今改めて「かもめ」をテレビの解説を聞きながら読んでみると、これは人生経験を積んだ大人のための文学だということがわかって、味わいが理解できるようになってきた。 副題に喜劇と書いてあるものの、喜劇だか悲劇だか分からない内容だということを、放送時に講師の沼野氏が言っていたが、これは喜劇的な演出にすれば、聴衆にチェーホフの意図がはっきりわかるものになるのではないかという気がしてきた。 普通は上品な演出にしてしまうので、なんだか良くわからなくなってしまっている。 ぜひ喜劇の演出で見たいものだ。
登場人物は、一言で言えば、身勝手な女たちと頼りない男たちである。 要するに、世間で鑑とされる慎み深い女と頼りがいのある男とは逆の人物像である。 でも、人間というのはそんな理想的なものじゃなくて不完全でいつもちぐはぐだということが、チェーホフが描いたことだ。 印象的な場面を2つばかり挙げておこう。
題名の「かもめ」は、ニーナとトレープレフの象徴である。なお、この戯曲のカモメは海鳥ではなく、内陸の湖沼に棲むものだそうだ。
異なるタイプの小説家として、トリゴーリンとトレープレフが出てくる。その両者ともが、チェーホフの分身であるかのように、ふだんチェーホフが感じていたかもしれないことを語るのも面白い。
古い神西訳と新しい沼野訳は、どちらも調子は割合似た感じである。 しかし、沼野訳の方が新しいので、もちろん現代風に見て平明な調子になっているし、訳語もわかりやすい。
放送でもテキストでも沼野氏が自分が新しい訳語を付けたとして自慢しているところが2カ所ある。
戯曲より
マーシャ「人生の喪服なの。不幸だから。」
メドヴェジェンコ「ぼくの心ときみの心にはまるで接点がない」
恋のいずれもが、気持ちが噛み合っていない。
メドヴェジェンコはマーシャに片思い。マーシャはトレープレフに片思い。トレープレフとニーナは相思相愛だった。しかし、そのうちやがてニーナは売れっ子作家トリゴーリンが好きになった。トリゴーリン二はアルカージナという愛人がいた。でもトリゴーリンはニーナに引かれるようになった。トリゴーニンはアルカージナと別れようとするが、別れられない。
沼野「波紋の連鎖。当時としてはかなり型破り。これはどの恋愛を追ったらよいのかわからない。どれもうまくいかない。」
沼野「「フルーツゼリー」は今まで「マーマレード」と訳されていた。」
短編「かわいい」
オリガはかわいい女だった。オリガは興業主クーキンと結婚。すると、オリガは芝居に夢中になる。やがて、クーキンが死ぬ。次に、オリガは材木商ワシリーと結婚。すると、オリガは材木が大事だと思うようになる。やがてワシリーが死ぬ。次に、獣医に恋をした。すると、オリガは家畜について語るようになった。獣医が去ると、オリガの生活は灰色になった。オリガには意見が無かった。何を話したらよいかわからない。オリガは好きな人なしではいられない。やがて、獣医が息子を連れて戻ってきた。オリガは息子に一目惚れ。
沼野「チェーホフは、評価を下さずに人間のおもしろさを見せる。「かもめ」も同様。」
解説「チェーホフは、人と人の間には距離があると考えていたようだ。」
伊東「どうしてチェーホフはこんなに複雑な人間関係を描いたのか?」
沼野「チェーホフは、人間同士は理解し合えないと思っていたのではないか。みんな愛を求めている。でも、孤独になりがち。呼びかけの声がどこまで届くのか、これがチェーホフの問題意識だったようだ。」
劇中劇の場面
アルカージナのバカにしたような態度にトレープレフが怒って、劇を中断する。
沼野「トレープレフは新しい演劇を作ろうとする。一方で、アルカージナは有名女優で、それを抑圧する。」
ニーナとトレープレフ
ニーナが冷たくなったので、トレープレフはイライラしている。トレープレフはニーナの心変わりを責める。
沼野「ニーナがカモメだと考えることができる。トレープレフはカモメを殺す。トレープレフは死にたいと言っているから、カモメはトレープレフだとも考えることができる。」
自殺未遂をしてトレープレフは頭にけがをする
トレープレフは、アルカージナに甘える。しかし、アルカージナはまたトレープレフをバカにする。それでまた親子喧嘩になる。
伊東「ここまで来ると笑えますね。」
沼野「アルカージナは金持ちだけどケチ。息子にお金をやらないからトレープレフの服はぼろぼろ。」
伊集院「トレープレフは、本当に自殺するつもりだったの?」
沼野「カモメの登場人物は、みんな欠点がある。」
短編「ワーニカ」
ワーニカは祖父に初めて手紙を書いた。ワーニカのじいちゃんは田舎で夜警をしている。じいちゃんはワーニカをかわいがってくれていた。ワーニカは奉公先で苦しい思いをしていることを書き綴った。ワーニカは、宛名を「村のじいちゃんへ/祖父のコンスタンチンどの」と書いて、ポストに押し込んだ。
沼野「SOSの手紙が届かない。届いたとしてもおじいちゃんは文盲かもしれない。」
伊集院「工夫しても届かないのが悲しい。」
沼野「人間は不完全だから、お互い通じあわない。」
チェーホフの生涯
少年時代、父は横暴、家庭は破産。チェーホフは若くして結核にかかる。その中で作品を書き続けた。
伊東「まだなかなかつかめない感じ。」
沼野「芸術家は、明確な答えを出さない。不完全なもやもやしたものが人間関係を作っている。」
伊集院「人間が間抜けだということが、人生がおもしろいでしょ、というメッセージなんじゃないかという気がする。」
歴史的背景
19世紀末は帝政から革命への過渡期だった。
ニーナは女優志望で、有名になりたい。トレープレフは作家志望だけど、自分が何をしたらよいのかわからない。
伊集院「ニーナのただ有名になりたいというのは、危ないんじゃないか。」
沼野「トレープレフの方が知的だが、何をやったらよいのかわからない。ニーナと対極的。こういう若者が今多い。」
伊集院「体制の過渡期には確かに悩むでしょうね。」
沼野「チェーホフは、巨木が倒れた後の、森のキノコ。巨木を分解して森に返す。」
ドストエフスキーやトルストイのような巨木の時代の後、小さく分解して提示するチェーホフが出てきた。
2年後、トレープレフは売れっ子作家になったが、悩みは深い。ニーナは三流女優。2年ぶりに再会。
ニーナ「あなたも私も人生の渦に巻き込まれた。(中略)人生は甘くないわ。」
トレープレフ「君を失い、作家になってからというもの、人生は耐えがたいものだった。」
沼野「ニーナは、それなりに大変な思いをしてきた。ニーナは、自分もトレープレフもお互いに問題を抱えているという、ある種成熟した見方をしている。」
短編「中二階のある家」
主人公は才能ある画家。中二階のある家には姉妹が住んでいた。主人公は、妹ミシュスと惹かれあう。姉のリーダとは口げんか。リーダは、ミシュスを主人公に会わせないようにした。
伊集院「才能があってもうだつが上がらない人がいる。チェーホフはいろんな価値観を認めている。」
チェーホフの登場人物は今の自分に満足していない。チェーホフは30歳の時にサハリンに行って、流刑地を見てくる。
沼野「サハリン行きはチェーホフの自分探しの旅だったんじゃないか。チェーホフの作品の中には自分探しをする人がたくさん出てくる。そこから何かを掴み取れれば良いんじゃないか。」
伊集院「みんな自分探しをしている。」
柄本「「かもめ」は、なんか悲しくて笑えますよ」
沼野「悲劇か喜劇かは昔から問題だった」
柄本「チェーホフは、人間を相対的に書いているんじゃないか」
柄本「なんだか笑えますよね」
柄本「何かをする羽目になっちゃう人たちの話。なんか遠くから見てるというか。生きていくってくだらないことだなあ、みたいな感じがおもしろい。チェーホフって変ですよね。」
沼野「チェーホフは、結論が出ないで終わる。エンディングがおもしろい短編がある。それは「いたずら」という短編。」
短編「いたずら」
ナージャを乗せてそりに乗る。そこで、「好きだ」と言う。ナージャはもう乗らないと言う。ぼくが素っ気ない態度を取ると、もう一度そりに乗る。その冬、毎日同じことをした。やがて、ぼくはナージャと結婚する。この物語にはもう一つの結末もある。それは結婚しないという結末。
沼野「2つ落ちがある。」
柄本「2つ目の落ちの方が好き。」
沼野「2つ目の落ちの方が余韻がある。」
柄本「チェーホフには、何か悪意を感じる。悪意は、人間をクールダウンさせる。お客さんの反応をいろいろ考える。おかしさと残酷さが紙一重でつながっている。」
沼野「「いたずら」では、女性をぬか喜びさせて放っておく。チェーホフは、人生はそういうものだと考えていたんではないか。」
かもめの最後の場面
ニーナは、トリゴーリンが好きだとトレープレフに言う。トレープレフはママの反応が心配。銃声がする。トレープレフが自殺する。
柄本「終わり方が見事。しびれちゃう終わり方です。」
伊東「それで喜劇ですか?」
沼野「喜劇か悲劇か見れば見るほどわからなくなる。」
伊集院「結局、喜劇とは何か?という問題。笑わせようとしているだけではない。」
柄本「悲劇ってあるのかな。全部喜劇だろ、と思う。死ぬってことが悲劇ってことじゃない。」
伊集院「でも、これが面白いって気分にはなれない。」
沼野「チェーホフは、距離を置いて人を見ている。だから、悲劇と見えるものが喜劇に見えたりする。」
柄本「笑えると同時に泣ける。実に泣ける。」
伊集院「良いことと悪いことは隣り合わせ。」
柄本「笑うと泣くとは一緒。人間は、いつも不満を言いながら死んでゆく。われわれはいつも充足していない。そういうものなのだ。」