脳に刻まれたモラルの起源 人はなぜ善を求めるのか
金井良太 著
岩波科学ライブラリー 209、岩波書店
刊行:2013/06/05、刷:2013/06/05(第1刷)
九大生協で購入
読了:2013/07/19
倫理の起源も結局は脳にある。ここでは、倫理は無意識的に発生する感情に基盤を持っている、という立場をとる。
そうすると、倫理に関係した感情と脳の働きとの関連を調べればよいということになる。
ときどき著者自身の研究が織り込まれているが、それは、一言で言えば、感情と脳の特定の部位の大きさの相関を調べるということらしい。
その相関から、感情の起源を探ることができる。ものの感じ方は、脳のつくりによってある程度決まっているし、逆に場合によっては環境が脳のつくりに影響を与える。
そのようなものなので、もはや倫理学は脳科学と切り離せなくなっている(いわゆる倫理学者が脳科学をきちんと考えているかどうかは別として)。
書いてあることは興味深かったが、全体としては、まだこれで倫理がわかるという気持ちにはなれない。
もともと脳科学がそこまで進んでいないから仕方がないことではあろうけれど、それにしても、本全体の統一感がやや弱い。
たとえば、倫理という概念をどう整理するかという問題がある。2章の初めに、倫理をとらえる考え方が3つ書かれており、それらはそれぞれ、
幸福(功利主義)、義務、徳の概念を中心に置く。それで、最後の章が「幸福」で結ばれているのは、功利主義の考え方とは合っているが、
では残りの義務や徳はどうなったのかが、はっきりしない。2-3章ではモラルファンデーションということで「義務などへの拘束」ということが出ているが、
その義務とカント倫理学で見られるような義務とは少し違うように思う。
わかったような気がしなかったので、書いてある主題を章ごとに改めてまとめてみて、倫理との関係を見ることにした。すると、
- 2章 道徳感情;道徳感情には、大きく他者を大事にすることと秩序を守ることの2種類があることが説明される。
- 3章 政治;2章で述べられた2種類の道徳感情のどちらに重点を置くかは、脳の構造に基盤があり、その重点の置き方によって政治的立場が決まる。
- 4章 信頼と共感;2章のうちのとくに他者を大事にする感情は、他者に対する信頼とか共感と深く関係する。
- 5章 評判;利他行為を基礎づける感情として、義憤を感じるとか、他人からの評判を気にするとかいうようなことがある。
- 6章 幸福;功利主義的に言えば、幸福の増進が倫理学の目標だが、その幸福とは何かを分析してみる。
ということになった。で、こうしてまとめてみてわかったことは、これらが倫理を支える感情の全部ではないことが
全体像が分かったという気がしない理由であろうということだ。たとえば、悪いことをした時の罪悪感というのはこれに入っていない。
しかし、こうして並べてみて、ひとつおもしろいことに気付いた。5章で取り上げられている義憤、すなわち他人が悪いことをしていると思うと怒ること、
は2章の道徳感情に入っていない。つまり、義憤は、直接的に倫理の元になる他人を思いやる心などとは別の種類のものだけれども、
悪いことをしないように罰を与えるという形で倫理に寄与している。つまり、倫理を成立させる感情にもいろいろなカテゴリーがあるということだ。
以下、読みながら書いていったサマリー。
- 2 五つの倫理基準
- 倫理規範には伝統的には3つの立場がある。それは、功利主義(最大多数の最大幸福)、義務論主義(理性が決めたルールに従う、カント)、
徳倫理学(人間の内面にある徳を重視、プラトンやアリストテレス)である。
- 直感的・感情的判断は、内側前頭回の機能である。認知的制御機能は、背外側前頭前野の機能である。
- 社会心理学では、次の5つの道徳感情(モラルファンデーション)が基本となっているという考え方がある。
(1) 傷つけないこと (2) 公平性 (3) 内集団への忠誠 (4) 権威への敬意 (5) 神聖さ・純粋さ。
このうち (1)(2) は (A) 「個人の尊厳」とまとめられる。(3)-(5) は「義務などへの拘束」とまとめられる。(A) はリベラル、(B) は保守主義とも言える。
- VBM (Voxel-based morphometry) 解析を行うと、灰白質の量が分かる。(B)「義務などへの拘束」を重要視する人は、梁下回 (subcallosal gyrus) と
島皮質前部 (anterior insula) が大きかった。(A)「個人の尊厳」を重要視する人は、背内側前頭前野が大きく、楔前部 (precuneus) が小さかった。
- 腹内側前頭前野 (ventromedial prefrontal cortex) に損傷があると、義務感が弱くなり、功利主義的な判断をするようになる。
- 3 政治の脳科学
- 保守的な人は恐怖を強く感じる。リベラルな人は、複雑な状況や不確かさに寛容である。
- モラルファンデーションから政治的傾向は4つに分類できる。
B\A | 高 | 低 |
高 | 宗教的左翼 | 保守 |
低 | リベラル | リバータリアン(個人の自由、自由競争を重視) |
- リベラルな人は前部帯状回 (anterior cingulate cortex) が大きい。保守的な人は扁桃体が大きい。扁桃体は恐怖を感じる場所である。
保守的な人は島皮質全部が大きい。ここは不衛生なものへの嫌悪感と関わる。
- 政治的な信条には遺伝的な要因もかかわる。
- 4 信頼と共感の脳科学
- オキシトシンというホルモンは、信頼感や絆を強める。オキシトシンの受容体は、扁桃体や側坐核 (nucleus accumbens) などに多い。
側坐核は、報酬や快感と関わる。オキシトシンには、嫉妬心を強めたり、他人の失敗を喜ぶ傾向を強めたりするという報告もある。
そのほか、オキシトシンは、内集団への絆を強めることの裏返しで、エスノセントリズムを引き起こす。
- 他人との接触でオキシトシンは増加する。
- 共感力を測る IRI (interpersonal reactivity index) では、共感的配慮、視点取得、空想、個人的苦悩の4つの共感のスコアを測定する。
共感的配慮とは、他人をかわいそうだと思う気持ちである。視点取得は、他人の気持ちになってものを考えることである。
空想は、架空の人物に自分を重ね合わせてみる傾向である。個人的苦悩とは、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じる傾向である。
- 共感的配慮と視点取得は、前帯状回と楔前部の大きさと相関していた。これらは、政治的リベラルさ、「個人の尊厳」と関係している部分であった。
空想は、背外側前頭前野 (dorsolateral prefrontal cortex) と相関があった。個人的苦悩は、島皮質前部と体性感覚野と相関していた。
島皮質前部は「義務などへの拘束」と相関している部分であった。体性感覚野は他者からの社会的信号を理解する部分である。
- 5 評判を気にする脳
- 義憤を感じることは、社会の秩序の維持に役立つ。
- 人は他人の評判が良いことを求める。他人の自分への評価が高かったときには、脳の線条体が反応する。
線条体は金銭的報酬にも反応することが知られており、金銭的報酬にも社会的報酬にも関係するということのようだ。
- 6 幸福の脳科学
- お金など物質的な豊かさによる幸福度は相対的なもので、周囲より豊かなときに幸福を感じるという性質のものである。
- 周りに相談できる人がいるかとか、信頼できる人がいるかといったようなことをソーシャルキャピタルと呼ぶ。これも幸福度に関係する。
ソーシャルキャピタルは、脳の構造としては、中側頭回、上側頭溝、扁桃体、嗅内皮質と相関しているようだ。
中側頭回、上側頭溝、扁桃体は、他者の感情や理解と関わる。嗅内皮質は記憶に関わる部位だから、人の顔と名前を覚えることと関係しているかもしれない。
- サルでは、社会的環境で脳が変わることも分かっている。大きな社会集団で生活しているサルは、上側頭溝、扁桃体、前頭前野のブロードマン46野と10野の境界部が大きくなる。
前頭前野のブロードマン46野と10野の境界部は他者の行動の予測と関係しているらしい。
- 孤独感とは pSTS (posterior superior temporal sulcus) と関係している。pSTS は他者の視線の処理をしている。
他者の表情が読めない人は、他者とうまく交流できず、孤独感を感じるのかもしれない。
- 幸福には、感覚的な快楽(ヘドニア)と、自己実現や生きがいを感じることで得られる幸せ(エウダイモニア)がある。
エウダイモニアは、島皮質の大きさと関連がある。しかし、島皮質とエウダイモニアがどう関係しているのかはわかっていない。