第1、2回の田中久重は、福岡県内の久留米出身である。 久留米市も観光で田中久重を売りにしようとしている雰囲気はあるものの、 博物館もなければ、生家も残っていないので今一つである。
第5回の渋川春海は、最近「天地明察」という小説で有名になった。 碁方の初代安井算哲の子で、二代安井算哲という名前もあるが、碁の力では当時の第一人者の本因坊道策には及ばなかったらしい。碁では、初手天元の棋譜を残したことで知られている。
茶運び人形を解説。カムをうまく使ってUターンができるようになっている。ぜんまいは、クジラの歯で作られていた。
とある倉庫で、久重作の弓曳童子を見せてもらう。11本の糸と7枚のカムでやわらかな動きを作り出している。 金属のぜんまいを使ったので、ぜんまいのパワーを調整するためにサザエ車を使っている。
田中久重は、久留米藩で生まれ、48 歳で京都に移り住み、発明品を商った。万年時計や弓曳童子は、京都時代の作品である。55 歳で佐賀藩に招聘され、職人からエンジニアに成長する。 明治維新後、76 歳で東京に移住し、田中商店を設立。これが後に東芝に発展する。
江戸時代、一般に使われていたのは香時計。ぜんまい仕掛けの時計が使えたのは大名などごく一部の人々。 江戸時代は、日の出、日没を基準にした不定時法が使われていた。これを機械時計で実現するのが和時計。 二丁天符式(針の進み方を変える)と割駒式(文字駒を手で動かす)があった。
久重の万年時計にある和時計は、割駒式の文字盤の動きを自動化したもの。 これは、虫歯車を用いて実現された。「虫歯車」という名前は、時計を復元した人が付けたもの。 万年時計のレプリカが東芝科学館に、本物が国立科学博物館にある。
19世紀前半に、フランスで銀板写真が開発された。その後、 イギリスのフレデリック・スコット・アーチャーが湿板写真を発明して、露出時間が大幅に短縮された。 この湿板写真が日本で普及した。
最初の写真機は銀板写真で、これは露出時間が数十分かかる。 それを改良した湿板写真で露出時間が数秒に減った。 湿板写真を発明したのは、イギリスのスコット・アーチャー (1851 年)。 湿板とは、ガラス板にコロジオンを塗って、それに硝酸銀を分散させたもの。 コロジオンはもともと「水ばんそうこう」として用いられていた。これが 適度な粘り気があって銀を分散させる媒質として都合が良いことが分かり、転用された。
弁吉は、すでに 1949 年に湿板写真に取り組んでいたとされる。 西洋の最先端に後れを取っていなかった。そのようなことができたのは、 海運業者の銭屋五兵衛が弁吉のパトロンをしていたおかげだった。 五兵衛は、莫大な資金力とネットワーク力で弁吉を支えた。
青洲流の漢蘭折衷医学は、明治時代まで日本の医療を支え続けた。
今日は、和歌山県紀の川市を訪れる。まずは博物館を訪ねる。次に、地元の漢方薬製造会社で漢方薬を学ぶ。
通仙散の主要材料は、曼陀羅華(チョウセンアサガオのことで、神経を麻痺させる)と烏頭(トリカブトのことで、筋肉を麻痺させる)。
青洲は、22歳で京都に遊学。蘭方医学を学ぶ。その後、漢蘭折衷の医学を開発していった。漢方を元にして、通仙散を開発した。 新しい手術道具も開発した。乳癌手術に成功したので、全国から患者が集まり、134人が治療を受けた。
渋川春海は、京都にある幕府の碁方の家に生れ、二代安井算哲という名も持っている。 貞享暦が幕府に採用されてからは、初代天文方となり江戸に移り住んだ。
今日は、京都で春海の足跡をたどる。天文台の跡がある円光寺を訪ねた。 ここには、観測機器である渾天儀の台座が残っている。渾天儀を復元したものを使ってみる。 渾天儀には、天の子午線、天の赤道が付いていて、これを基準にして星の位置を計測できる。 春海はこれを用いて星図を作った。
暦を作るには、一年の日数を正確に知らないといけなくて、そのためには、太陽の観測をきちんとすることが重要である。 そのために影の長さを10年以上観測した。正確な測定のために景符という細いスリットを用いた。 その結果、1年の長さを 365.2417 日と求めた。ちなみに、現在わかっている1年の長さは 365.2422 日である。
貞享暦によって初めて日本全国統一した暦ができた。その後、宝暦暦、寛政暦と日本人により改暦が行われた。
和算がさかんだった地域の一つに信州がある。信州では、関流、宮城流、最上(さいじょう)流が主な流派だった。
和算の本としては、「塵劫記」が江戸時代のベストセラーだった。関孝和の著作は「発微算法」が唯一のもの。 関の研究は「括要算法」にまとめられており、円周率の計算もここに書かれている。
江戸時代、計算には算木と算盤が使われていた。しかし、これでは複雑な計算になるとお手上げになる。関は、筆算法として傍書法を考案した。 関は、円周率を11桁求めた。これは、当時の世界とほぼ同等レベルだった。
一貫斎は、江戸で西洋の反射望遠鏡を初めて見た。国友に戻ってから現役を引退した後、反射望遠鏡づくりに取り組んだ。 一貫斎の望遠鏡は、西洋のものに劣らないものだった。その精度を支えたのは、鏡を磨く繊細な技術だった。
一貫斎の鏡は青銅(銅と錫の合金)製。青銅は、錫を30%以上にすると銀白色になる一方、40%になるとひび割れができてしまう。 そこで、一貫斎はぎりぎり錫を多くして錫33%の合金を作った。この合金は錆びにくく、現在でも銀白色の輝きを保っている。
伊能図には、小図、中図、大図の3種類ある。小図は畳10畳分の日本地図、中図はつなげると縦横10メートル、大図は縦横50メートルにもなる。
当時、外国の脅威が高まってきたこともあって、正確な地図が必要になってきた。それを背景として、伊能忠敬が日本沿岸をくまなく歩き回って正確な地図を作った。 技術としては、導線法と交会法を用いた。