羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる

梅田望夫 著
中公文庫 う 32 1、中央公論新社
刊行:2013/02/25
文庫の元になったもの:[第1章から第7章]「シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代」(2009/04 中央公論新社刊)、 [第8章から第11章]「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?―現代将棋と進化の物語」(2010/11 中央公論新社刊)、 [第12章] 書下ろし
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読了:2013/04/28
この本のコンセプトは、将棋を指さない将棋ファンのための本ということで、私にぴったりである。 私は将棋の指し方がよく分からないけど、将棋界が気になっている一ファンである。実際けっこう読んで楽しめた。

各章ごとのメモ(印象に残ったことやサマリなど)

第1章 羽生善治と「変わりゆく現代将棋」
現代将棋の旗手としての羽生善治がわかる著作に「羽生の頭脳」と「変わりゆく現代将棋」がある。 「羽生の頭脳」(1992-1994) は、プロ棋士が真剣に読む初めての体系的将棋研究書であった。羽生は、自分の最新の知識をすべて正直に書いた。 「知のオープン化」である。このあとで、若手棋士たちが本格的な将棋研究書を続々と出すようになった。知識が共有される中で、最後は創造性が大事だと羽生は言う。 「変わりゆく現代将棋」(連載 1997-2000) は、「第1章 矢倉」しかなく、しかも、矢倉を組むにあたって3手目が7七銀と6六歩のどちらが良いのかを 延々と考え続けるという奇書である。それまで序盤の3手目からそんなに深く考えた棋士はいなかった。序盤からあらゆる可能性を考えて緊張感を持って指すのが 現代将棋である。この流れを作ったのが羽生である。
第2章 佐藤康光の孤高の脳―棋聖戦観戦記
佐藤康光vs羽生善治のタイトル戦 (2008年の第79期棋聖戦第1局) のウェブ観戦記。その中で引用されている印象に残る言葉を二つ。
まず、羽生の言葉:
実は将棋には闘争心はあまり必要ないと思っているんです。戦って相手を打ち負かそうなんて気持ちは、ぜんぜん必要ないんですよ。
これは私にもよく分かる感じがする。勉強や研究でも、最初は他の人に勝とうということで頑張るかもしれないけれど、ある程度年の功を経ると それはあまりどうでも良くなって、知りたいことを追及するだけ、という気持ちが強くなってくる。逆に、そうでないと、若い人の新しい知識を吸収できなくなる。
次に、佐藤の言葉:
将棋は勝負どころがどこにあるか分からないときがある。(中略)思わぬところで勝負がつくということもあるが、 戦っているうちに、どこで形勢が逆転したのか分からないまま指していることがある。それが最初の 20 手目の局面であることもあるし、 本当に投了する最後の直前の時だったりもする。
これも、私の印象でも、囲碁と比べて将棋の方に強い感覚な気がする。囲碁は比較的勝負どころが分かりやすい感じがする。もちろん、これは私が 自分で判断できるという意味ではなく、プロの解説を聞いていてわかるかどうかということで、私の将棋の力が囲碁の力に比べてはるかに弱いことを 差し引いてもそうだと思う。将棋は先まで行って結果を見ないと形勢が分からないことがよくあるが、囲碁のほうは形勢が図形的なものなので 時々刻々地を数えてみればよいだけという意味がある(もちろんぎりぎりの戦いなどの時は数えるというよりは読みの問題になってそう簡単ではないが)。
第3章 将棋を観る楽しみ
将棋には観る楽しみがあるべきだという主張が書かれている。観る楽しみとは、あまり将棋は強くなくても、また将棋を指さなくても、 将棋の考え方を鑑賞するということである。そのためには、長大で詳細な観戦記が必要で、新聞の将棋欄では全然足りず、ネットだとか分厚い本だとかが 必要だと述べられている。私も全くその通りだと思う。私はほとんど将棋を指したことが無いけど、かなり初心者向きの解説があればたぶんわかると思う。 しかし、初心者向きにプロの棋譜を解説するとなると、当然膨大な解説が必要になる。
第4章 棋士の魅力―深浦康市の社会性
2008年第49期王位戦の前後の深浦評である。
第5章 パリで生まれた芸術―竜王戦観戦記
2008年の第21期竜王戦第1局のリアルタイムウェブ観戦記。この対局はF1型(スピード重視)の羽生と装甲車型(堅さと攻め重視)の渡辺の特徴が現れていた。 この一局は形勢判断が難しく、一見足が遅くて不利に見えた後手(羽生)が実はそうではなくて有利で、羽生の大局観の良さが光った。 これを読むと、将棋の大局観と称するものがいかに難しいものかが分かる。
途中で佐藤康光と米長邦雄に、5級向け解説、初段向け解説、5段向け解説を1ヶ所ずつお願いして入れてあるのがおもしろい。 佐藤の解説は確かに強さ順になっている感じがするが、米長の解説は5級向けがわかりづらい。昔の強い人はあんまり初心者向けの解説をやったことがないのであろう。
第6章 機会の窓を活かした渡辺明
永世竜王を獲得した渡辺明評。
私も、ときどき渡辺のブログを見ている。が、かつてほどたくさん書いていないので、最近はそれほど見ていない。かつてはたくさん書いてあったが、 変な反応があったり、新聞社か出版社あたりから文句が来たのであろうか、最近はそれほど書いていない。残念なことである。
第7章 対談―羽生善治×梅田望夫 2009
印象に残った部分をいくつか引用しておく。
羽生 たとえばこう、筋とか形ってありますよね。それをたくさん知っていると、パターン化できる。形式とか定跡化できる。 でも、将棋にはそれだけじゃない、ねじる、ねじりあいになる、ということがあるんです。さきほども話に出てきたような、複雑さとか、 わけのわからなさに対して、ねじりあって、その場で対応することが大事になってくる。(中略)
特に重大な分かれ道では、必ず曖昧さが残るので、そのあいまいさを互いに残そうとしたとき、ねじりあいになったり、わけのわからないことになったりする。
羽生 たくさん時間をかければいい将棋が指せるかといったら、違います。すごく短時間で指す将棋と、長い将棋と、極端に中身が違うかと言ったら、 そうでもないんですよ。短くても中身が濃くなることはある。また、どうして時間が関係ないかというと、将棋が持っている特徴の一つで、何か…… どこかやっぱり、他力本願的なところがあるんですよ。つまり、自力でなんかしようとしちゃ、ダメなんです。他力で指して、まあ一応、 ベストは尽くしましたけど「あとはよろしくお願いします」と手番を渡す。一人で完成させるのではなく、制約のある中でベストを尽くして 他者に委ねる。そういうものだと思いますね。
上の二か所は、羽生の特徴が出ているのかもしれない。つまり、勝敗よりは、二人で良い作品を作り上げていくようなところを大事にしていることが分かる。 羽生も若いころは勝敗にこだわったのかもしれない。しかし、今はもう達観している感じがする。常に新しい作戦を試しながら、将棋の完成度を高めることを 目指しているようだ。で、そうなってきた理由が次のところに書かれている。
羽生 棋士の生活は一年通して、ほとんどずっと同じことをやっているんですね。対局スケジュールも一年間ほとんど決まっているし、 あらゆる仕事が決まったルーティンに沿って回っている。去年も今年もそのサイクルが同じでは「これって意味があるのかなぁ」と思ってしまう。 つまり、同じことを繰り返すこと自体には、さほどの意味は無いんです。本質的でない、というか。やっぱり日々、まったく同じ人たちと たくさんの対局を重ねていく中で、何か違う発見があるとか、違う道が見つかるとか、可能性を探し続けていくことが鍵になるんだ、という気持ちを、 だんだん持つようになったんですね。
第8章 大局観と棋風
2009 年の第 80 期棋聖戦羽生善治×山崎隆之の木村一基の第1局の羽生による解説を著者がまとめたもの。将棋というのはかなり微妙なものだということがわかる。 私は初心者なので、解説の意味はよく分からないけど(ここから悪くなったとかここから良くなったとかいうのが、よくわからない)、 でもほんのちょっとした違いが明暗を分けるらしいことはわかる。それと、個性がどういうところに現れるのかもわかっておもしろかった。以下、羽生の言葉。
木村さんと指すと、「私のほうが急がされる」展開に絶対なるんです。そこで私が手を作れるかどうか、という勝負に必ずなります。 本当に、自然とそうなってしまうんですね。そんな棋士は木村さん以外いません。棋譜を見れば木村さんが指したものとすぐわかります。
第9章 若者に立ちはだかる第一人者
2009 年の第 57 期王座戦第2局(羽生善治×山崎隆之)の観戦記と、その約一年後にその一局に関して山崎にインタビューしたものをまとめたもの。 この一局は、秒読みに追われる山崎が勘違いをしたのが致命傷になり、最後はあっけなく終わってしまった。 そのあと、羽生が怒っているようだった、ということが印象的に語られる。そのことに対する山崎の述懐が興味深い。
羽生さんは、僕に勝ったあと、いつもああいう感じの態度を出されるんですよ。すごい残念そうにするんですよ。
羽生さんとの将棋では、僕の序盤の構想で、面白い将棋になることが多いんです。(中略)
でも羽生先生も、普段やっている対局より僕との対局のほうが新鮮なはずなんです。あの人も、こういう勝負がけっこう好きですから。 重厚な棋風の人の将棋のがっしりとした組み立ては、あまりにも正確であるがゆえに、似たような将棋になります。 そういうのには、羽生先生も飽いているところがあると思うんです。
それで僕との将棋は楽しいのに、最後まで楽しめない、みたいな。終盤力に差があるから。 それで終局のときに、大好きなおもちゃを取り上げられたみたいな感じになって……。でも、いつもそれを態度に出すのはどうかと思うんですけど! いつもいつも、あからさまに。
第10章 研究競争のリアリティ
研究競争が熾烈さを増す中、研究競争に関係する対局として、前半で 2010 年の第 68 期名人戦第2局(羽生善治vs三浦弘行)、 後半で 2010 年の第 81 期棋聖戦第1局(羽生善治vs深浦康市)が取り上げられる。
名人戦の方では、三浦の研究に対する姿勢と、その研究を打ち砕いた羽生の適応力が行方尚史の口から語られる。三浦の方は
三浦君のほうが羽生さんに比べると研究への依存度は高いですね。三浦君の場合、大局観うんぬんの茫洋とした局面には持っていきたくないんです。 終盤の、玉が詰む詰まないという局面にとにかく早く持っていきたい。もちろん、茫洋とした場面でも強いから、名人挑戦者になったわけですが…。
でも本質的には、三浦君は、局地戦になると異常に力を発揮する人です。狭い、狭い、狭い局面に将棋を持っていきたい。(中略)
自分が得意とする「狭いところに持っていける流れ」を探しているんですね。
と評される。この一局で、三浦はそのような研究成果の一手を放つ。それに羽生は、三浦の研究では軽視されていた的確な手で応え、三浦を破った。 その中で出たとある一手を行方は激賞する。
羽生さんの将棋観が出た手とも言えますね。激しい流れから一転、流れを変えるような意味の分からない手を指して、一手で局面をまったく違うところに 持っていってしまう。三浦研究ワールドに対して、将棋ってそういうものじゃないんだよって。それができるのは羽生さんしかいない、そんな感じがします。
羽生さんは、将棋が終盤から中盤に戻る感じとか、将棋が長くなることをぜんぜん厭わない。羽生さんはそれを楽しんでいる。
棋聖戦の方も、深浦が指した新手が羽生に打ち砕かれる。それはともかくとして、そういった新手をめぐって羽生や深浦が言っていることがおもしろい。 まず、将棋の新手には著作権は無いから、いくら新手を考えても一度使ったらもはや研究されてしまうし、それ以前に研究会で勉強している仲間に 先に使われてしまうかもしれない。そういうことに関する深浦の考えがなるほどと感心する。
新手は、著作権的に言えば発想した人にあるのでしょうけれど、素材の段階に過ぎません。「ある局面でこういう新しい手がある」というアイデア自体は、 案外誰でも思いつくもので、言い方は悪いですが、そのアイデア自体は「薄っぺら」なものなんです。
「薄っぺら」な状態のアイデアというのは、何の味付けもされていない素材と同じです。でも、その素材を知った段階で、棋士は皆、調理人になるのです。 研究会で出た素材をそれぞれが持ち帰って、味付けの研究をします。(中略)
でも調理の奥は深くて、かなり濃く共同研究をやる三浦さんでも、若手に調理の奥の奥までは見せていないでしょう。私も調理の根幹は一人でやります。 そこが本当の研究だと思います。
さて、こういった研究の多くは表に出ない。つまりうまくいかない手は闇に消えてしまう。そのことを羽生は残念がっている。
でもここで、いちばんの問題は何かと言うとですね…。「☖同桂がダメだった」と結論が出ちゃうと、今並べた長い手順、もう絶対に公式戦で 現れなくなってしまうんですよ。せっかく考えたこの面白い手順が、どこにも記録されずに、消えていってしまう。貴重な局面と貴重な手順が、 ぜんぶ消えてしまうんですよ。
気持ちは分かるけど、こういったことは知のあらゆる局面で起こる。科学の研究でも、うまくいかなかったことは論文には残らない。そこに 重要な教訓が含まれていたとしても。ただ、将棋の場合、コンピュータをうまく使えば残せるかもしれないという気はする。あるいは、 コンピュータなら、記憶しなくてもその長い手順を自動的に読んでくれるかもしれない。
棋聖戦で面白いのは、2手目を巡る話である。驚くべきことに、羽生は新手を2手目から予期していたということだ。
深浦さんが☖8四歩と突いてきたってことは、角換わりで何か用意があるということなので、何が出てくるのか見たくて、新手が本当に楽しみで、 すごいスピードで角換わり同型の指し手を進めました。
角換わり同型は後手が不利とされているので、あまり指さないのを指してきたから何かあるに違いないということらしいが、 それが2手目で分かるというのもすごいし(研究が進んでいるということ)、分かったから用心して避けるのではなくぜひ見たいというのもすごい (柔軟に対応できるという自信の現れでもある)。 そして、深浦もこの不利とされる二手目☖8四歩への思い入れを語るところがまたすごい。
☖8四歩がなくなると将棋が窮屈なものになるし、深みもなくなってしまう。(中略)
2手目☖8四歩だと、神経は使いますけれど、反撃を含むきめ細やかなところが、将棋に現れてきます。 じっくり組みあげて、先行はされても反撃がうまく決まると後手番もじつに面白い。
将棋の最初の数手はどういう順番で始めても変わらないかと思いきや、2手目からこんなに語ることがあるのだと驚く。
第11章 どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?
ここまでのまとめと、羽生の強さの分析。
第12章 対談 羽生善治×梅田望夫 2012
再び対談。印象に残った部分をいくつか引用しておく。研究が近年とみに深まっていることに関する羽生の感想である。
羽生 さまざまな研究や分析は相変わらず進んでいるんですが、現在はその成果がなかなか公に出ないまま、もう次に移っていっているという傾向があると 思うんです。以前は公式戦やタイトル戦などである手が指されて、その形への結論が出たから次に行きましょうっていう感じだったんですけど、 今は水面下のところでかなりの部分の決着がついてしまっているんですね。形によってはもう中盤の終わりとか終盤まで研究が進んでいて、 変な言い方ですけど、ちょっと途方に暮れている感はあります。(中略)
羽生 積み重ねが一定量を超えたときに、研究段階だけでほとんど勝負の結果まで見えてしまうとか、あとはもう分析するだけでどうかなるとか、 そういうケースも増えてきています。それだけの将棋っていうのは、方向性として正しいのか?と感じることがありますね。(中略)
梅田 ここまで研究し尽くされてきた結果、「現代将棋」の行きつく先が、もうそろそろ見えつつある、ということなんでしょうか。
羽生 ああ、そうですね、見えつつあるのかまでは、わからないですけど…。(中略)本当にそれでいいのかとも感じている。
最近、コンピュータが A 級棋士の三浦弘行に勝ったというニュースがあった。 人間がコンピュータに負けるのは時間の問題ではあった。それで、そういう世界になってしまって何が変わるのだろうか? 機械が人間に勝つというのは、自動車が人間より速く走れるなどのごく普通のできことの一つとも言えるので、 それ自体ではそう問題ではないと思う。いくら自動車が人間より速く走れたところで、人間の 100 m 競走はまた別である。 科学の世界でも、数字を使った計算はもちろん人間より機械の方が圧倒的に速くて正確だけれど、それによって科学者の仕事がなくなったわけではなく、 計算科学が生まれて科学者の仕事が増えた。 将棋の場合には、一番問題になるのは、第 10 章ともかかわって研究競争の問題じゃないかと思う。 これからは、プロ棋士の研究にコンピュータが使われるようになると思う。そうすると、将棋の研究が格段にスピードアップする。 すると、戦法の解明が進んで、指すことのできる組み合わせがごく限られたものになる上(第 12 章参照)、覚えないといけないことも多くなり、 さらにひょっとすると、先手必勝であることがわかってしまうかもしれない。 そうなると、将棋はいったい何の勝負をしているのかよくわからなくなる。これが問題だという気がする。 一昔前にコンピュータが人間を凌駕したチェスの世界はどうなっているのだろうか?