海 日本初!「暦」の極意]

テキスト

渋川春海は、日本で初めて暦(貞享暦)を作った。それ以前に使われていたのは、 中国の唐の時代の宣明暦だが、これはもうすでに誤差が大きくなっていた。 春海は、中国元代の授時暦を学び、天体観測も行って、自ら大和暦を作った。 これが、貞享元 (1684) 年、江戸幕府に採用された。

渋川春海は、京都にある幕府の碁方の家に生れ、二代安井算哲という名も持っている。 貞享暦が幕府に採用されてからは、初代天文方となり江戸に移り住んだ。

放送

日本初の自前の暦である貞享暦を作ったのが渋川春海である。当時使われていたのは、 800年間使われていた宣明暦で、これはすでに誤差が大きかった。春海は、観測に合う暦を作った。

今日は、京都で春海の足跡をたどる。天文台の跡がある円光寺を訪ねた。 ここには、観測機器である渾天儀の台座が残っている。渾天儀を復元したものを使ってみる。 渾天儀には、天の子午線、天の赤道が付いていて、これを基準にして星の位置を計測できる。 春海はこれを用いて星図を作った。

暦を作るには、一年の日数を正確に知らないといけなくて、そのためには、太陽の観測をきちんとすることが重要である。 そのために影の長さを10年以上観測した。正確な測定のために景符という細いスリットを用いた。 その結果、1年の長さを 365.2417 日と求めた。ちなみに、現在わかっている1年の長さは 365.2422 日である。

貞享暦によって初めて日本全国統一した暦ができた。その後、宝暦暦、寛政暦と日本人により改暦が行われた。

[第6回 2011/07/12 関孝和 円周率解法の極意]

テキスト

和算は、実学と娯楽を兼ねたものとして発達した。とくに関孝和は優れた和算家で、紙の上で計算をする傍書法を考案し、複雑な計算ができるようにした。 孝和は、円周率を小数点以下十桁まで求めることに成功した。

和算がさかんだった地域の一つに信州がある。信州では、関流、宮城流、最上(さいじょう)流が主な流派だった。

放送

今日は、岩手県一関を訪れる。和算の資料が数多く残されている。まず、一関市博物館を見学。一関には29の算額が現存している。その算額を鑑賞する。

和算の本としては、「塵劫記」が江戸時代のベストセラーだった。関孝和の著作は「発微算法」が唯一のもの。 関の研究は「括要算法」にまとめられており、円周率の計算もここに書かれている。

江戸時代、計算には算木と算盤が使われていた。しかし、これでは複雑な計算になるとお手上げになる。関は、筆算法として傍書法を考案した。 関は、円周率を11桁求めた。これは、当時の世界とほぼ同等レベルだった。

[第7回 2011/07/19 国友一貫斎 反射望遠鏡の極意]

テキスト

国友一貫斎は、近江国友村(現在の滋賀県長浜市)の優れた鉄砲鍛冶だった。鉄砲以外にも、空気銃、灯火道具などさまざまの道具を作った。 そのなかでも最もすばらしい成果が反射望遠鏡だった。参考にしたオランダ製のものよりも二倍大きく星が見えたと言われている。 鏡は、錫を多く含む硬い青銅製で、現在でもその輝きが保たれている。

放送

今日は滋賀県長浜市国友町を訪ねる。ここは鉄砲の町である。国友には、鉄砲の里資料館がある。江戸時代には、幕府御用達の鉄砲職人の町だった。 一貫斎は、鉄砲鍛冶を束ねる家に生まれた。一貫斎は、さまざまな発明を行った。

一貫斎は、江戸で西洋の反射望遠鏡を初めて見た。国友に戻ってから現役を引退した後、反射望遠鏡づくりに取り組んだ。 一貫斎の望遠鏡は、西洋のものに劣らないものだった。その精度を支えたのは、鏡を磨く繊細な技術だった。

一貫斎の鏡は青銅(銅と錫の合金)製。青銅は、錫を30%以上にすると銀白色になる一方、40%になるとひび割れができてしまう。 そこで、一貫斎はぎりぎり錫を多くして錫33%の合金を作った。この合金は錆びにくく、現在でも銀白色の輝きを保っている。

[第8回 2011/07/26 伊能忠敬 日本地図225枚の極意]

テキスト

伊能忠敬は、今の千葉県佐原市の商人であった。隠居後、天文暦学を学ぶために江戸に出た。そのうち地球の大きさを知るために蝦夷地測量に旅立つ。 その成果が幕府に認められ、日本地図の測量を始めることになる。伊能の死後3年たって、弟子たちによって日本地図が完成する。

放送

今日は千葉県佐原市を訪れる。江戸時代は水運業で栄えた。伊能忠敬は商人。50歳で引退し、天文学を学ぶ。55歳になって蝦夷地測量を始める。 佐原市には、伊能忠敬の銅像があり、伊能忠敬記念館がある。

伊能図には、小図、中図、大図の3種類ある。小図は畳10畳分の日本地図、中図はつなげると縦横10メートル、大図は縦横50メートルにもなる。

当時、外国の脅威が高まってきたこともあって、正確な地図が必要になってきた。それを背景として、伊能忠敬が日本沿岸をくまなく歩き回って正確な地図を作った。 技術としては、導線法と交会法を用いた。