日本辺境論
内田樹 著
新潮新書 336、新潮社
刊行:2009/11/20、刷:2010/12/10(第24刷)
福岡県志免町の古本屋 BOOK OFF 志免店で購入
読了:2013/07/26
2010 年の新書大賞受賞作でベストセラーだったので、いつかは読もうと思っていたところ、ベストセラーの常として BOOK OFF に
出てきたので読むことにした。ベストセラーだけあって、というか著者の内田氏の本だけあって、面白い内容が詰まっていた。
「はじめに」によれば、日本が辺境だという主張は決して新しいものではなくて、丸山眞男、澤庵禅師、養老孟司の受け売りだそうだ。
しかし、これらの考えは著者本人の考えと渾然一体となっていてもはや区別がつかないという方が正しいだろう。
「I 日本人は辺境人である」では、日本が辺境であるということがどういうことかが述べられている。それは以下のようなことである。
何やら辺境であることに否定的にも見えるが、著者は、辺境であることを止めようとは言わない。むしろ、とことん辺境で行こうと述べている。
- 常に外国をきょろきょろ見ている。だからこそ日本人論が山のようにある。
- 日本には理念が無い。むしろ、親密度とか長いものに巻かれることが重視される。そして空気に流される。
- 主体的な働きかけは常に外から来て、私たちはいつも受動的だと考える。
- 中華思想の華夷秩序の中にある。とくに日本は東の辺境にあったので、田舎者の無知なふりをする。
たとえば、非核三原則を守っているふりをする。
- 自前の世界戦略がない。たとえば、日露戦争後のアジア戦略は、ロシアが日露戦争に勝っていたらやったであろうことをコピーしただけであった。
- 世界に先んじて理想やメッセージを発することがない。
「II 辺境人の「学び」は効率がいい」に関しては、私が気に入った箇所とかメモしておきたくなった箇所をいくつか引用しておく。
- (1) p.116
- 「日本」というのは「中国から見て東にある国」ということです。それはベトナムが「越南」と称したのと同じロジックによるものです。
(中略)だからこそ、幕末の国粋主義者佐藤忠満は「日本」という国名はわが国の属国性をはしなくもあらわにする国辱的呼称であるから、
これを捨てるべきだと主張したのです。
- [吉田感想] 日本人は制度について根本的に考えることをしないということが書かれた部分の一節。そういえば、私もこれは知らなかったし、
あまり考えたこともなかった。ところで、日本を西洋では Japan(英、独), Japon(仏), Giappone(伊)などと呼ぶのは
「日本」の中国語読みから来ているのであろう。とすると、スポーツなどでやたら「チームジャパン」みたいなことばを使うのは、
二重に中国の影響がある上に、英語(アメリカ語)かぶれで、日本がアメリカの属国であり中国の属国であったことを国威発揚の場で示すことになっている。
珍妙なものである。
- (2) pp.119--120
- 人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いたほうがいい。これは私の経験的確信です。
というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。
(中略)
断定的であるということの困った点は「おとしどころ」を探って対話することができないということです。(中略)
主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです。
- [吉田感想] これは、他人の意見を聞くときの注意であるとともに、自分への戒めでもある。
あまり深く考えずに受け売りをしてはいけないということだ。テレビに出る政治家や評論家にこういう人が多いのも困ったものである。
いわゆるネット右翼も昔の左翼(すでにほとんど消滅したけど)も同様。
- (3) p.129
- 「武士道」というのは「鼻腔に吹き込」まれるもの、まさに「空気」以外のなにものでもないからです。
- [吉田感想] 武士道は、結局、それを支える体系的な理論のない「空気」だ、と喝破している。潔い!
もちろん、これには良いことも悪いこともある。それは次の部分で分かる。
- (4) p.141
- 新渡戸稲造が武士道の神髄をその無防備さ、幼児性、無垢性のうちに見たことを先に示しましたが、その欠点は、同時に、
外来の知見に対する無防備なまでの開放性というかたちで代償されている。(中略)自らをあえて「愚」として、外来の知見に
無防備に身を拡げることの方が多くの利益をもたらすことをおそらく列島人の祖先は歴史的経験から習得したからです。
- [吉田感想] 日本人は学び上手ということで、その極意がさらに以下のところに書いてある。
- (5) pp.146-147, p.150
- 「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」、
これが学びの信仰告白の基本文型です。
「学ぶ」とは何よりもその誓言をなすことです。そして、その誓言を口にしたとき、人は「学び方」を学んだことになります。ひとたび学び方を
学んだものはそれから後、どのような経験からも、どのような出会いからも、どのような人物のどのような言動からも、豊かな知見を引き出すことができます。
賢者有徳の人からはもちろん、愚者からも悪人からもそれぞれに豊かな人間的知見を汲み出すことができる。
(中略)
弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができる。
- [吉田感想] これは著者がたとえば「下流志向」でも述べていたことである。肝に銘ずべし。
「Boys, be ambitious!」のクラーク博士と弟子がこのような関係だったと聞いたことがある。クラーク博士はたいした先生ではなかった。しかし、
弟子がきちんと学んだので、先生が偉いということになってしまった。実際クラーク博士が日本にいたのはたった8ヶ月で、これで大きな影響を与えられるためには、
弟子に最初から学びの姿勢がなければならない。
「III 「機」の思想」はなかなかアクロバチックな理路の話だから、その理路をあらためてたどってみることにする。
- 私たちの辺境にあるという意識によって、私たちはよく学ぶことができるし、宗教的にも寛容だ。しかし、一方で、成熟することが無い。
たとえば、日本人が好きな「道」という言葉は、「道遠し」という言葉で表されるように永遠に完成しない道を示している。
日本人にとって、目的地は、どこか遠くであったり、はるか昔であったり(「師の域にはなかなか達することができません」)する。
- であれば、どのようにして宗教的な高みに行けるのか?親鸞の答えは、目的を否定することだった。目的が無くても歩み始めること、
「飛びこむ」ことである。
- これは、武道に通じる。武道においては、「敵の攻撃を避けるには」と考えていては反応が遅れる。だから、敵を作らないことが必要である。
- 敵を作らないということは、相手と一つに融け合うことである。そうすると隙ができない。
それが、電光石火、「石火之機」ということである。
- 相手と一つに融け合うとき、主体は次々に新しく生成し、時間はゆっくり流れるようになる。言い換えると、身体操作が肌理細かくなる。
- 「機」の現象においては、われわれは a priori に「機」がどこに生成するのかを予期していなければならない。
同様に、「飛びこむ」ときも、われわれは a priori にどこに飛び込んだらよいかを知っていなければならない。
辺境人は、貴重な外来文物を取り入れなければならない。そのときにも、われわれはあらかじめその有用性が分からないにもかかわらず、
a priori にその有用性を知っていなければならない。資源が乏しい環境ではそのような能力が発達する。
- 「学ぶ」ということは、あらかじめそれを学ぶということの有用性が分かっていない段階で、a priori にそれを学ぶことの有用性を確信するということから始まる。
最近の日本人にはこの能力が失われてきており、これは日本の将来にとって危機的である。
- ヘーゲルもハイデガーも、子どもは予めある設計図に沿って大人に成長にするというような言い方をしている。これは世界の中心にいる人々の言葉である。
しかし、設計図は無いのだ。設計図があるということは、武道で言えば、相手の動きを予期してからということになって、反応が遅れる。
この理路は自分で書けと言われたら書けないけど、魅力的である。しかし、説得されたかと言われたらどうだろうか?
この理路の最初では、著者の主張は、辺境人は学べるけど大成しないということであった。で、大成するには目標を否定すればよい、ということになった。
しかし、最後にはまた、辺境人は学ぶのがうまいということに話が戻って、大成の方がどこかに行ってしまっているように思える。
ヘーゲルもハイデガーも、「飛び込む」という学びのダイナミズムを理解しておらず、やっぱり世界の中心にいる人は学ぶのが下手だな、
ということに戻っているように見える。ということで、辺境人は大成するにはどうすれば良いのでしょうね?
「IV 辺境人は日本語と共に」では、以下の日本語の特徴が述べられている。
- メタ・メッセージが重要。とくに論争においては、相手を説得しようとするのではなく、相手より上位に立とうとする。
- 表音文字と表意文字のハイブリッドを使う。だから日本人はマンガが得意である。
- 外来のものを「真名」とし、土着のものを「仮名」とする。そして、真名・仮名変換をことあるごとに行うことで外来文化を取り入れてきた。