ルネサンス
樺山紘一 著
講談社学術文庫 1083、講談社
刊行:1993/07/10、刷:2008/12/01(第13刷)
文庫の元になったもの:I は「ルネサンスの人と文化」(1987、日本放送出版協会、NHK市民大学の放送用テキスト)。
II は「ルネサンス逍遥」(1986、六興出版)からの抄録。
福岡天神のジュンク堂書店福岡店で購入
読了:2013/05/08
ある研究会で著者の講演を聴く機会があったので買って読んでみた。講演自体は、ルネサンスとは関係ないことだったけれど、いろいろよくお考えになっていることが分かった。
本書の方は、本当のご専門のルネサンスの話で、もともと放送用テキストとして書かれたもののようで、一般向けで分かりやすい。筆致も明快である。
サマリ
以下、自分用のメモとして、本書に書かれていることをまとめておく(偏っているが)。
ルネサンスは 14 世紀から 16 世紀にかけてイタリアから始まって全ヨーロッパに広がった文化運動である。ただし、
近代科学が始まったのは 17 世紀以降だし(たとえば、ケプラーの「新天文学 Astronomia Nova」の出版は 1609 年)、
啓蒙思想も 17-18 世紀なので、まだ近代理性以前の時代であったことには注意しておく必要がある。
ルネサンスの概念について
ルネサンスは文字通りの古代の復活ではない。イタリア人はビザンチン帝国やイスラム世界を通じてギリシャやローマの文化を学んだ。
ルネサンスの始まりとその背景
- 既にその端緒となることは 12 世紀から始まっていた (C.H. ハスキンズ)。少なくとも 13 世紀の後半までにはルネサンスの兆候があったと考えられる。
- 13 世紀からイタリアは商業で栄えた。たとえば、マルコ・ポーロが中国まで行ったのは、13 世紀後半である。
商業の発達に伴って、保険制度、為替制度、複式簿記などが生まれた。イタリアの各地に特産品ができた(たとえば、ヴェネチアのガラス製品)。
- 14 世紀、法王庁がアヴィニョンに移されており、ローマの権威が無くなっていた。15 世紀には法王庁がローマに戻って、ローマの栄光が戻ってきた雰囲気が出てきた。
- 1348-1349 年にヨーロッパ全体でペスト(黒死病)が大流行した。その後、14 世紀中に流行が何度かあった(1373-74、1383、1400)。
一連の流行で、ヨーロッパ全体で人口の1/3ほどが失われたと言われる。これによって、いったん始まりかけたルネサンスが一度は潰れた。
15 世紀前半になると、ペストはだいたい収まったとはいえ、ペストのそれほど大きくない流行は、ルネサンス時代を通じて何度もあった。
そこで、ルネサンスは、ペストの一応の克服によって生を謳歌すると同時に、常に死の影を背負うものになった。たとえば、「死の勝利」とか「死者の舞踏」とかいったような
フレスコ画が描かれた。
- 14 世紀末、ビザンチン帝国がオスマン帝国の進出により窮地に陥っていた。それを機に、ビザンチン帝国から聖職者や学者がローマを訪れるようになり、
イタリアの人々がギリシャ語と古代ギリシャを学んだ。1453 年、コンスタンチノープルが陥落した。
ルネサンスの諸相
- ルネサンスの舞台は、都市であり、とくにパトロンたちの広間と街の広場が重要であった。パトロンとして有名だった人としては、
フィレンツェのメディチ家(とくに、15 世紀前半のコジモ・デ・メディチ)、15 世紀末から 16 世紀前半のイザベラ(フェラーラのエステ家出身でマントヴァ侯婦人)などがいる。
- ルネサンスには、自分の個性を強調した自伝がよく書かれた。15 世紀フィレンツェのレオン・バティスタ・アルベルティは万能人としての自伝を著した。
16 世紀のジェロラモ・カルダーノは、自分の美点と欠点の両方を際立たせるような自伝を書いた。同じく 16 世紀のチェリーニは、荒唐無稽な冒険を散りばめた自伝を書いた。
- ルネサンス芸術の最高峰は建築であった。15 世紀初めのフィレンツェの「花の聖母マリア大聖堂」が初期の代表的な作品で、16 世紀のローマの聖ピエトロ大聖堂あたりが最盛期である。
16 世紀のパラディオがルネサンス建築の集大成を行った。
- 音楽でも大きな変化があった。初期ルネサンスを代表する作曲家にギヨーム・デュファイがいる。デュファイは、イタリアで青壮年時代を過ごした後、
故郷の北フランスに戻ってブルゴーニュ楽派の中心となった。これを受け継いでフランドル楽派が教会音楽を作った。一方で、世俗歌曲も発達した。
16 世紀には、フランスのシャンソンやイタリアのマドリガーレが好まれた。
- 当時の最先端の「科学技術」である占星術と錬金術がイスラム世界から入ってきた。占星術は紀元前後に大成し、ローマ帝国各地で用いられていたものの、
その後ヨーロッパでは消滅し、ビザンチン帝国とイスラム世界で受け継がれた。ヨーロッパでは、12 世紀ころからイスラム世界の占星術を輸入し、
13-14 世紀に定着、ルネサンス初期に流行した。錬金術は、物質に関する知識と技術の体系であり、イスラム世界で発展していた。
- 15 世紀後半、フィレンツェの哲学者フィチーノが「ヘルメス文書」を翻訳し、注釈を付けた。ここには占星術と錬金術の基礎となる世界観が書かれていた。
そこで、ルネサンスの人文主義者は「ヘルメス文書」を研究した。より包括的な世界観として、新プラトン主義が 15 世紀前半にビザンチン帝国からもたらされ、
大流行した。新プラトン主義は、3 世紀のプロティノスが唱えた思想で、万物は「一者」から「流出」したと考える。
- しばしば祭典が催された。その極端な例がサヴォナローナ事件であったと考えられる。
- ファッション、美食、ピクニックが流行した。ナイフやフォークを使った食事はルネサンスの産物である(それ以前は、手づかみ)。
- ジェノヴァやヴェネチアは商業都市として栄えた。ジェノヴァの商業が個人主義的でアナーキーだったのに対し、ヴェネチアは国家の後ろ盾を使った。
ジェノヴァは文化や芸術を生まなかったのに対し、ヴェネチアは芸術の中心地の一つとなった。
ルネサンスの終焉とその背景
- 15 世紀末から大航海時代が始まった。これによって、地中海航路よりも大西洋航路の方が重要になってきた。
そこで、イタリアの力が弱まってきた。大航海の主役はスペインとポルトガルだったが、
スペインの支援を受けたコロンブスはジェノヴァ人、スペインやポルトガルの支援を受けたアメリゴ・ヴェスプッチはフィレンツェ人だったように、
大航海の背景にはイタリア商人もいた。
- 16 世紀前半に宗教改革が起こってプロスタント諸派が成立した。ルターの宗教改革の原因の一つは、ローマの聖ピエトロ寺院の新築費用を賄うための
贖宥状(免罪符)の販売がドイツを狙って行われたことだった。1527 年には、ローマ法王がフランスと結んだことをきっかけに
神聖ローマ帝国の軍隊がローマに侵攻した。これを「ローマの掠奪」事件という。ドイツ人にはイタリアに対する恨みがあったという。
これがルネサンスの終わりのきっかけとなった。
その後、カトリック教会もプロテスタントに対抗して倫理の粛正を行ったため、自由な空気が失われた。
1563 年のトリエント宗教会議の結末をもってルネサンスが事実上終わったとみなされる。
- ルネサンスの巨匠で長命だったミケランジェロがこの世を去ったのは 1564 年である。
- 15 世紀から 16 世紀にかけてルネサンスの文化がヨーロッパ全体に広がる。その影響から、各国で国民文化が生まれる。
これが現在のヨーロッパの国民文化の基礎になっている。たとえば、フランスでは、アンリ2世にメディチ家のカトリーヌが嫁入りしたことが
フランス宮廷文化の発祥となった。スペインには、イタリアで学んだギリシャ人のエル・グレコが移住し、スペイン芸術が作られる糸口となった。
ネーデルランドでは、イタリアに留学したブリューゲルが独自の画風を作り出した。イギリスでは、イタリアに行ったことのないシェークスピアが
イタリアを舞台にした戯曲を数多く書いた。