分析哲学を知るための哲学の小さな学校
John Passmore 著、大島保彦・高橋久一郎 訳
ちくま学芸文庫 ハ 38 1、筑摩書房
刊行:2013/02/10、刷:2013/02/10(第1刷)
文庫の元になったもの:1990 年、青土社刊
原題:Recent Philosophers -- a supplement to A Hundred Years of Philosophy
原出版社:Gerald Duckworth and Company Ltd.
原著刊行:1985
東京品川の PAPER WALL ecute 品川で購入
読了:2013/08/05
表紙を見て分析哲学の教科書かと思って買ったら騙された。これは英語原題の方が適切で、前著の「A Hundred Years of Philosophy (哲学百年)」
(第2版が 1966 年)以降の約 20 年間の分析哲学の進展を著者なりにまとめたものである。しかも、その「哲学百年」には邦訳が無いらしい。
とはいえ、せっかく買ったので読んでみた。私にとってはいろいろわかりづらい点があったが、それには目をつぶって以下に内容を要約してみる。
せめて要約くらいして見ないと、書いてあることの筋が分からない。前著が前提になっていたりするところがあって、そのせいで
話が飛ぶように見えるのかもしれない。この本を読んで、もうちょっと詳しく読んでみたいと思ったのは Hilary Putnum だけであった。
あとは、わりとテクニカルな議論なのかなと思った。
というわけで、以下サマリである。分からない部分もけっこう多かったが、私の知識不足なのか翻訳の問題なのかわからない。ともかく、分かる範囲でまとめる。
- 第1章「序論―変化と連続」
- 本章は、本書が扱っている範囲の輪郭付けである。
- 一口に分析哲学と言っても、最近では境界が曖昧になってどこまでが分析哲学だかよく分からくなってきた。
- 後半では、古典的なテーマを扱っている哲学者が4人取り上げられている。扱っている問題の広いオーストラリアの David Armstrong、
同一性 (identity) という古典的な問題を扱っている David Wiggins、そして言語の哲学の John Searle と Paul Grice である。
- 第2章「構造と統語論」
- ここは、構造主義をめぐる動向である。
- Ferdinand de Saussure が明らかにしたことは、概念は他の概念との差によって消極的に定義されるということである。
この「差異」の概念は、後の構造主義で頻繁に用いられる。
- 次に構造主義の説明がある。構造主義はなかなかひとくくりにはできないが、全体的に言えば、反ヒューマニズムで、概念やシステムを重要視する。
人間の意志の役割は小さく、人間の行為を決定づけるのはシステムであるとする。
- Jaques Derrida の著作は、体系的ではなくわかりづらい。彼は、構造主義のシステムを批判し、「脱構築」が必要であると言う。
- 最後に、一見構造主義とは関係が無い Noam Chomsky が紹介される。
彼は、ヒューマニストであり、言語をとらえる場としては社会ではなく個人を重要視するという意味では、構造主義とは対立する立場にある。
しかし、理論が形式的・数学的であり、深層構造と表層構造の区別をするという意味で、構造主義と親和性が高い。
もっとも、深層構造と表層構造は、あいまいな概念なので、Chomsky 自身は、のちに捨ててしまった。
Chomsky によれば、人は生得的に言語に対する「暗黙知」を持っており、これによって人は文法的なものと非文法的なものを区別できる。
言語理論は、人のそのような言語の運用能力 (competence) を解明して、なぜある文が文法的に可能なのかを説明するようなものでなければならない。
このような心の「構造」を考えるという意味で、Chomsky と構造主義には親和性がある。
- 第3章の「統語論から意味論へ」
- ここでは、意味論の話題に入る。
- Chomsky は意味論を扱わなかったのだが、J.J. Katz と J.A. Foder は Chmosky 理論を意味論に拡張しようとした。
すなわち、意味が正しい文とか文の正しい意味を人が認識できるのはなぜかと問うた。これをめぐっていろいろな議論がある。
- Richard Montague の仕事は要約が難しい。Montague がやりたかったのは、哲学をするのにふさわしい形式化された人工言語の創出と、
そうした言語による日常言語の分析であった。彼はまず、意味論にふさわしい統語論を作ろうとした。
その結果、英語を内包論理学の表現に翻訳するようなことをした。彼は、自分の研究を体系化する前に殺害された。
- David Lewis は慣習(規約、convention)についての理論を発展させた。言語は慣習に従い、それによって他人の思想や行動をコントロールする。
- Lewis を含めてこの後この章で取り上げる哲学者が共通に扱っている問題は「可能世界」である。可能世界とは、仮定法の条件節(現実と異なる仮定)が
成り立つような世界である。Lewis は、可能世界を実在論的に解釈する。Nelson Goodman は、可能性に関する言明を現実性に関する言明に書き換えようとする。
可能性は、現実世界の知識の投射 (projection) であるとした。これにはいろいろ問題がある。
Robert Stalnaker によれば、可能世界は、仮定法の条件節が成立した上で現実世界との差が最小限の世界である。
Saul Kripke は、可能世界の実在論的解釈を否定している。
- Kripke がやったこと: (1) アプリオリと必然性を区別した、(2) 固有名は、その対象の記述とは独立に対象を指示しているとした、
(3) 事物もその属性を必然的に持つと考えた、(4) すべての同一性は必然的であるとした。
- 第4章「デイヴィドソンとダメット」
- ここは、Donald Davidson と Michael Dummett の紹介である。
- Donal Davidson の仕事を大きく心理学の哲学に関するものと意味論に関するものとに分ける。
心理学の哲学に関して、出発点となる問題意識は、「人間の行為は自然の一部であるが、決定論的法則には従っていないように見える」ということである。
Davidson は「出来事」を存在者であると考える。そうすると、通常の仕方では明らかにならない含意関係の成立がわかるようになる。
しかし、Quine に従えば、存在するには同一性が無いといけなくて、Davidson は、出来事は同じ原因と同じ結果を持つ限り同じ出来事であると考えた。
それと同時に、因果関係は必ずしも法則に従うことを意味しないとした。
自然の出来事は物理法則に従うものの、心的な出来事は、心理的な言い回しだけで語る限りにおいて、法則に従う必要は無いと考えた。
- Davidson において、意味論は、文の部分や単語の役割、あるいは文と他の文との関係を明らかにするものである。
言い換えれば、文の論理形式を見出すものである。Davidson は、Tarski のように、文に対してその論理形式を与える文を作る。
Tarski のやり方では扱えなかった「あの本」のようなものが扱えるように拡張されている。
Davidson によれば、文を理解するにはその部分の意味を知らねばならず、部分を理解するには文を理解しなければならない。
これは悪循環のようだが、Davidson は、文の意味を与えるのはその言語の他のすべての文だという全体論でかわそうとしている。
- Michael Dummett の仕事としては、言語哲学とそれに関連した反実在論が紹介されている。Dummett は、言語の分析を哲学の中心に置いている。
優れた意味論は、理解するとはどういうことかを明らかにすることになる。
Dummett は、Davidson とは違って全体論を否定し、要素論あるいは分子論的な立場をとる。
Dummett は、文を理解するということはその真理条件を述べうることだ、という考えを否定する。
たとえば、「この地点には決して町はできないであろう」という文は、真偽を決められない。文は、真か偽のどちらかでなければならないということは無い。
Dummett は、文が真であることを検証するよりも反証可能性の方が重要だという方に傾いている。
このように二値論理(真か偽のどちらかでなければならない)の立場を取らないということが、Dummett の反実在論につながる。
とはいえ、Dummett は全くの反実在論者というわけでもない。
- 第5章「実在論と相対主義」
- 本章では、認識論や科学哲学の動向が説明されている。取り上げられている主な人々は、
Nelson Goodman、Hilary Putnum、Daniel Dennett、Imre Lakatos、Paul Feyerabend、Mary Hesse、Richard、Richard Rorty である。
殊に Hilary Putnum の説明に多くのページが割かれている・
- Nelson Goodman は、世界には多様な解釈がありうるとした相対主義者である。科学がひとつの世界の解釈であるのと同様に、
たとえばラファエロの芸術も世界の解釈とみなすことができる、とした。ただし、何でもありというわけでもなくて、「厳しい制限」があるとはしている。
しかし、その「厳しい制限」とは何なのかはあまりはっきりしない。
- Hilary Putnum は可謬主義を取る。数学的言明や論理法則も修正されることがあるとしている。
- Putnum は可謬主義の上での実在論の立場をとる。空間が3次元であることや電子が存在することは「必然的真理」ではあるが、修正されることもありうる。
これに伴って、観察語と理論語の間にははっきりした区別は無いと考える。Putnum は、仮説はまず使われるためにあると考える。
仮説は Kuhn の言うパズル解きに使われる。これは、Popper が、仮説を確証や反証というコンテクストに置いたのと対照的である。
Putnnum は Kuhn のような共役不可能性は否定する。電子に関する理論がどれほど変わっても、電子という語が指示している対象は変わらないものとしている。
このような議論に当たって、Putnum は分析的と総合的の区別を弱めている。たとえば、エネルギーという語は、多くの法則に関わっている。
そこで、そのうちの一つの法則が変わっても、エネルギーという語が指しているものは同じである。言い換えれば、エネルギーに関する法則は分析的というわけではない。
- Putnum は、心の状態を行動と同一視する論理的行動主義には反対だし、心の状態は脳の物理的状態と同一視できるという同一説にも反対である。
たとえば、チューリングマシンのある状態は、真空管を用いてもトランジスタを用いても実現できる。このように物理的な状態は異なっても
同じ心の状態であることは可能である。ただし、人間の場合は他の人間との関係なども心の状態にかかわるので、チューリングマシンのように
個々の機械ごとに状態が考えられるわけではない。
- 心の問題では、Daniel Dennett の寄与も重要である。「信念」や「思考」や「苦痛」などといった語は、それが指示する対象があるわけではない。
それらは「志向的性質」である。ただし、これは物理主義に反対しているという意味ではない。機械も「信念」を持ったり「欲求」を持ったりすると言って構わない。
- Putnum は実在論者と言っても部分的には反実在論的である。彼は、「形而上学的実在論」を拒否し「内在的実在論」の立場をとる。
前者は、「世界そのもの」はその表現とは独立であると考える。「世界そのもの」は理論が表現してくれるのを待っている。
後者では、世界の在り方と記述とは不可分である。心と世界は共同して心と世界を作り上げている。Putnum は、主観と客観、事実と価値の二分法も拒否する。
彼は、文化的相対主義も拒否している。合理的な不変の規準が無いからといって相対主義を取らなければならないということもない。規準の変更も合理的に行われうる。
「形而上学的実在論」は物理学を唯一の近似的に正しい記述であると考えることにより、かえってそれが正しくない可能性を際立たせて文化的相対主義を助長することになっている。
- 科学哲学では、ベイズ流の確率理論に基づいて仮説の正当化をする考え方が発達してきた。しかし、Lakatos や Feyerabend はそれに反対している。
Lakatos はリサーチ・プログラム論を作った。Feyerabend は実在論者であり、パラダイムの増殖を擁護した。しかし、彼は後期になると
「なんでもかまわない」などと言いだすようになるので評判が悪い。
- Mary Hesse は、アナロジー、メタファー、想像力の重要性を強調した。科学理論が収束するように見えるのはなぜかという問題に関しては、
Hesse は、これは道具としての収束なので、本当の収束ではないとする。彼女は相対主義には反対なのだが、理路はうまくいっていない。
- Richard Rorty によれば、哲学の真の課題は会話を続けることである。Rorty は William James による真理の定義を受け入れる。
すなわち、真理とは「何かを信ずるにあたって、十分明確な理由から善いとされるすべてのものにつけられる名前」である。