鴨長明 方丈記

小林一彦 著
NHK 100分de名著 2012 年 10 月、NHK 出版 [電子書籍]
刊行:2012/10/01(発売:2012/09/25)
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読了:2012/11/21
「方丈記」は実はこんな本なんだと初めて知った。具体的な感想は以下にサマリとともに記してゆく。

テキストの内容と感想

第1回 知られざる災害文学

「方丈記」には5つの災厄が記されている。長明が 23-31 歳の 10 年以内のうちに5つもの大災厄が起こった。
  1. 安元の大火 (1177):都の東南から出火して、西北方向に燃え広がった。
  2. 治承の辻風 (1180):京都における竜巻。
  3. 福原遷都 (1180):準備不十分な遷都で失敗に終わる。
  4. 養和の飢饉 (1181-82):旱魃や洪水などによる飢饉。消費地である京都は脆弱だった。
  5. 元暦(げんりゃく)の大地震 (1185):多数の建物の倒壊、地すべり、液状化など。
[吉田補足] 元暦の地震の記述については、都司嘉宣 (1999) 「『平家物語』および『方丈記』に現れた地震津波の記載」建築雑誌 114, 46-49 で考察がなされている。 それによると、この地震は、南海地震であるとみられ、「方丈記」の記述は「平家物語」に基づいたものである。ここの津波は、土佐で起きたものであろうとのこと。 この放送テキストでは、方丈記はリアルな災害記録であるとして激賞しているが、 少なくとも地震の記述に関しては、平家物語を写してきた部分があり、さほど褒められたものでもないようである。 だいたいどこで津波が起きたか書かれていないなど、災害記録としては価値が低い。

ところで、このように他人の文章の記述を借りてくるというのは、他の箇所でもあることが第3回で説明されている。 日本には、本歌取りなんていう和歌の技法もあるくらいだから、これはそれほど悪いことではなかったのに違いない。 むしろ、どのくらいうまく借用するかが、教養の表れるところだと思われていたのかもしれない。 そこで紹介されているのは以下の2か所である。

  1. テキスト pp.57-59 「いはば、旅人の一夜の宿をつくり、老たる蚕の繭を営むがごとし」は、 慶滋保胤の『池亭紀』に基づいている。
  2. テキスト pp.64-65 「世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。 いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし、たまゆらも心をやすむべき。」は、 『行基菩薩遺戒』に基づいている。

第2回 負け組 長明の人生

長明は、下鴨神社の正禰宜の子でお坊ちゃまだったが、18歳で父親が死んでから人生は転落の一途をたどる。 身を立てることができず、不遇の人生を送り、和歌と琵琶に逃避する。47歳で和歌所に迎えられるも、 しかし、下鴨神社の摂社の禰宜になるのに失敗すると、和歌所の寄人も投げ出し、50歳くらいで大原に隠棲。 その後4年くらいしてから日野の方丈の庵に引きこもって「方丈記」を著す。

[吉田感想] 転落の人生とはいえ、食うに困ってはいないらしいのが不思議なところ。 やはり、下鴨神社の正禰宜の子なので、食っていけるくらいの仕送りはあったのだろう。

第3回 捨ててつかんだ幸せ

方丈の生活、すなわちミニマルライフの勧めである。最低限の衣食住で、子供と遊び、 大人とは必要以上には交わらない。それで心が安らかであればよい。 長明は、世間的には負け組であっても、自分はこのミニマルライフの方が幸せだと主張している。

[吉田感想] ミニマルライフもここまで徹底していると気持ちが良い。 今の世間では「断捨離」なるものが流行っているが、これは方丈記から見れば、 ずいぶんと中途半端である。私は、そもそも「断捨離」は嫌いだし、 今の時代、ミニマルライフは無理だと思っているが、方丈記もひとつの美学ではある。 とはいえ、長明が本当は衣食をどうしていたのか疑問である。

第4回 不安の時代をどう生きるか?

長明は、仏教の教えに従って、執着を無くすることが大事だと思っていた。しかし、一方で、和歌や琵琶には執着があったし、 「方丈記」の最後でもそういった執着を自覚して、方丈の庵で「方丈記」を書くことも執着ではないかと述べている。 その結果としてただ念仏を三遍唱えたというところで、「方丈記」は終わっている。 こうした悟りと執着の間にゆらぐ心が「方丈記」の魅力である。

放送時のサマリー

第1回 知られざる災害文学

島津「方丈記は冒頭以外を知らない人が多い」
小林「他が読まれないことが多いですね」

ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず

小林「人と住処をうたかたにたとえている」
小林「方丈記は短くてコンパクト」
小林「前半には災害が書かれている。大火、竜巻、遷都、飢饉、大地震。これらを五大災害ということもある」

災害1 安元の大火
安元3年4月28日、夜8時ころに出火。樋口富小路から出火して、北西に燃え広がった。 風に乗って炎が燃え広がった。焼死者多数。これほど危うい都に財をつぎ込み神経をすり減らすことは、無益に思える。
伊集院「冷静ですね」
島津「ニュース記事みたいですね」
島津「最後に論評が入っているんですね」
伊集院「都会生活が愚かだなんていうのは現代的ですね」
災害2 飢饉
街は死臭に満ちている。賀茂川の河原は死体だらけ。家を薪にしている人がいる。仏像や仏具まで割り砕いている人がいる。 愛する気持ちが強い人が先に死んでゆく。
小林「抑制の効いた筆致です。情けない状況を語っている」
伊集院「とくに誰かをとがめているわけでもない」
災害3 元暦の大地震
山崩れ、津波(たぶん琵琶湖の津波)、液状化、土砂崩れなど。建物は崩壊。
しかし、月日が重なると地震のことを語る人がいなくなる。
小林「今は、方丈記の時代ではなかろうか。阪神の地震とか、奥尻の津波とか、雲仙の噴火とか、水害とか、竜巻とか」
島津「だからこそ、今読み返すべき」
小林「人間は、災害に会って人生観が変わる。そういうときに「方丈記」が読み返される」

第2回 負け組 長明の人生

小林「後半では、自分の住まいが小さくなっていく様子を描いている」
小林「負け組のストレスが、方丈記を書いた動機ではないだろうか」

長明の人生はうまくいかなかった。

小林「引っ越すたびに、住まいが 1/10 になってゆく。」
小林「長明は鴨社の跡取り候補。財力もあった。」

長明は、父方の祖母の家を継いでいたが、その家を出ないといけなくなった。 30歳ころになって家を建てた。今までの家の十分の一の大きさだった。

小林「長明は鴨社の後継者になれなかった。それで世の中を悲観的に見るようになった。」
小林「父親が死んでから、長明の人生は転落の一途。」
伊集院「良い家に生れたからこそ、ショックが大きい。」
小林「長明は、和歌や音楽にのめりこんでゆく。ニートのような暮らしぶり。」

50歳で出家。生きづらい世の中を嘆く。

小林「長明は、人生の節目で負け続けてきた。」

47歳の時、人生最大のチャンスが訪れる。後鳥羽上皇の和歌所に出仕。後鳥羽上皇が 河合社の長に抜擢しようとしたが、うまくいかず、失意の出家。

小林「長明は、破滅型の芸術家。」

57歳の時、源実朝に会いに鎌倉に行く。このときのことは、 太宰治「右大臣実朝」に書かれている。その後、京都の日野に戻ってきてから「方丈記」を書く。

第3回 捨ててつかんだ幸せ

方丈の庵。すぐに引っ越しができる組み立て式。北側に修行の場所があり、東側が寝る場所。

伊集院「掘立小屋みたいでしたね。」
島津「究極のシンプルライフですね。」
小林「長明は豊かなお坊ちゃんだったが、最後には究極のミニマル状態になった。仏教の教えは、執着を断つということ。」
小林「方丈の庵が終の棲家になったようだ。身軽なので、地震でも火事でも憂いは無い。」
島津「長明にとって家とは?」
小林「家は権勢の象徴。長明は、一種の反骨精神で、家は持つまいと転換した。」

方丈の暮らしはユートピアそのものだった。

伊集院「琵琶は、長明にとっては捨てられないもの。」
小林「長明は、やりたいことを縛られずにやりたかった。長明は、大人同士の社交は苦手だったけれども、子供とは心が通った。」
伊集院「子供との交流もベタベタしていない。」

長明は、方丈記の後半で、人間関係について語っている。いわく、「人は、友達を作るとき、うわべだけを考えることが多い。 だったら、音楽や自然を友とした方がましなのだ。」

小林「長明の生活は自給自足。体を動かすことが大事だと述べている。」
小林「方丈記を誰に対して書いたのか?おそらくは、貴族に向かって、自分は幸せだと説いている。」

方丈記より
世界の一切は心の持ち方次第。心が安らかでなければ意味が無い。このもの淋しい住まいを、私は深く愛する。 ここに帰れば、俗世間に心を悩ませる必要が無い。魚は水に飽きることが無い。鳥は森を願う。それらは魚や鳥でないとわからない。 このわびしい住まいもまた同じである。住まなければわからない。

小林「長明は完全な世捨て人でもない。都に行くと恥ずかしいと述べている。」
伊集院「われわれもテレビにいっぱい出てるけど、それで満足なのか?」
小林「人間には背反する気持ちがある。今の状態を維持したいという気持ちと、もっと違う自分がいるんじゃないかという気持ち。」

方丈記に学ぼうという人が増えている。高齢者が多い。

小林「人生の整理をしたいと考える高齢者が多い。」
小林「方丈記は断捨離本のルーツ。」

第4回 不安の時代をどう生きるか?

ゲスト 玄侑宗久

玄侑「現在福島県に住んでいる。新潟県に行ったら稲が青々としていた。そこで「方丈記」を読んでいたら泣けてきた。」
玄侑「福島では当たり前のことが当たり前では無くなっている。」
伊集院「まさに無常ですよね。」

平安末期には数多くの天変地異が起こる。 長明は、人も住まいも無常で脆く儚(はかな)いと説く。 長明は50歳で出家し、方丈の庵を建てる。方丈の生活はユートピア。 念仏をする気が起こらないときは、気ままに休む。 長明によれば、「世界の一切は心の持ち方次第でどのようにでも変わる。心が安らかでなければ意味が無い。」

玄侑「方丈記は、最初は外の景色を描いているけれども、最後に心の問題に到達する。」
島津「玄侑さんは「無常という力」という本を書かれている。」
玄侑「禅の世界では、自分が変わり続けなければいけない。」
玄侑「無常とは、自分が変わり続けること。とどまることは精神の死。」
玄侑「常に新しい体験があるから、自分を組み直し続けなければならない。」
伊集院「常識は常に変わり続ける。これに対応しないといけない。」

長明のことば:
物うしとても心をうごかすことなし(憂鬱でやる気が起きなくても思い悩むことはない)

玄侑「「物うし」というのは、自分がどういう気分なのかはっきりしない状態。」
小林「「物うし」というのは、憂鬱で何もやる気が起きない状態。」
玄侑「津波に襲われたらどんな気持ちになるかわからない。だからなかなか言葉にできない。 言葉にできないことが、とても「物うい」。これはしょうがない。」
玄侑「新しい体験があるということは仕方がない。」
伊集院「そこを無理やり整理しようとしてもしょうがないということですね。」

方丈記の最後:
私の人生も残りわずか。私は間もなく冥土に行くのに何の弁明をしようとしているのだろう? 仏様は執着心を持つなと教えている。なぜこんなに書くのか? 心を清めたくて出家したはずなのに、心は煩悩に染まっている。 心が汚れきった挙句に狂ったのか? わからないので、ただ阿弥陀仏の名を二三度唱えただけである。

小林「長明は執着を恐れていた。だから捨てて捨ててシンプルライフをしていた。 しかし、捨てて暮らす楽しさをくどくど述べるのも執着だということに気付く。」
小林「長明は本当には悟りきっていない。それこそが方丈記の魅力。」
玄侑「無常は自然の特徴。人間も自然の一部だから無常。」
玄侑「法然は、念仏を何枚回も唱えた。でも、やりすぎると不自然。」
玄侑「長明は、シンプルライフにこだわるのもまた不自然だと気付く。」
玄侑「念仏2,3回というのは、多くも少なくもなく自然な程度ではないか。」
玄侑「書き物としては中途半端ではないと思う。書き物としては完璧だと思う。」
玄侑「悟りというのはどんな状況でも通用する状態ではない。答えはその都度立ち上げてゆくもの。 自力ですべてできるわけでもなく、他力も使って生きてゆくという表明。」
伊集院「人間はこうなんですという断定に反発したくなる。」
玄侑「長明はゆらぎを書いて見せた。」
島津「方丈記は何を投げかけているのか?」
玄侑「維摩経では、心の持ちようでは方丈も広いと説かれている。そこを気取りたい。 それが、こんなにコンパクトで便利だという風にずれているところが良い。」
小林「方丈記は説教ではない。生身の人間は悟りには到達しない。 方丈記は、そういう生身の人間が書いた文章。だから共感を呼ぶ。」