科学と価値 相対主義と実在論を論駁する

Larry Laudan 著、小草泰・戸田山和久 訳
双書現代哲学 8、勁草書房
原題:Science and Values -- The Aims of Science and Their Role in Scientific Debate
原出版社:The University of California Press
原著刊行:1984
刊行:2009/12/20
訳者の T 氏より頂戴した
読了:2013/09/05
本書では、科学の変化に対する合理主義的な解釈が明快に述べられている。 科学において、目的と方法と事実は階層構造を成すのではなく、お互いに影響し合っているという網状モデル (reticulated model) という考え方が提案されている。 これに基づいて、理論選択に関する相対主義が誤っている理由を分析し、理論選択は合理的に行えるのだということが主張されている。

最後の5章では、科学的実在論が徹底的に批判される。 とはいえ、実在論批判は良いとしても、ラウダン自身がどのような反実在論的立場を取っているのかは明らかにされていない。 実在論/反実在論論争は、聞けば聞くほどどっちでもよくなってくる。実は、現在では双方の立場がかなり歩み寄っているので、 両者にそれほど大きな違いはないからだ。まあ科学者としては、少なくとも気持ちの上では実在論を取っておかないと科学をする元気が削がれるので、 私は一応実在論者なのではあるが、ラウダンの言うこともわかる。気持ちの上で実在論、理論上は反実在論というのが落ち着きが良いのかもしれない。

巻末に訳者の戸田山氏が60ページあまりにわたって著者のラウダンの解説をしている。これも充実していてわかりやすい。


以下、サマリー
第1章 科学に関する二つのパズル
今までの科学哲学と科学社会学のサマリー。 1940-50 年代の科学哲学と科学社会学においては、科学者はお互いに一致した認識を共有しているということが 科学の基本的な特徴だと考えられた。哲学においては、これは科学的方法のおかげだと考えて、 そのような方法を明らかにしようとした。社会学においては、一致は、 共有されている規範とか基準だとかのおかげだと考えた。 ところが、その後、科学においても本質的に不一致や論争が起こることが明らかになった。 そのことは、論争が実際たくさんあること、共役不可能性、データによる理論の決定不全性、 科学者の規範に違反する振る舞い、という4つの議論の筋道で論じられた。 クーンは、パラダイムという考え方を発明して、この不一致を論じた。 ところが、不一致を強調すると、危機の時代から通常科学への移行(不一致から一致への移行)を 説明することができない。クーンをはじめ、ラカトシュ、ファイヤーアーベント、社会学者たちは、 論争が終結して一致に至るプロセスを説明できなくなってしまっている。
第2章 科学論争の階層的構造
科学における正当化は、階層構造をしていると考えられてきた。それは3つのレベルから成る。 下位から、事実のレベル(理論選択も含まれる)、方法論のレベル、目的や価値のレベル(価値論のレベル)の 3つである。事実に関する不一致は方法論のレベルで解消され、方法論に関する不一致は目的や価値のレベルで 解消されると考える。ここでは、この階層モデルに基づくいくつかの誤りを論駁したい。
  1. 理論の決定不全性から、方法論によっては理論は決定されえず、 したがってどんな理論も同等だというような主張がなされることがある。 しかし、実際に科学者が直面する状況は、そんなに多くない有限の数の理論のうちのどれを選ぶかという問題であり、 方法論的規則によってある程度は決められるのが普通である。クーンらもそれを否定できているわけではない。 もちろん一つには決められないこともありうる。すなわち、理論の選択肢は有限なので、その中で最善のものを決められることもあるし、 決められないこともある。
  2. 理論の決定不全性と同様、目的や価値が方法論を一意的に定めるわけではない。といって、まったく決められないわけでもなく、 目的や価値に照らして、複数の方法論的規則の中で、どれが良いかということはある程度はわかる。 しかし、目的や価値は複数あり得て、そのなかのどれに重点を置くかについては、科学者の間で一致があるわけではない。
  3. そもそも階層モデルの考え方にも問題がある。事実によって、方法論が影響を受ける場合がある。 たとえば、プラシーボ効果というものがあるということを知っているから、一重・二重盲検法が必要になる。
第3章 評価の循環を閉じる
階層モデルには、さらに次のような問題があり、最終的には捨てなければならない。
  1. これまで、価値論のレベルと事実や方法論のレベルがしばしば一体のものとして考えられてきた。 事実や方法論の選択が異なれば目標が異なり、逆に事実や方法論が同じならば目標が同じと考えられた。 ところが、実際は、異なった価値論を持っていても理論や方法論が同じということもある。
  2. これまで、価値論の問題は趣味の問題であり、合理的には不一致を解決できないと考えられてきた(とくに、ポパーやライヘンバッハはそう考えた)。 それは誤りであって、認知的目的や目標も合理的に評価できる。
  3. 認知的目標を批判する方法には2つのやり方がある。(1) 目的が実現不可能である。たとえば永久機関を実現したいというような、 現在の知識に照らして到底不可能な目標。あるいは、単純性とかエレガントさとかいったような、達成基準を明確にできない目標。 (2) 明示的に考えている目標と、実際やっていることとに齟齬があることを指摘する。[例1] 18 世紀ころまで、科学者たちは観察可能なものに理論を制限しようとしていたが(経験主義)、 そのうちそれが実態に合わなくなっていって捨てられ、1850 年ころくらいまでには、観察不可能な存在者に関する仮説が正当だと認められるようになった。 [例2] デカルトの時代には、科学的説明は理解しやすいものによって理解しにくいものを説明すべきであり、遠隔作用はもってのほかだったが、 ニュートン物理学の成功によって、デカルト主義は 1740 年代までには途絶えた。  
  4. 以上のことから、価値論、方法論、事実に関する主張(理論)は、階層構造を成すものではなく、互いに影響し合うものである(網状モデル)。
  5. 科学の進歩は、現在の科学の目標に照らして判断せざるを得ない。それから逃れるすべはないし、そうあるべきだ。 過去の科学者が、われわれと目的を共有していた必要は無い。
第4章 科学の変化についての全体論的描像を解剖する
クーンは共役不可能性をあまりにも強調しすぎている。
  1. クーンは、パラダイムを、価値論・方法論・存在論が1セットになったものであると考えた。 異なるパラダイムは、その3つのセットが全部異なる。そこで、パラダイムの転換は、回心体験のようなものになる。 しかし、網状モデルに従えば、3つは1セットで同時に変わる必要は無く、漸次的に移り変わっていったと考えるべきである。
  2. パラダイム転換なしに起こった大きな変化の例を2つ挙げる。(1) 1800 年から 1860 年の間に、帰納的方法は姿を消し、仮説演繹法(仮説の方法)に 取って代わられた。これは方法論の大転換であるが、科学革命とは結びついていない。 (2) 19 世紀の間に、科学は確実性を目指すという見解は、可謬主義に取って代わられた。この価値論の大転換は、パラダイムとは結びついていない。
  3. クーンの方法論に関する決定不全性の議論を批判してみる。(1) クーンによれば、方法論的な標準は多義的で不明瞭であるため、 個人的な好みが入って来てしまう。しかし、たとえば内的整合性のような明確な標準も存在する。多くの方法論的な規則は明確である。 (2) クーンによれば、規則の集まりは整合的ではない。たとえば、単純性と整合性が衝突することがある。したがって、科学者は 自分の好きなような結論を得ることができるというわけである。しかし、いろいろな規範はそれほど不整合ではない。 もちろん、複数の基準のどれにどれだけ重みを置くかによって判断が変わることはあるのだが、その程度を良く考えないといけない。 (3) クーンは、方法論が異なれば、科学の実質的な問題に関しても一致しないはずだとしているが、これまで説明してきたとおり、そんなことはない。 方法論に関する不一致と、理論に関する不一致は、同期しない。(4) クーンは、異なるパラダイムの支持者は、重要と考える問題が異なるので、 合理的にどちらが正しいとは言えない、と考えた。しかし、ある問題が重要と考えるかどうかは、主観的な問題でも社会的な問題でもなくて、 認識的な問題であり、理論の一般性や予測能力をテストするものであるかどうかなどの観点から合理的に議論ができる。
第5章 実在論的な価値論と方法論に対する網状モデルにもとづく批判
ここでは、科学的実在論を批判する。批判の対象になるのは、実在論が理論的な対象物を(近似的に)存在すると考えるという部分である。 批判の仕方はおおざっぱに言うと以下の通り。科学が成功しているということは認める。しかし、過去の歴史を見れば、成功していても 後に(とくに理論的な対象物に関して)正しくないことがわかった理論はいっぱいある。だから、実在論は正しくない。批判の的にする科学哲学者は、 とくにパトナムで、奇跡論法で実在論的に科学の成功を説明していることが批判されている。
  1. 収束的な認識的実在論 (convergent epistemological realism, CER) とここで呼ぶ立場は以下のようなものである。 (R1) 成熟した科学の理論は近似的に真であって、時代が経つにつれ真理に近づいている。 (R2) 成熟した科学理論の理論語は、正しい指示を行っている(理論的に存在されるとされるものが、実際世界にある)。 (R3) 後に来る理論は、先行する理論を特殊ケースとして含む。 (R4) 後に来る理論は、先行する理論が成功してた理由を説明する。 (R5) 科学が成功しているということから、科学が近似的に真であるということが確かめられる。
  2. まず、(R2) の指示に関する部分を批判する。第一に、正しい指示を行っていても成功するとは限らない。たとえば、18 世紀の化学的原子論は 不成功だった。ウェゲナーの大陸移動説ははじめの 30 年間不成功だった。第二に、成功した理論で正しくない指示を行っていたものも多い。 たとえば、エーテル理論とかフロギストン理論がそうである。したがって、理論の成功と、理論語の正しい指示とは無関係である。
  3. 次に、(R1) はどうだろうか?これは、そもそも近似的に真であるということがいかなることであるのかまともに定義ができない。 さらに、(R5) のように、成功しているからといって、近似的に真であるとは言えない。過去の科学で、成功していても後に正しくないことが わかった理論はたくさんある。たとえば、フロギストン理論、熱のカロリック理論、激変説的地質学などである。
  4. (R3) については、(R2) が否定されたので、同時に否定される。たとえば、現在の物理理論は、かつての理論の中核的概念だったエーテルを含まない。 存在者に関することでなくてメカニズムやモデルに関してもやはり後続理論は先行理論を保存していない。たとえば、光の波動理論は 粒子光学のメカニズムを受け継いでいない、相対論物理学はエーテルに結びついていたメカニズムを保存しなかった。
  5. (R4) は必要が無い。新しい理論の方が優れていると判断されれば、古い理論の成功が説明されていようがいまいが受け入れられるのである。 そもそも新しい理論が受け入れられたときに、それが成功した理由は説明ができない(近似的に真であるとは言えないので)。
  6. そもそも実在論事体を経験的に立証することができない。