罪と罰

Фёдор Михайлович Достоевский 著、亀山郁夫 訳
光文社古典新訳文庫 K Aト 1-7, 1-8, 1-9、光文社
刊行:2008/10/20(第1巻)、2009/02/20 (第2巻)、2009/07/20 (第3巻)、刷:初版第1刷 (第1,2巻)、初版第3刷 2010/03/05 (第3巻)
原題:Преступление и Наказание
原著刊行:1866 年「ロシア報知」に連載
九大生協で購入
読了:2014/02/09

ドストエフスキー 罪と罰

亀山郁夫 著
NHK 100分de名著 2013 年 12 月、NHK 出版 [電子書籍]
刊行:2013/12/01(発売:2013/11/25)
電子書籍書店紀伊國屋書店 WEB STORE で購入
読了:2013/12/26
言わずと知れた『罪と罰』。と言いながら、読んだことがないので、NHK の「100 分で名著」で 取り上げられた機会に読んでみた。冬休み中に読み上げようと思ったのだが、この忙しい時期に到底無理で、 2月までかかってしまった。

まず、どの訳を読もうか迷ったが、やっぱり「100 分で名著」で解説をしている 亀山氏の訳にすることにした。実のところ、亀山訳はネットではけっこう批判されていることも知っていたのだが、 他の訳と比べて全体的に悪いのかどうかがよく分からなかったので、亀山訳にしてしまった。 こういう長い小説は、途中で疲れないことも大事で、その点では光文社古典新訳文庫はだいたい平均的に良いので これを選ぶことにした。誤訳のことを言い出すと、他の訳にも誤訳はあるだろうから、 誤訳の密度が高いかどうかを他と比べないとしょうがないのだが、 そのような比較はちょっとネット検索した範囲では目につかなかった。 ともかく、読んでみた感じからすると読みやすかったので、他との比較はしていないが、満足した。

「訳者あとがき」によると、翻訳には 1 年 7 カ月かかったそうで、ということは、解説を含めて 1489 ページを 約 580 日で訳したということだから、一日平均 2.6 ページを訳していたことになる。 これにかかりきりでいられたはずもないので、そのペースで訳せば、当然誤訳も出てくるだろう。 一方、ドストエフスキーはこの小説を 1965 年 9 月に書き始めて、1965 年 12 月に書き終えたのだから、 翻訳よりさらに短い 1 年 3 カ月余りで書き上げたことになる。これにかかりきりであったろうとはいえ、 たいした勢いである。しかも 1965 年 12 月になって叙述スタイルを大きく変えたそうだから、 実際は連載と並行して自転車操業で書いていったのであろう。それでこの完成度なのだから、やはり大作家というのは すごいものである。とはいうものの、アラもあるに相違なく、事実第3巻「読書ガイド」の p.496 では、 マルメラードフ家の次女リーダの名前を間違えていることが指摘されている。

小説は、一種の倒叙物推理小説ともいえ、刑事コロンボみたいな予審判事ポルフィーリーがでてきて、 読者をひきつけてくれる。その一方で、罪やら殺人者の心理やらに関するいろいろな哲学的な考察が出てきたり、 また一方で、それぞれ多様な性格が託されている登場人物の心理が克明に描かれて、さまざまな分析をしようと思えばすることができる。 長編であるにふさわしい実に濃度の高い小説である。

その登場人物の正確は名前にも託されているそうだ(第1巻「読書ガイド」pp.474-475、放送テキスト pp.43-44,59)。

ともかく、各登場人物にはそれぞれの役割が託されていて、ひとりひとり際限なく分析ができてしまう。

もちろん、主要なテーマは善悪の問題である。これもいろいろな方面からの考察が入っている。 たとえば、支配とか戦争とかは常に善悪の境界をわからなくさせる。それをラスコーリニコフが指摘しているくだりがある。

たとえば、法の制定者とか、人類の指導者とかは、太古の偉人にはじまって、リキュルゴス、ソロン、ムハンマド、 ナポレオンに類する人間まで、みながみな、ひとり残らず犯罪者だったんです。新しい法律をつくるという、 まさにそのことによって、社会が神聖なものとしてあがめたてまつり、先祖代々受けついできた古くからの法律を ぶっこわしたという、その点ひとつとっても、すでに犯罪者でした。それに、むろん、流血だって厭いませんでした。 もし、血を流すしかほかに手立てがないとみればですが。[第2巻 pp.162-163]
こういうことは、いろいろな問題を突きつける。織田信長は虐殺王だったんじゃないかとか、 アメリカの原爆投下は「広島大虐殺」じゃないのかとか、言い出すとキリが無い。 もちろんこのようにして殺人を正当化することはできないわけだが、ラスコーリニコフはかなり最後になるまで 自分の殺人を正当化しようとする。
罪?なんの罪をいってる?なに、ぼくが、あのけがらわしい有害なシラミを殺したことかい、 貧乏人の生血を吸ってるだけで、なんの役にもたたない金貸しばあさんを殺したことか、 あのばあさん、殺せば殺したで四十の罪が許されるような相手じゃないか?[第3巻 pp.391-392]
最後のエピローグになって、やっと愛の力(というより後述のように本能の力)でラスコーリニコフの心が甦る。 人間の本性は決して殺人を許容しはしないというヒューマニスティックな(正確には、 私は、これは人間的というより生物的本能というべきだと思ってはいるが)終わり方で、 読者が安心できるようになっている。

ロシアの土俗性を感じさせるのが、大地にキスをするという場面で、これが何とも魅力的である。 最後に還る場所、甦る場所は、大地、そして自然なのである。 まず、母なる大地を象徴するようなソーニャが、キスを勧める。

いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。そこにまずひざまずいて、 あなたが汚した大地にキスをするの。それから、世界じゅうに向かって、四方にお辞儀して、 みんなに聞こえるように、『わたしは人殺しです!』って、こう言うの。 そうすれば、神さまがもういちどあなたに命を授けてくださる。[第3巻 pp.152-153]
ソーニャは敬虔なキリスト教徒なのだが、これはキリスト教ではない。原初的な信仰であればこそ、 われわれにも感動を与えてくれる。既成の宗教で汚染されていない宗教とは、 何より自然に対する畏敬の念に他ならない。ラスコーリニコフは、その場ではキスを拒否するのだが、 やがてなぜだかそうせざるを得なくなる。これが生物的本能の力であるのだと、私は思う。
その言葉を思い出すと、全身がぶるぶると震えだした。そして最近、それもとくにこの数時間おしつぶされつづけてきた 出口の見えない憂鬱と不安のせいで、彼はこの汚れない、新しい、充実した感覚がはらむ可能性の中に身を躍らせていった。 その感覚は、発作のようにいきなり襲いかかってきた。心のなかにひとすじの火花となって燃えはじめ、 とつぜん、炎のように自分のすべてをのみつくした。自分のなかのすべてが一気にやわらいで、涙がほとばしり出た。 立っていたそのままの姿勢で、彼はどっと地面に倒れこんだ…。

広場の中央にひざまずき、地面に頭をつけ、快楽と幸福に満たされながら、よごれた地面に口づけした。 [第3巻 pp.409-410]

これはこの小説の一つのクライマックスである。論理も何も吹き飛んで、自然に回帰する瞬間である。 たとえ都会の汚れた地面であっても、それは大地であり、回帰すべき場所なのである。 この後も、ラスコーリニコフは、罪を認めることを頭では拒否しているのだが、やはりこの瞬間が やがて心が甦る前触れになっているのだと思う。最後の心の甦生も、シベリアの大地で 地母神たるソーニャの前で起こるのである。
ラスコーリニコフは小屋を出て、河のほとりまで行くと、小屋のそばに積みあげられた丸太に腰をおろし、 広く荒涼とした川の流れをながめはじめた。小高い岸からは、あたりの広々とした景色を望むことができた。 遠い向こう岸からかすかに歌声が聞こえてきた。そこでは、あふれんばかりの陽を浴びたはてしない草原に、 遊牧民の天幕が、かろうじて見えるほど黒く点をなして散らばっていた。そこには自由があり、 こちらの岸とは似ても似つかない別の人々が住んでいた。

(中略)

どうしてこんなふうになったのか、自分にもわからなかった。しかし、ふいに何かが彼をとらえ、 彼女の足もとに彼を投げ出したかのようだった。彼は泣きだし、彼女の両ひざを抱きしめていた。 [第3巻 pp.457-459]

これが神の前では世界文学にならなかったと思う。大地の前、地母神の前であったことが、この小説に普遍性を与えている。

いちゃもん?

(1) 亀山氏の「読書ガイド」に誤りがあることがネットで指摘されている (森井友人「亀山郁夫氏の『罪と罰』の解説は信頼できるか?」)。 これに関しては、「読書ガイド」と放送テキストを見比べてみると、亀山氏が誤りを認めている部分もあることが分かる。 たとえば、推定される日付がその一つで、第3巻「読書ガイド」p.478 では、
第1部 7月7~9日
第2部 7月10~13日
第3部 7月14日
第4部 7月14日
第5部 7月16日
第6部 7月19~20日
となっており、森井氏は7月15日が抜けていることを指摘している。実際、放送テキストでは訂正されていて、
第1部 7月7~9日
第2部 7月10~14日
第3部 7月15日
第4部 7月15~16日
第5部 7月16日
第6部 7月17~20日
となっている。まあ、亀山氏の翻訳のペースから言えば、それほど注意深く「読書ガイド」を書いたとは思えないので、 しょうがないところか。

(2) 翻訳の日本語が気に入らないと文句を付けている人がネット上でいるが、たしかに文句をつけようと思えばつけられるところも散見される。 たとえば、上で引用した

遊牧民の天幕が、かろうじて見えるほど黒く点をなして散らばっていた。 [第3巻 pp.457-459]
遊牧民の天幕が黒く点々と散らばっているのが、かろうじて見えた。
の方が自然だろうとかいったようなことである。この程度のことはしょうがないかって感じはするが。

ネット上で参考になりそうなもの


放送テキストのメモ

第1回 傲慢という名の罪

[あらすじ]

主人公は、大学の法学部を学費未納で放校になった学生ラスコーリニコフ。 ラスコーリニコフは、自分のような非凡人は、人類にとって有益な目的のためなら 罪を犯しても良いという考えを持っている。具体的には、高利貸しの老女アリョーナを殺すことを考えている。 第一部では、ラスコーリニコフが殺人を実行するための3日間。 舞台は帝政ロシアの首都ペテルブルグ。

真夏のある日、殺害計画の下見のため、ラスコーリニコフはアリョーナのところに行く。 帰り道、酔っぱらいの役人のマルメラードフと話をする。 マルメラードフは、マゾヒスティックな道化である一方で、信心深く聖書に詳しい。 翌日、母からの手紙で、妹ドゥーニャがお金のために弁護士ルージンと結婚しようとしていることを知る。 夕方、立ち話を立ち聞きして、その翌日の夕方にアリョーナが家で一人になることを知る。 物語の三日目、アリョーナ殺害を実行。しかし、義理の妹のリザヴェータが帰ってきたので、 この関係のない妹まで殺してしまう。

[ドストエフスキーの生涯]

1839 年、ドストエフスキーが 18 歳の時、父親が農民に殺される。 28 歳の時、左翼活動により銃殺刑の判決を受ける。 ところが、恩赦により、シベリア流刑となる。そして、シベリアでほぼ 10 年間を過ごす。 『罪と罰』は、1866 年から 1867 年にかけて「ロシア報知」に連載される。 ドストエフスキーは浪費家で、『罪と罰』を書いたころは、借金まみれの一文無しだった。

[時代背景]

19 世紀前半、ロシアにはまだ農奴制が残っている一方、社会主義思想や革命思想が入ってきた。 1861 年、農奴解放が行われたが、解放された農奴は、仕事も無く都市に流れてきた。 そこで、ペテルブルクでは、犯罪が増加し、社会が荒れてきた。 1866 年には、皇帝暗殺未遂事件が起こる。

[亀山氏の観点]

第2回 引き裂かれた男

[あらすじ]

今回は第2部(4~8日目)と第3部(8日目夜~9日目夕方)。

ラスコーリニコフは、犯行翌日の夜から3日間、意識不明のまま眠り続ける。 その後、ラスコーリニコフはペテルブルグの街をさまよう。 その際、マルメラードフの交通事故死に遭遇し、彼の家族のために金を置いてゆく。 翌日、予審判事ポルフィーリーを訪ねて対決。 どうにか切り抜けたラスコーリニコフは、悪夢を見る。

ラスコーリニコフの犯罪論においては、人間は凡人と非凡人に分けられ、 非凡人は勝手に法を踏み越えて構わない。 正当な目的のためには、罪を犯しても良い。

[亀山氏の観点]

第3回 大地にひざまずきなさい

[あらすじ]

今回は第4部(9日目夕方~10日目午前中)と第5部(10日目)。

スヴィドリガイロフがラスコーリニコフに会いにやってくる。スヴィドリガイロフは、 異常さを含んだ話をしつつ、「われわれは同じ畑のイチゴだ」などと言う。 夜、ルージンと母と妹ドゥーニャと会合、ルージンはドゥーニャと破談になる。 ラスコーリニコフは、ソーニャに会いにゆく。そこで、ラスコーリニコフは ソーニャに「ラザロの復活」を読んでもらう。

翌朝、ラスコーリニコフは、ふたたびポルフィーリーと対決した。ところが、 ペンキ職人のミコライが突然乱入して、罪を自白したので、 ラスコーリニコフはひとまず解放される。

マルメラードフの葬儀が行われ、ラスコーリニコフも参加する。 そのにルージンが現れ、ラスコーリニコフに復讐しようとするが、失敗して退散する。 その後、カテリーナが喀血して死ぬ。スヴィドリガイロフが現れ、遺児の面倒を見ると言う。

ラスコーリニコフは、ソーニャと会って、自分の犯罪をほのめかす。 ソーニャは、真実を悟り、大地にキスをして自白することを勧める。 しかし、ラスコーリニコフは、それを拒否する。

[亀山氏の観点]

第4回 復活はありうるのか

[あらすじ]

今回は第6部(11日目~14日目)。

ラスコーリニコフの記憶は2日間ほど混濁する。13日目、ポルフィーリーがやってきて 自首を勧める。その後、ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフに会う。 スヴィドリガイロフは、幻覚に悩まされた挙句、自殺する。

翌日、ラスコーリニコフは母と妹に別れを告げた後、ソーニャのもとを訪れる。 ラスコーリニコフは反省をしていないものの、部屋を出た後、突如大地にキスをする。 そうして、逡巡した後、ついに警察署で自白する。 やがて、情状酌量などの結果、シベリア流刑8年の刑が下される。

ラスコーリニコフは、シベリアで懲役。ソーニャもシベリアに赴く。 シベリアでも、ラスコーリニコフは罪の意識になかなか目覚めない。 しかし、ある日悪夢を見てから、大地の包容力に気付き、ソーニャへの愛に気付く。 ラスコーリニコフの心の復活への予兆が見えたとき小説が終わる。

[亀山氏の観点]


放送時のメモ

第1回 傲慢という名の罪

『罪と罰』は、貧乏学生のラスコーリニコフが高利貸しの老女の殺人計画を立ててからの2週間を描いた小説。

ラスコーリニコフは屋根裏部屋で引きこもり。 7月9日、使おうと思っていた斧が下宿から無くなっていた。偶然別の斧が見つかって、老女のところに行く。 老女を斧で殺すと、そこに老女の義理の妹が帰ってきたので、パニックになって彼女も殺してしまう。 ここに、法を学んでいた学生が、法を犯すという矛盾が生まれた。

第2回 引き裂かれた男

今日は、第二部と第三部。7月10日から15日まで。ラスコーリニコフは、家賃滞納で警察に呼ばれる。 その後高熱を発し、3日間眠り続ける。ラスコーリニコフはソーニャという貧しい娼婦に会って、葬儀代を出してあげたりする。 ソーニャの妹がラスコーリニコフにお礼のキスをしたことをきっかけに、ラスコーリニコフには再び生きる気力が戻る。 ラスコーリニコフの許に母と妹がやってくる。 ラスコーリニコフは、予審判事に疑いをかけられていないかを確かめるために、予審判事に会いにゆく。

[ドストエフスキーの人生] ドストエフスキーの父親は、農奴に殺される。ドストエフスキーは、社会主義運動に近づき、シベリアに流される。 そこでいろいろな犯罪者に遭う。

ラスコーリニコフは、優しいと同時に傲慢。自分がしたことを正義だと考えている。

第3回 大地にひざまずきなさい

今日は7月15日から16日まで。

ラスコーリニコフの前に、妹ドゥーニャに言い寄るスヴィドリガイロフがやってくる。 スヴィドリガイロフは、金をやるから妹に婚約を破棄させ会わせてくれと言う。 ラスコーリニコフは断る。スヴィドリガイロフは、 最後に「われわれはどこか似ている気がする」という言葉を吐いて出てゆく。

ラスコーリニコフは悪夢にさいなまれ、娼婦ソーニャを訪れる。 殺したリザヴェータが、ソーニャの親友であったことがわかる。

翌日、ラスコーリニコフは、再び予審判事ポルフィリーを訪ねる。 すると、驚いたことに、殺害のとき同じアパートにいたペンキ職人が、 自分が犯人だと自供してきた。 その後、ラスコーリニコフは、再びソーニャを訪れる。 ソーニャはラスコーリニコフが心を許せる唯一の人。 ラスコーリニコフはソーニャに殺人を打ち明ける。 ソーニャは「大地にひざまずきなさい」と言うが、 ラスコーリニコフは、ただふてぶてしい薄笑いを浮かべるだけだった。

第4回 復活はありうるのか

今日は7月17日から20日まで。

ポルフィーリーはラスコーリニコフを訪ねて、自首を勧める。 ラスコーリニコフは拒否するが、ポルフィーリーは逮捕はしない。 ポルフィーリーは「太陽になりなさい」と言う。 ポルフィーリーは、有為な若者に期待をしているのだ。

スヴィドリガイロフはドゥーニャに言い寄るが拒否され、 最後には自殺する。

ラスコーリニコフは自首してシベリア流刑となる。 最後には、シベリアでソーニャとの愛が確かなものとなり、 未来への期待で終わる。

ドストエフスキーが伝えたかったのは「いのち」。