熱力学(改訂版)

押田勇雄・藤城敏幸 著
基礎物理学選書 7、裳華房
刊行:1970/03/25、改訂:1998/10/10、刷:2005/02/25(第33版)
九大図書館(箱崎)で借りた
読了:2013/06/01
熱力学の演習を担当しているせいもあって、熱力学の教科書の品定めをしている。この教科書は、ずいぶん昔からあるところから見て評判が良いのであろう。 実際平易でわかりやすいといえばわかりやすいのだが、今となってみると、いろいろ気に入らない点がある。それを以下に列挙しておく。 勉強になる点もあったのだが、全体としてみれば、今や使えない教科書だと思う。この教科書の初版から 40 年以上経った現在、もっと良い教科書がいろいろある。

不満な点

第2法則関係

(1) 一番気に入らないところは、自然界における変化の条件を (5.5) 式 (p.135)
dU - T dS ≤ -p dV
と書いてあるところだ。これは適当な解釈の下では間違っていないのだが、内部エネルギーの全微分型の表現 [(4.52) 式 (p.120) や (5.20) 式 (p.139)]
dU = T dS - p dV
との整合性がどうであるのか全く書かれていない。それどころか素直に読むと、全微分の式は、準静的変化に関してしか成立しない特殊な式であるかのように読める。 それはもちろん間違いで、この式は U(S,V) を単に全微分したもので、第一義的には「変化」とは関係がない。準静的過程では変化と解釈してもかまわないけれども、 まずは、平衡状態における熱力学関数 U(S,V) を全微分したものというべきである。(5.5) のように書いては混乱を招くばかりである。 (5.5) のように書けるためには U が S,V 以外の変数にも依存しているという状況を考えなければならないが、そのようなことは一言も書かれていない。

(2) そもそも (1) のような混乱が生じる一つの理由は、変化の方向を説明するのに微小変化に対する式 [(5.1) 式 (p.135) や (4.63) 式 (p.123)]

T dS > d'Q
を採用しているせいである。熱力学第2法則は有限の変化で成立するので、そちらを使うほうが一般性も高いし望ましい。それに、これと 仕事に関しては準静的な場合に成立する
d'Q = dU + p dV
を組み合わせているので混乱する。準静的な問題を扱うのかそうでないのか一般性がどこまであるのかこれではさっぱりわからない。

(3) さらに、第2法則を (4.63) 式 (p.123)

d'Q / T < dS
のように書いてしまうと、T がどこの温度だかよく分からなくなる。丁寧に書いてある教科書だと、これは外界(あるいは熱源)の温度だと区別している。

理想気体関係

(1) 初学者がよく間違えやすいことの一つは、理想気体でしか成り立たない性質を熱力学一般で成り立つかのように誤解してしまうことである。 この教科書はそれを誘導しやすい構造になっている。というのは、本格的な熱力学が第3章で始まる前の第2章で気体分子運動論を説明しているからである。 これだと、初学者は気体の性質をまず覚えてしまうので、無意識のうちにそれが一般化できるような気分になってしまうだろう。

(2) 上の例の一つだが、熱力学に本格的に入る前に理想気体についてマイヤーの関係式

C_p - C_v = R
を説明している (pp.51-52)。こうしてしまうと、初学者は定圧比熱と定積比熱の差は仕事の分だと思い込んでしまうことになる。 しかし、それは理想気体でないと正しくない。一般的な式の一つである (3.16)
C__p - C_v = { p + (∂U/∂V)T} (∂V/∂T)p
からわかるように、理想気体でなければ、仕事からくる p (∂V/∂T)p の他に、(∂U/∂V)T (∂V/∂T)p があるのである。 このことはきちんと注意されていない。

これに関連して、(3.39) (p.89) もいきなり

C_p = (∂U/∂T)V + p (∂V/∂T)p
としてあるが、まずは
C_p = (∂U/∂T)p + p (∂V/∂T)p
としてから、理想気体では
(∂U/∂T)p = (∂U/∂T)V
としないと、論理の筋道が分かりにくいし、(3.16) との関係も分かりにくい。

(3) p.90 で理想気体の定義を (i) 理想気体の状態方程式にしたがうこと (ii) (∂U/∂V)T = 0 (iii) 比熱が温度に依らない、としている。 しかし、ふつうは (i) だけで定義するものではなかろうか。(ii) は (i) から導かれる。(iii) は理想気体の定義に含めないことが多い。 そもそも、(ii) が (i) から導かれることが書かれていないのが問題である。

単位関係

(1) (物理量)=(数値)×(単位)という考え方が徹底していない。たとえば、 のような感じである。

もっとも、熱力学の場合は、この意味ではモル数がいつも悩ましい。理想気体の状態方程式を

P V = n R T
としたとき、n は物質量、R はその物質量に対応する気体定数とするのが正しいのだろうが、n はモル数、R は通常の意味での気体定数と 書かないとしょうがないこともある。

気付いた点

以下はもっと細かく気付いた点を、順に挙げていく。

(1) p.29 (1.21) 式の3変数の関数 U が全微分になる条件が誤り。たとえば、P=y, Q=R=0 は (1.21) を満たすが、dU = y dx を満たす U は存在しない。 正しいのは、もちろん

∂Q/∂z=∂R/∂y
∂R/∂x=∂P/∂z
∂P/∂y=∂Q/∂x
のはず。

(2) 4.6 節 (pp.127-133) において、エントロピーの微視的説明がなされている。このうち、pp.132-133 の例題の説明がよくわからない。 「体積 V の中に N 個の分子を見出す確率」とは何なのだろうか?今考えているのは、体積 V の中に N 個の分子があるという状態なのだから、 素直に解釈すればこの確率は1であって、意味がない。やはりふつうに位相空間の話からしていかないといけないのではないだろうか。 位相空間の話を省略してしまうと、何のことかわからないと思う。

(3) 2相の平衡 (pp.153-155) の説明に変なところがある。Gibbs の自由エネルギーに関して (5.94) 式 (p.154)

G = g' n' + g" n"
を導いているのだが、この導き方がおかしい(g は化学ポテンシャル)。これは一般に部分モル量に対して成り立つ関係なので、 「議論を簡単にするため、(5.91) 式の右辺の第1項及び第2項を省略して議論する」ということは全く関係がない。 この右辺の第1項は V dp、第2項は -S dT なのだが、これを 0 にするというのはこの文脈では誤りである。

(4) 相律 (pp.157-158) の説明で、ギブスの相律が出てくるのだが、導出がそれほど難しくないにもかかわらず導出が書かれていない。 難しくないと言っても、初心者には難しいので、導出を書いておいたら良かったと思う。導出の仕方は、以下の通り。 考える変数の数は (p, T) の2個と各相での成分の割合 (β-1)α 個の合計 2 + (β-1)α 個である。 一方で (5.111) の式の数は、β(α-1) 個である。その結果、f=(変数の数)-(式の数)=β+2-α となる。 この説明がないと、自由度が何かが具体的に分からないだろう。

(5) マックスウェルの規則 (pp.160-162) のうちの p.161 の初めの方で「以前には….しかし現在では…」とあるのが変。 後の文脈から言えば、この「現在」はマクスウェルの時代を指すようである。しかし、ふつうマクスウェルの時代を「現在」とは呼ばない。

(6) 表面張力 (pp.162-165) の話で、F が A に比例するとしてあるが、これは誤り。F が A と T の関数で、F も A も示量性の量だから そうだとしたようだ。しかし、A を増やすのに、分子数を増やさないで A を増やす方法と、分子数を付け加えて A を増やす方法があって、 一般にはそれらは一致しないので、F は A に比例するとは言えない。 もし、この話が成り立てば、表面ではないバルクの話でも P = - F/V が成り立たないといけないことになってしまう。