科学革命と大学
Sir Eric Ashby 著、島田雄次郎 訳
中央公論社
原題:Technology and The Academics -- An Essay on Universities and the Scientific Revolution
原出版社:Macmillan & Co. Ltd., London
原著刊行:1959, 1963
刊行:1967/08/23(初版)
福岡天神の丸善ギャラリー秋の古書市で購入(出品元は、たぶん大牟田の古本屋「古雅書店」)
読了:2014/12/17
最近、大学に対する経済界からの圧力が強まる中で、大学とは何かということを本当に考えないといけないと思いつつある。
そのために必要なことの一つは、大学というものの歴史を知ることである。で、たまたまこの本を古本市で見つけたので買ってみた。
これは、イギリスの大学がいかにしてニュートンなどに始まる科学革命に適応していったかという歴史が解説してある本である。イギリスは、ニュートンを産んだ国であり産業革命が起こった国であるにもかかわらず、大学に科学研究が取り入れられたのは意外にも遅く、19世紀後半であったということが書かれている。大学は、科学を取り入れることによってその性格を大きく変え、それが基本的に現在まで受け継がれていることがわかる。
これを読むと、大学という組織の性格や問題はこの本が書かれてから現在までの50年余りの間あまり変わっていないということがわかる。大学が依って立つ考え方が簡潔にまとめられており、今読んでも充分に役にたつ。とくに、イギリスの大学には技術も入っているという意味で日本の大学と近いので、参考になる点が多い。文理融合が唱えられて久しいのだが、それに関する著者の基本的な考え方もここに書いてある。
イギリスの大学が科学を受け入れ始めたちょうどその頃の 19 世紀後半に、
イギリスの中では先進的であった Univeristy College London に多くの日本人が留学していたということが書いてある
論文「ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン・コネクションの形成:イギリス留学生とコネクション」(井上琢智)
を見つけた。当時、Oxford や Cambridge はまだ保守的で、上流階級しか行けなかったし、宗教の制約もあった。
これに対し、University College London は、開放的だったうえに、科学技術教育がなされていて、日本人にはふさわしかった。
日本における科学の受容を考える上で、これもなかなか興味深い。
イギリスの大学は、ヨーロッパ大陸の大学と違って技術を大学の中に取り入れたということが本書に書かれている。
一方で、この論文によると、東大工学部の前身である工部大学校を計画したのは、University College と Glasgow に留学した山尾庸三で、Glasgow の Anderson's College をお手本にして作ったそうだ。
日本の大学では工学部が大きな割合を占めるのにはイギリスの影響があると見て良いのだろう。
地球科学者として興味深いのは、世界初の地震学教授である関谷清景が 1876-77 年に University College London に留学していることである。
以下、箇条書きサマリー
- I 海峡のかなたの科学
- 17 世紀科学革命の主役の William Harvey や Isaac Newton はイギリス人で大学にいたが、革命的研究は大学での仕事としてなされたものではない。
- 18 世紀のイギリスでは、科学は裕福な人がやるものであって、大学で行われるものではなかった。
- Oxford 大学は 19 世紀の初めまで、神学、医学、法学の職業専門学校であり、とくに神学が強かったから、実質的に聖職者養成専門学校であった。
- Cambridge 大学は、Oxford よりましで、数学や力学が学位に必須ではあったが、古くさいものであった。
19 世紀前半になっても化学の受講者は、たった 4,5 名の医学生だけだった。
- スコットランドの大学の医学校では、科学が必須になっていたが、それでも教育の一部に過ぎなかった。
- イギリスの大学に本格的に科学が取り入れられたのは、19 世紀後半である。
- 科学研究が組織的に行われ始めたのは、フランスである。ルイ 14 世の下、パリでは 1670 年ころに科学アカデミーができた。
18 世紀後半には、フランスはヨーロッパの科学の中心となっていた。1794 年には École polytechnique ができた。
しかし、ナポレオンの過度の中央集権のために科学の力が弱まった。
- ドイツは連邦制だったので、各領邦に大学があり、それらがお互いに交流するという自由な知的風土があった。
- 18 世紀に、ハレ大学とゲッチンゲン大学から始まって、ドイツの諸大学で独立の学問としての哲学研究が始まった。
- 科学が大学に入り込み始めたのは、Carl Friedrich Gauß (1777-1855) や Alexander von Humboldt (1769-1859) のあたりからである。
自然哲学者たちは、これに抵抗したが、自然科学が勝った。
- 19 世紀中後半のドイツで、技術とは別に科学を徒弟制度で教育研究するという考え方が確立した。
- 19 世紀後半にはフランスの科学の力は弱まっていたので、イギリス人やアメリカ人は、ドイツの大学において科学を学んだ。
- II 科学は海峡をこえる
- イギリスにおいては、19 世紀前半までは、科学は大学の外にあった。
- 1826 年に London 大学(のちの University College London)が創設された。ここでは、カリキュラムに実験科学が含まれていた。
しかし、学者養成は目的ではなく、教養教育が目的であった。このころは、ドイツにおいてもまだ大学は研究を行うところではなかった。
- イギリスにおいては、科学は実用のためのものであった。そこで、科学は職人や下層中流階級の製造業者ためのものであった。
職人は機械工講習所で学び、下層中流階級の製造業者は諸カレジで学んだ。Oxford や Cambridge は科学を無視し続けた。
- The Prince Consort (Victoria 女王の夫の Albert) は、1845 年に London の王立化学カレジの創立を援助した。
しかし、このカレジは資金不足もあってあまり発展しなかった。
- ドイツの影響を受けて、イギリスの大学に科学が入り始めるのはだいたい 1870 年ころである。T.H. Huxley は、1868 年に
大学の学問は科学を土台とすべきだという「革命的な」考え方を述べている。
- 1872 年に Oxford に The Clarendon Laboratory、1874 年に Cambridge に The Cavendish Laboratory が作られ、物理学が研究されるようになった。
Manchester に 1851 年に作られた Owens College は、1857 年に化学の H.E. Roscoe、1866 年に歴史学の A.W. Ward を迎えて
文理両面で新時代を拓いた。University College London にも化学の William Ramsay など著名な教授陣が集まった。
- 科学の導入によって大学の風土が変わった。(1) 知識は不断に修正されるものだから、教条主義が排されるようになった。
(2) 科学には国境がないから、知識がコスモポリタンなものになった。18 世紀にラテン語の消滅に伴って解体した国際性が再建された。
- ドイツとイギリスでは、科学を受け取る背景となる考え方が違った。ドイツは、自然哲学が強かったので、技術は大学の外に置かれた。
イギリスは、功利主義の風土なので、技術が大学の中に採り入れられた。他方、イギリスでは、教養教育も長い間防衛された。
- III 技術が取りいれられる
- 産業革命は、職人や業者が為したことであり、大学は何の役割も果たさなかった。
- イギリスにおける最初の技術教育は、職人のための機械工講習所 (mechanics institute) においてなされた。これは、John Anderson が 1757 年に Glasgow で開いたのが始まりで、やがて全イギリスに広まり、1841 年には 200 以上の講習所があった。しかし、職人相手なのであまりレベルの高いものにはならなかった。
- 19世紀後半になって、イギリスの産業競争力を維持するには学校でかがくをおしえないといけないということになり、政府は報酬を与えて科学教育を奨励した。
- 1840 年には、Glasgow 大学にイギリスで最初の工学講座が設置された。最初は冷遇されていたものの、イギリスの産業技術の進歩が大陸に遅れを取っていることが明らかになるにつれ、職人ではなく管理者に技術教育が必要であることが認識されるようになった。その結果、多くの大学が高等技術教育を担うようになった。これは、大陸諸国とは異なっている。大陸諸国では、大学ではなくて polytechnique や technische hochschule が高等技術教育を担っている。
- イギリスでは、下層中流階級の教養教育と高等技術教育という2つの目的で、1870-80年代に7つの college が創設された。そこでは、技術教育と教養教育とが同居することになった。
- 高等技術教育に国家の援助がなされるのには、さらにだいぶん時間がかかった。しかし、思想的にはまだ大学は技術を受け入れているとはいえない。技術のように利害が絡むものを学問として受け入れるには至っていない。
- IV 大学の二重人格
- 大学の目的とは何か?大学の歴史的な変遷からすると、以下の4つの機能がある。
- 中世からある大学の伝統的機能は、宗教家、医者、法律家の専門的職業養成学校であった。
- Oxford や Cambridge は、ジェントルマンや政治家や管理者を養成する学校だった。
- Göttingen 大学や Berlin 大学などから、19 世紀に学問研究の中心としての役割が出てきた。
- その後現れた Königliche Technische Hochschule Charlottenburg(現在のベルリン工科大学)、
Eidgenössische Technische Hochschule Zürich(ETH)、Massachusetts Institute of Technology(MIT)
のような総合工科大学は、技術者や専門家の幹部養成学校である。
この4つの機能は今でも調和していない。そこで、大学は、知識を精神的に特別の価値のあるものと考える人々と
現代社会への実用的な価値を重視する人々の間で二重人格的に引き裂かれることになる。
- 大学の組織は、ふつうの組織とは逆である。方針は下から上へと流れる。
上の人がやることは、合意形成を見守って、実行可能な形に煮詰めることである。
大学は一つの社会であって、上から指令されることはない。
- 大学が学部単位の縦割りになりがちな点は問題である。とくに文理が分かれてしまうのが問題である。
- 専門と教養がバランス良く教えられねばならない。政治家や高級官僚にも科学や技術の知識が必要である。
- 技術は人間に関わるので人間に関わる諸問題と不可分である。技術を学ぶときには、専門的技術を中核として、
これに関連した教養的学習を周辺に配することで、全体を俯瞰できるような形にしておく必要がある。
技術を人文主義の中心とする形が良い。
- 大学には税金が投入されることが不可欠になっている。しかし、大学を多数者の独裁にさらしてはならない。
イギリスでは、大学を保護する役割を大学補助金委員会が担っている。
- 大学の役割は、公平無私な思想を作ることである。納税者におもねってはならないが、かといって社会から逃げてもいけない。
- 大学は、(量としての)人的資源を供給しているのではなく、個々の人間を育てる。
- 大学は、世界共通の知識や思考法を蓄える。大学は、科学を通じて誤謬に寛容である。したがって、多様性を大事にする。
- V 追記・都市大学の自治について
- 大学では自治が行われている。すなわち、ものごとは下から上に流れる。詳細略。