下流志向

内田樹 著
講談社文庫 う 58 1
刊行:2009/07/15、刷:2012/03/21(第16刷)
文庫の元になったもの:2007/01 講談社刊
九大生協で購入
読了:2013/04/27
子供や若者の学力低下やニートの増加が問題になって久しい。 この問題には、私は、大学教員としても、子供を持つ親としてもきわめて重大な関心がある。 こういう問題になると、マスコミは、しばしばそれをゆとり教育のせいにしてみたり、センター入試のせいにしてみたりするが、そんなことが答えにならないことは直感的には明らかである。 勉強しなくても仕事をしなくても良いとする空気が蔓延しているからである。 マスコミがその空気を助長していることも明らかである。たとえば、科学の話になると、 とたんにわざとらしく難しそうな顔をしてみせる出演者など、見ていて腹が立つことこの上ない。 そのようなマスコミから垂れ流される言説など信じられるわけが無い。 では、なぜそういう空気が蔓延するのか、それをこの本が鮮やかに解き明かしている。もちろん、これだけが正解かと言われると、そうでないかもしれないが、私たちが必要としているのはここに書かれているような種の答えであることは確かだ。

以下、著者の考えをまとめてみる。

著者は、これらの問題の根源を、人々が消費者マインドでしか学習や仕事を見なくなったことに求める。学習や仕事は、本当は消費というモデルで捉えてはならない対象であるのにもかかわらず、だ。 昔、子供は、家庭内労働を手伝うことによりまず労働主体として社会に参加した。ところが、 今は家でする仕事が無くなったので、子供は、まず消費主体として社会に参加する。 その結果、消費者としてしか世の中を見ることが出来なくなる。そうすると、何が起こるか?

勉強は、苦役であると見なされ、役に立つと思った分だけしか勉強しなくなる。勉強という苦役をして不快になることが貨幣の役割を果たす。 授業では、我慢して聞いてやったという態度を取り、ある程度苦役を果たしたと思ったら、残りは聞かない。そのようにして、積極的に学びに背を向ける。そのような空気が蔓延すると、みんな勉強しなくなるので、相対的に成績が良くなるから、ますますみんなでバカになれば恐くないということになる。 このことは、歴史的にいまだかつてないことであった。昔は、勉強したくても出来ない子供がたくさんいたから、義務教育という制度ができた。これは子供が労働力として使われることなく勉強ができるように、教育を受けさせる義務を親に課したものである。子供から見れば、教育を受けることは権利ではあっても義務と呼ばれるような対象ではなかった。

学習は、本来、学習した後にならないとその価値がわからないものである。学習に先立ってその価値がわかるように説明することは出来ない。そこが、商品とは違う。ものの売買においては、消費者は前もってその商品の価値を理解した上で買うが、学習にはそれができない。 なぜなら、価値は学んだ後でないと分からないからであり、それがわかるようになることこそが学ぶということだからである。

仕事も、自分の価値が正しく評価されていないと思ったらすぐに放り出してニートになる。 しかし、仕事の報酬は、本質的に仕事以下のものである。なぜなら、その余剰分が研究開発など社会を豊かにするために使われるからである。

以上のような議論の帰結として、著者は、大学におけるシラバスを疑問視しているのにちょっと驚いた。 私は、あまりそんな疑問を持たずにシラバスを書いていたからである。 著者がシラバスを疑問視するのは、シラバスが学びに先立ってこれこれのことがらを習得しますということを書くべきなのに対し、学びに先立ってその価値を伝えることはできないという考えだからである。たしかに学ぶことで初めてわかる概念を使わずに何を学ぶかを説明するのは難しいものである。

大学における単位制というのが、アメリカの工場労働者の労働時間から持ってきた概念だということも初めて知った。 週45時間の労働が1単位だそうである。 大学の場合1コマ90分の授業を一つの学期に15回学ぶと2単位である。 これがどういう計算に基づいているかというと、まず90分を2時間と見なし、さらに家で2時間ずつ予習復習をしていると考えて、授業一コマを6時間と考える。これが15回で90時間となる。したがって、2単位である。 この計算法は以前に聞いたことがあったが、その元が労務管理にあるとは知らなかった。 もちろん最近の学生は予習復習などほとんどしていないので、この計算はおそろしい水増しになってしまっている。 そしてまた、学習は数値で計測できるものではないのだから、こんなものは無意味だというのが著者のご意見である。さらには、学習と労働とは質的にも異なる。