柿の種

寺田寅彦 著
岩波文庫 緑 37-7、31-037-7、岩波書店
刊行:1996/04/16、刷:2013/05/07(第31刷)
文庫の元になったもの:「寺田寅彦全集」第11巻(1961年、岩波書店)、「柿の種」(1946年、小山書店、第12刷)、「橡の実」(1936年、小山書店)
九大生協で購入
読了:2013/08/29
これは、俳句の同人誌「渋柿」の巻頭に書かれた短い文章をまとめたものである。 そういうものだから、詩情を誘うような文章が並んでいる。最初の方はとくにそういうものが多いが、だんだん後になると、単なる随想風のものが多くなる。 「自序」には、「心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」と書いてあるが、 今時そんなに悠長でもいられないので、間をおかずに読んでしまった。

読んだきっかけは「哲学も科学も寒き嚔(くさめ)哉」という句を知ったことだった。本文を読んでみると、これは一種の自虐ネタ、つまり 自らの老境をやや諧謔的に詠んだものであることがわかった。解説では、この句は科学の至らなさを喝破したことになっているが、 もともとはそういうものではないようだ。とはいえ、俳句はいろいろに読めてしまうのが面白いものでもあるので、そう思って読むと、 そのようにも見えてくる。つまり、科学者としての自虐、つまり、老いても自然のごく一部しか分からないものだなあという感慨を読み取ることもできる。 いろいろな感慨を重層的に読みとれるということで、名句と言うべきなのであろう。

ところで、この文章はそっくり青空文庫で読むこともできる。 あの句はどこにあったっけなどと検索するときに便利である。ただし、青空文庫版には注解が無い。

以下、気に入った文章をいくつか引用しくことにする。

大学の構内を歩いていた。
病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。
近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣(いぼ)が一面に簇生(そうせい)していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。
背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。
そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何ものかが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。
(大正12年3月、渋柿)
娘がいるので、どうもこういうのには弱い。

「三毛」に交際を求めてくる男猫が数匹ある中に、額に白斑(しろぶち)のある黒猫で、からだの小さいくせに恐ろしく剽悍なのがいる。
これが、「三毛」の子で性質温良なる雄の「ボウヤ」を、女敵(めがたき)のようにつけねらって迫害し、すでに二度も大けがをさせた。
なんとなく斧定九郎という感じのする猫である。
これとは反対に、すこぶる好々爺な白猫がやって来る。
大きな顔に不均整な黄斑が少しあるのが、なんとなく滑稽味を帯びて見える。
「ボウヤ」は、この「オジサン」が来ると、喜んでいっしょについてあるくのである。
今年の立春の宵に、外から帰ってくる途上、宅(うち)から二、三丁のある家の軒にうずくまっている大きな白猫がある。
よく見ると、それはまさしくわが親愛なる「オジサン」である。
こっちの顔を見ると、少し口を開(あ)いて、声を出さずに鳴いて見せた。
「ヤア、……やっこさん、ここらにいるんだね。」
こっちでも声を出さずにそう言ってやった。
そうして、ただなんとなくおかしいような、おもしろういような気持になって、ほど近いわが家へと急いだのであった。

淡雪や通ひ路細き猫の恋

(昭和5年3月、渋柿)

猫は野性味があるし、性格も様々なのがおもしろい。九大でも、ずっと警戒の目を向けてくる猫がいるかと思えば、道路に堂々と寝そべっている猫もいる。 淡雪も猫の恋も、春の季語だそうである。

曙町より(二)

先日は失礼。
鉄筋コンクリートの三階から、復興の東京を見下ろしての連句三昧は、変わった経験であった。
ソクラテスが、籠にはいって吊り下がりながら、天界の事を考えた話を思い出した。
日が暮れた窓から、下町の照明をながめていたら、高架電車の灯(ひ)が町の灯の間を縫うて飛ぶのが、妙な幻想を起こさせた。
自分がただ一人さびしい星の世界のまん中にでもいるような気がした。
今朝も庭の椿が一輪落ちていた。
調べてみると、一度うつ向きに落ちたのが反転して仰向きになったことが花粉の痕跡からわかる。
測定をして手帳に書きつけた。
このあいだ、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向きに落ちるわけを、だれか研究した人があるか、と聞いてみたが、たぶんないだろうということであった。
花が樹にくっついている間は植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間から以後の事柄は問題にならぬそうである。
学問というものはどうも窮屈なものである。
落ちた花の花粉が落ちない花の受胎に参与する事もありはしないか。
「落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿哉」という先生の句が、実景であったか空想であったか、というような議論にいくぶん参考になる結果が、そのうちに得られるだろうと思っている。
明日は金曜だからまた連句を進行させよう。
(昭和六年五月、渋柿)

椿の花が仰向けに落ちるわけを研究したいと思う――いかにも寺田物理学である。

不審紙

子供の時分に漢籍など読むとき、よく意味のわからない箇所にしるしをつけておくために「不審紙(ふしんがみ)」というものを貼り付けて、あとで先生に聞いたり字引きで調べたりするときの栞(しおり)とした。
短冊形に切った朱唐紙(とうし)の小片の一端から前歯で約数平方ミリメートルぐらいの面積の細片を噛み切り、それを舌の尖端に載っけたのを、 右の拇指の爪の上端に近い部分に移し取っておいて、今度はその爪を書物のページの上に押しつけ、ちょうど蚤をつぶすような工合にこの微細な朱唐紙の切片を紙面に貼り付ける。 この小紙片がすなわち不審紙である。不審の箇所をマークする紙片の意味である。 噛み切る時に赤い紙の表を上にして噛み切り、それをそのまま舌に移し次に爪に移して貼り付けるとちょうど赤い表が本のページで上に向くのである。 朱唐紙は色が裏へ抜けていなかったから裏は赤くなかったのである。
そのころでもすでに粗製のうその朱唐紙があって、そういうのは色素が唾液で溶かされて書物の紙をよごすので、 子供心にもごまかしの不正商品に対して小さな憤懣(ふんまん)を感じるということの入用をしたわけである。
不審が氷解すればそこの不審紙を爪のさきで軽く引っ掻いてはがしてしまう。本物の朱唐紙だとちっともあとが残らない。
中学時代にはもう不審紙などは使わなかった。 そのかわりに鉛筆や紫鉛筆でやたらにアンダーラインをしたり、?や!を書き並べて、書物をきたなくするのが自慢であるかのような新習俗に追蹤(ついしょう)してずいぶん勉強して多くの書物を汚損したことであった。
それはとにかく、日本紙に大きな文字を木版刷りにした書物のページに、点々と真紅の不審紙を貼り付けたものの視像を今でもありありと想い出すことができるが、 その追憶の幻像を透して、実にいろいろな旧日本の思想や文化の万華鏡がのぞかれるような気がするのである。

不審紙なるものを私は知らなかったが、昔はちゃんと本を大事にしていたのだということがわかる。 今は便利な付箋紙がたくさんあるので、いまさら復活はしないだろうけど、ともかく昔からそういう目的の紙があったということを初めて知った。