三陸海岸大津波

吉村昭著
文春文庫 よ 1 40、文藝春秋
刊行:2004/03/10、刷:2011/04/25(第10刷)
文庫の元になった単行本:1970/07「海の壁―三陸沿岸大津波」(中公新書 224)中央公論社刊
前の文庫版:1984/08「三陸海岸大津波」(中公文庫)
福岡博多の丸善博多店で購入
読了:2011/04/27
三陸地方は津波常襲地帯である。このたびの東北地方太平洋沖地震に伴う大津波(東日本大震災) 以前にも、明治以降、明治三陸地震津波 (1896) 、昭和三陸地震津波 (1933) 、 チリ地震津波 (1960) の3度の大きな津波を受けている。 それら3つの津波の記録を著者が集めて書いた ノンフィクションである。東日本大震災の後で読むと、前にも同じような悲惨なことが 起こっていたことがよくわかり心が痛む。 そもそもスマトラ沖地震や東北地方太平洋沖地震のときの津波の映像を見るまでは、 私にはちゃんとした津波のイメージが無かった。 以前に明治の「風俗画報」の津波の絵図を見たときには、あまり実感が湧かなかったのだが、 今になってみると本当にその絵図の通りだったのだろうということがわかる。

明治三陸地震津波の被害は特に甚大で、死者が 2 万人を超えた(本書 p.28 の記述だと、 青森、岩手、宮城を合わせて 26360 名、理科年表だと、北海道、青森、岩手、宮城の合計が 21959 名、Wikipedia だと 21959 名の他に 21915 名という数字が出ている)。 そうなったのは、地震の揺れがそれほど大きくないいわゆる「津波地震」であったことが 大きいのであろう。 なお、岩手県下閉伊郡田野畑村羅賀で、遡上高が 50m 以上であったようなことが書かれているが、 Wikipedia(「明治三陸津波」、「田野畑村」の項)によるとそれは誤りらしく、 25m くらいが正しいとのこと。

昭和三陸地震津波では、青森・岩手・宮城の三県で死者は 2995 名(本書 p.78)であった (理科年表では、死者行方不明者合わせて 3064 名という数字が出ている)。 真夜中でしかも3月初めで寒かったことが被害を大きくする ひとつの大きな要因だったようだ。 夜中で寒かったので、地震後に布団に戻ってしまった人が多かったと記されている。 そのほか、冬の晴天の日には津波は来ないという迷信があったことも記されている。 とはいえ、明治三陸地震津波に比べて犠牲者がだいぶん少なかったのは、 明治の経験が生きていたのであろうと書かれている。

明治三陸地震と昭和三陸地震では前兆があったと書かれているのが興味深い。 明治・昭和の2つの地震に共通する前兆現象として、大豊漁と井戸水の異常が書かれている。 明治の方ではそのほか、怪しげな火、川菜という海草、鰻の群のことが書かれている。 このたびの東北地方太平洋沖地震では何かあったのだろうか? 前震はあったと言って良いと思うが、 前兆的地殻変動はなかったようである。

明治・昭和の津波の前触れとして、大砲のような音がすること、潮が引くこと、 発光現象が書かれている。 潮が引くことに関しては、一般には津波は引き波で始まるとは限らない。 ただし、日本海溝の地震だと、今回の地震でもそうだったように、海溝から陸側では、 海溝近くが大きく隆起し、陸側に寄ったところが少し沈降するので、 その沈降のせいで引き波から始まるということかもしれない。 音や光については、今度の東北地方太平洋沖地震のニュースでは私は聞かなかったのだが、 あったのだろうか?

チリ地震津波は、太平洋を延々と渡ってやってくる津波であるだけに、 地震という前触れも無くやってくること、波長が極めて長い、といった特徴があった。