松尾芭蕉 おくのほそ道
長谷川櫂 著
NHK 100分de名著 2013 年 10 月、NHK 出版 [電子書籍]
刊行:2013/10/01(発売:2013/09/25)
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読了:2013/10/23
「おくのほそ道」は冒頭などの教科書に載っていた部分を読んだことがあっただけで、中身は俳文であるというくらいのことしか知らなかった。
このテレビシリーズで、初めてさまざまの情感が読み込まれていることを知った。それから、芭蕉の俳句の力強さもわかるようになった。
芭蕉は、「おくのほそ道」の終わりころになって「かるみ」ということに目覚めるのだが、
それ以前の俳句はむしろダイナミックにイマージュをコラージュしてある。
放送テキストのメモ
第1回 心の世界を開く
芭蕉は、俳諧を、ユーモアのある言葉遊びから精神性の高い文学に高めた。
蕉風の句のポイントは、現実の世界と心の世界を同居させているところだ。以下にいくつかの句でそれを見てゆく。
- 古池や蛙(かわず)飛こむ水のおと
- 現実に起こったことは、蛙が水に飛び込む音を聞いたということで、「蛙飛びこむ水のおと」の部分である。
一方、「古池」は、音から想像されたイマジネーションの世界である。だからこそ、「古池や」でいったん切ってある。
- 草の戸も住替(すみかわ)る代ぞひなの家
- これは、旅立ちにあたって深川の芭蕉庵を人に譲る場面。だから、草庵の住人が変わるだろうという
「草の戸も住替(すみかわ)る代ぞ」は現実。一方で、雛人形が飾られるかは、これからどうなるかわからない将来の話であって、
未来の芭蕉庵を想像で描いたのが「ひなの家」である。
- 行(ゆく)春や鳥啼(なき)魚(うお)の目は泪
- これは、弟子たちとの別れの場面。実際出発したのは春(太陽暦では5月)なので、「行春や」で現実にこれから初夏に向かうととともに
旅立つという様子を表現している。その後の「鳥啼魚の目は泪」は別れの悲しさだから、芭蕉の心の中の世界である。
奥の細道は4部構成である。第1部は白河までで、旅の禊の部分。第2部は、尿前(しとまえ)までで、歌枕の旅。第3部は市振までで、宇宙の旅。
第4部が最後の大垣までで、人間界の旅である。この放送も4回をだいたいその4部に対応させて進めてゆく。
第2回 時の無常を知る
芭蕉の旅の目的の一つは歌枕を訪ねることであった。しかし、歌枕は、昔の都の人が想像で詠んだ名所なので、実際には存在しないことが多い上、
もしあっても年月が経っているので、どうなっているかわからない。そこで、芭蕉は歌枕の場所を訪ねては失望感と幻滅を多く綴っている。
その中で、松島だけは素晴らしかったので、高揚感に満ちた文章がつづられている。ただし、俳句は書かれていない。
風景の描写は本文で十分に行ったので、それ以上語る必要を感じなかったのだろうし、むしろ積極的に入れないことで強い印象を与えようとしたのかもしれない。
平泉も印象深いところである。義経が討ち死にした高館(たかだち)に登って往時をしのび
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
と詠むとともに、しばし無常の時の流れに涙を流す。一方で、金色堂が鞘堂(さやどう)に覆われていて時の流れに耐えているのを見て
「千歳(せんざい)の記念(かたみ)」と形容し、
五月雨の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりどう)
の句を残す。
第3回 宇宙と出会う
奥羽山脈を越えると、芭蕉は、天地の広がりを感じる力強い句を詠むようになる。
手始めは立石寺。山寺を巡って心が澄んでくることが、本文に「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行(ゆく)のみおぼゆ」と記され、その直後に有名な
閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声
が配される。すなわち、この「閑さ」は、心が澄み渡った結果の静かな気持ちを表現している。それを「や」でいったん切ってから、
現実世界の「岩にしみ入蝉の声」を重ねてある。蝉の声も風景に溶け込んでいたに違いない。
さらに修験道の聖地出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)では、山に登って、それぞれの山における感激を俳句にした。
涼しさやほの三か月の羽黒山
「閑さや」の句と同様、「涼しさや」は心の世界であると解される。現実の風景の方は、羽黒山に登ったのは旧暦6月3日だったので、ちょうど三日月である。
それが、「羽黒山」の語からイメージされる黒い夜空に、山の空気を通してほのかに光っている様子が描かれている。
雲の峰幾つ崩(くずれ)て月の山
月山に登ったのは旧暦6月8日なので、夜には上弦の半月が見えていたはずだ。この月はもちろん「月山」の名にぴったりだ。
一方で、この夜のイメージに昼の雲を重ねてあって、昼間に入道雲が高く湧いては崩れ落ちるイメージを同居させている。
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
この句の解説はテキストに載っていないから、インターネットで検索して出て来たことを記しておく。湯殿山神社の御神体は、
他の人に語ってはいけないということになっているのだそうだ。それは、一説によれば、御神体の岩が女陰に似ているからだそうである。
ともかく、そのような湯殿山にお詣りして感激の涙を流した、というのが句の意味になる。「湯殿」と「ぬらす」が縁語であることもポイントで、
なまめかしい印象をかもしだす。
これらの出羽三山の句では、山の名前のイメージが句の中に取り入れられていて、しかも3つのイメージの違いが鮮やかに対比されている。
日本海では、壮大な句が登場する。
暑き日を海にいれたり最上川
もともと「涼しさや海に入(いれ)たる最上川」という涼しげな普通の句だったものを、真っ赤な太陽が海に沈んでいくという鮮烈なイメージに書き換えている。
そして、市振まで来て
荒海や佐渡によこたふ天河
が詠まれる。これも、もともと「荒海によこたふ佐渡や天の川」という普通の風景描写だったものを、天の川が佐渡の上に横たわるという強烈なイメージに書き換えている。
第4回 別れを越えて
市振を越えると、別れの句が多くなる。その別れの悲しみの到達点に「かるみ」が現れる。数々の別れを受け止めながらも、軽やかに生きてゆく、
その生き方が「かるみ」である。
激しく別れを詠んでいるのが
塚も動け我(わが)泣(なく)声は秋の風
である。これは、金沢で会うはずだった俳人の一笑が前年に早世していたものを悲しんだものである。これはかなり調子が激しい。
最後の大垣まで来たときに軽い句が現れる。
蛤のふたみにわかれて行(ゆく)秋ぞ
これは、弟子たちと別れて今から伊勢に行くというときの句である。「ふたみ」に蛤の蓋身とこれから向かう二見が浦とをかけ、
別れの悲しさはその言葉遊びの中に隠すという悟りを感じさせる句になっている。
放送時のメモ
第1回 心の世界を開く
俳人の長谷川櫂と女優の内山理名が芭蕉の足跡をたどる。
収録は、放送局ではなくて、深川の芭蕉記念館にて。
- 芭蕉は、1689 年旅に出発。
- 紀行文のように思われているけれども、創作の部分も多い。
- 芭蕉は、伊賀の下級武士の子。23 歳の時、主人が病死。29 歳の時に江戸に出る。句会で頭角を現し、6 年後に俳諧師として独立。
- 俳句は、俳諧連歌の発句が独立したもの。俳諧は、もともとは、面白味があるという意味。
- 39 歳で深川で隠遁生活を送るようになる。46 歳で、「奥の細道」へ旅立つ。
- 旅立つときの句。「行(ゆく)春や鳥啼(なき)魚(うお)の目は泪」
- 旅立ちの3年前の句。「古池や蛙(かわず)飛こむ水のおと」
「古池や」でいったん切っているのがポイント。芭蕉は水の音を聞いただけで、古池を見たわけではない。
この句を境にして、俳諧が和歌に並ぶ芸術に高められた。蕉風開眼。
- 日光での句より。「あらたうと青葉若葉の日の光」。「あらたうと」=たいへん尊い、ありがたい。
- 日光の裏見の滝にて。「暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初(はじめ)」
第2回 時の無常を知る
- 絵を見ると、芭蕉も曾良もけっこう軽装。
- 今日は第2部の「みちのくの歌枕の旅」。歌枕というのは、昔の歌人たちが歌で作り上げた架空の名所。
王朝時代の歌人は貴族なので、風の便りにそういう場所があると聞いて歌を詠む。
- 「みちのくのしのぶもじずり」と昔詠まれた場所を訪ねてみる。でも、行ってみるとぞんざいに扱われていた。
- また、「末の松山」は墓場になっていた。
- 要するに、芭蕉は歌枕の廃墟を旅していた。
- 実際に良い場所だったところもある。それが、松島。「松島や鶴に身をかれほととぎす」(曾良)
- 芭蕉は、松島で詠んだ句を「おくの細道」に入れていない。
芭蕉が詠んだのは、「松島や千々にくだきて夏の海」。しかし、これは単なる風景描写なので、気に入らなかったのだろう。
俳句を入れないことによって、松島の素晴らしさを表現したかったのかもしれない。
- 「松島やああ松島や松島や」は後の時代の狂歌師の句「松島やさて松島や松島や」がちょっと変わって伝説になったもの。
- 5月13日、平泉を訪れた。「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」@高館
- 中尊寺は廃墟となっていたが、金色堂は残っていた。「千年の形見」という言葉を使って感動的に光堂との出会いを綴っている。
「五月雨の降り残してや光堂(ひかりどう)」
第3回 宇宙と出会う
- 今日は、尿前(しとまえ)から市振までの宇宙の旅。太陽や月の句がいろいろ出てくる。
- 尿前の関のあたりではいろいろ苦労する。「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」
この地方の家では、人と馬が同居していた。
- 人に勧められて立石寺に寄り道する。「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」
芭蕉は現実を超えた宇宙の閑さを感じた。
- 最上川を船で下る。「五月雨をあつめて早し最上川」
この句は、最初は「早し」ではなくて「すずし」にするつもりだった。
芭蕉は、流れのエネルギーを感じて「早し」にしたのだろう。
- 出羽三山の月山。「雲の峰幾つ崩(くずれ)て月の山」宇宙の入り口に入っていくような感じがして詠んだ。
日光の「日の光」の句と対をなしている。
- 不易流行:世の中は、変わりつつも変わらない。芭蕉の新境地である。
第4回 別れを越えて
- 今日は、市振から大垣まで。さまざまな別れが盛り込まれている。
- 市振では遊女に会う。一緒にお伊勢参りを請われるが、断る。しかし、これは曾良の日記によれば、フィクションらしい。これから人間界の旅が始まるのだという仕切り直しということのようだ。
- 金沢では若い俳人一笑に会う予定だったが、前の年に亡くなっていた。
- 山中温泉では湯や散策を楽しむ。しかし、曾良が病気になって、伊勢の係累の所に行くことになる。
- 芭蕉は、この世が別れに満ちていることに気づいた。でも、それほど悲しむことではないのだ、ということで「かるみ」の境地に向かう。
- 8月21日、大垣到着。やがて、芭蕉は伊勢に詣でようと決める。「蛤のふたみにわかれて行秋ぞ」