般若心経

佐々木閑 著
NHK 100分de名著 2013 年 1 月、NHK 出版 [電子書籍]
刊行:2013/01/01(発売:2012/12/24)
電子雑誌書店 zinio で購入
読了:2014/09/19

般若心経

金岡英友 校注
講談社文庫 古 16 1、講談社
刊行:1973/10/15、刷:1992/01/20(第15刷)
どこで買ったか忘れた(SEIBU のブックカバーがついていたので、東京池袋の西武か?)
読了:2014/09/20

わたしだけの般若心経 読み書き手本

藤井正雄(解説)、石飛博光(書指導)、杉本健吉(絵)
小学館
刊行:2002/05/01、刷:2002/05/01(第1刷)
愛知県美浜町の杉本美術館で購入
読了:2014/09/20
般若心経は、現代語訳を見てみると、要するに何でも無だと言っている。それだけと言えばそれだけ、といえば身も蓋もない。 でも、これだけからそれ以上を読み取ろうとするのもまた無茶というものである。般若経の世界に詳しい人に解説してもらうよりない。 というわけで、いろんな解説本が出ている。「100 分で名著」が 2014 年 9 月に再放送されたのを機に持っている本をいろいろ読んでみることにした。 講談社文庫は、ずっと以前に読んでいたのだが、忘れているので、これを機に改めて読み直した。 小学館のは、前に杉本美術館訪問記念に買って放ってあったのを読んでみた。

『100 分で名著』では、仏教の背景知識や、「釈迦の仏教」と大乗仏教(般若思想)の対比がわかりやすく書かれている。 般若心経は釈迦の教えを否定するから、「空」だとか「無」だとかがたくさん出てくる。 一方で、講談社文庫本は、佐々木氏の解説と違ってあまり突き放しておらず、仏教の世界の中で書かれているので、それほど明快ではない。 とくに、仏教の中での立場があまり明確に書かれておらずわかりづらい。仏教用語で目くらましをされている感じだ。 空海の『秘鍵』をけっこう参考にしているらしいから、密教系の神秘主義の色が濃い。 佐々木氏の『100 分で名著』と比べると、『100 分で名著』のわかりやすさが目立ってしまう。

『100 分de名著』では、「般若心経」の本質は「神秘」だと喝破している。 『100 分で名著』を読むと、般若思想は、本来のお釈迦様の教えを神秘主義でごまかしたみたいな感じであることがわかる。 一見思想を深めたように見えて、実は浅くしているのではないかと思える。そんなにありがたがらない方が良さそうだ。 著者の佐々木氏は、般若心経ともともとのお釈迦様の思想のどちらがいいと良いと言っているわけではないですよと強調してはいるが、 釈迦の方が好きだと言っている。しかし、それでも論理性・合理性だけでは救われない人の心を救うのが「般若心経」の神秘だとしている。 私の感想は、やっぱり今時こんなわけのわからん神秘主義は無いでしょ、というふうに思え、 仏教を勉強するなら、本来の釈迦の思想に戻ったほうが良いんじゃないかと思う。

「100分de名著」の放送の方では、「般若心経」と「釈迦の仏教」の対比の部分は抑えられていた。 差し障りがあったのか、まあせっかく「般若心経」を読んでみようと思った人ががっかりしないようにと思ったのか? 「空」には移ろいゆく世の中の根本法則という積極的な意味を与え、 菩薩による他者救済や呪文の神秘性も積極的にとらえている。

小学館本は、写経のためのもので、解説も簡単で、絵や書を楽しむためのものなので、ここではとくにコメントしない。


般若心経は短いので全文を書いてもたいして邪魔にならない。といっても、訳をどこかから写すと著作権問題が生じるので、 英訳版 "The Heart Sutra" から自分で和訳してみることにした。その方が、わかりやすいし具合が良さそうである。基にした英訳は E. Conze によるものである。 どうせサンスクリット語は印欧語族言語なのだから、英訳の方がやりやすいという意味もあるだろう。 なお、漢訳については、以下の講談社文庫本サマリーに全部書いた。

この英訳と、多くの解説書の日本語の解説とで、大きく異なる点が一か所ある。それは、 漢訳で言えば、「以無所得故(無所得を以ての故に)」を、その前の段とくっつけて読むか、その後とくっつけて読むかである。 日本語の解説では、前とくっつけているのに対し、この英訳では後ろの菩提薩埵のことが書いてある部分とくっつけている。 英訳のように後ろに付けたほうが分かりやすい気がするのだが、空海の解釈が前にくっつけてあるようで、日本ではそれを踏襲しているようである。

般若心経現代語訳

聖なる立派な「智慧の完成」に敬意を表する呪文

聖なる神にして菩薩であるアヴァロキタ(観音菩薩)は、彼岸に達する智慧にいたる深遠な道程をたどっていた。
彼が高みから見下ろすと、5つの塊(五蘊)が見えた。彼は、それらが本質的には空虚であると喝破した。

ここでシャーリプトラよ、形相は空虚であり、空虚は形相である。
形相は空虚にほかならず、空虚は形相に他ならない。空虚なるものはすべて形相である。
同じことが、感覚や認識や衝動や意識にも当てはまる。

ここでシャーリプトラよ、すべての法則は空虚で特徴づけられる。
それらは、生成されるわけでも留まるわけでもなく、汚れているわけでも清いわけでもなく、欠点があるわけでも完全なわけでもない。

したがって、シャーリプトラよ、空虚の中には形相も感覚も認識も衝動も意識もない。
眼も耳も鼻も舌も体も心もない。形も音も匂いも味も触れることができるものも心の対象もない。
視覚の認識からはじまって、心の意識の認識もない。
無知もなく、無知が消滅することも無く、そこからはじまって、老死がなく、老死が消滅することもない。
苦しみもなく、原因もなく、停止もなく、道もない。認識もなく、達成もなく非達成もない。

したがって、シャーリプトラよ、菩薩には達成という概念が無いから、「智慧の完成」に頼りながらも、 思考という覆いが無くても生きることができる。
思考という覆いが無いので、彼はおののくことがなく、動揺も克服する。そして、最終的に涅槃に至る。

3つの時代(過去・現在・未来)に仏陀として現れる者たちは、「智慧の完成」に頼るがゆえに、究極の正しく完全な悟りに至る。 そこで、プラジュニャパラミタ(般若波羅蜜多)は、偉大な呪文、偉大な智慧の呪文、究極の呪文、比類なき呪文、すべての苦しみを和らげるものであることを知るべし。 それは真実であり、どうして間違うことがあろうか?プラジュニャパラミタ(般若波羅蜜多)によってこの呪文は届けられた。それは以下の通りである。

行った、行った、彼岸に行った、みんなで彼岸に行った。何というすばらしい悟り、みんなで讃えよう!

これで、完全なる智慧の心を終える。


「100分で名著」放送テキストのサマリー

第1回 最強の262文字

『般若心経』は大乗仏教の『般若経』をもとにしている。「般若波羅蜜多」とは、「六波羅蜜多」と呼ばれる6つの修行のうちで 最も重要な「智慧の修行」を極めることによって得られる「完璧な智慧の体得」のことである。「般若(プラジュニャ―)」は「智慧」、 「波羅蜜多(パーラミター)」は「完成した」という意味である(サンスクリットの音訳)。

「五蘊(ごうん)」とは、「色・受・想・行・識」のこと。

釈迦は、人間においては、この5つの要素が作用し合っていると考えた。すなわち、「五蘊」は存在するものであった。 ところが、般若思想では五蘊は実体が無く、それを錯覚であると悟ることにより苦しみや憂いから解放されるものであるとする。 このように、大乗仏教は、釈迦の教えではない。

釈迦の教えは、自己救済であった。苦しみを抱えた人は、出家して修行しなければならない。これに対して、大乗仏教では、 他人のためということが強調される。修行の道に入りたくても入れない人の気持ちに応えるという側面があった。

さらに、釈迦の仏教のもとでは、どんなに修行しても仏陀にはなれないことになっていた。 仏陀はこの世に一人しかおらず、一人が無くなると次の仏陀が出てくるまでに何十億年もかかることになっていた。 そして、仏陀になろうと思ったら、その前に過去の仏陀に直接会って、決意の誓いを立てて許可をもらわなければならない。 それでようやく仏陀候補生である菩薩になれる。でも、今の世には仏陀はいないので、出家して修行して目指す先は阿羅漢でしかない。 これに対して、大乗仏教では「パラレルワールド」をたくさん作って、それぞれに仏陀を配置した。そこで、 仏陀や菩薩が数多く現れることになった。

大乗仏教のうち、浄土信仰では、極楽という別世界を設けて、そこにいる阿弥陀如来という仏陀にいつでも会えることにした。 極楽往生すれば仏陀に会えて、仏陀になる道を歩み始めることができる。一方、般若思想では、「般若経」を読んで 心に感じるところがあれば、それはその人が過去の世ですでに仏陀に会って誓いを立てていた証拠なのだということにした。 このような大乗仏教が中国に伝わり、その中国を経由して日本に伝わった。

『般若心経』の漢訳としては、玄奘訳が最も普及している。日本の宗派の中では、密教系と禅宗で重視されている。

『般若心経』は、観音様が舎利子(シャーリプトラ)に対して教えを説くという形になっている。 釈迦はその間瞑想に入っていて、観音様のお話が終わった後、「その通り、素晴らしい」と太鼓判を押したということになっている。

第2回 世界は“空”である

まず、五蘊はみんな空であるということが述べられている。五蘊の中の「色」が空だと述べたいるのが、有名な「色即是空」である。 ここの「色」は、物質的な要素のすべてであって、感覚、感覚器官などまでも含む。 釈迦の仏教では、五蘊は実在するものだったのに対し、般若心経では、五蘊は実在要素ではないと言っている。

釈迦は、人間の五感の感覚器官の「眼(げん)」「耳(に)」「鼻(び)」「舌(ぜつ)」「身(しん;触覚器官のこと)」に認識器官「意(い)」を加えて、六根と呼んだ。 それらで認識される対象を、それぞれ「色」「声」「香」「味」「触」「法」と呼んだ。これを六境と呼んだ。 この六根と六境を合わせて十二処と呼ぶ。さらに、これらの感覚器官の情報を用いて「意」によって生み出された認識そのものを それぞれ「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」と呼び、これを六識と呼んだ。 十二処と六識を合わせて十八界という。ここで、五蘊の「色」と六境の「色」は全く異なる概念であることに注意しておく。 六境の「色」は、眼で見る対象だから、「いろやかたち」のことである。これに対し、五蘊の「色」は物質的要素全体なので、 「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」「色」「声」「香」「味」「触」(十二処から「意」「法」を除いた部分)を含んだ物質的世界全体である。

釈迦の言う「空」は以下の意味である。たとえば、「石」において、本当に存在するのは「いろ」や「かたち」や「手触り」などであって、 「石」そのものはわれわれが心のなかで作った架空の集合体であると考える。 あるいは、「私」において、存在するのは「肉体」だったり「意識」などであって、 「私」そのものはそれらを集めた架空の存在であると考える。その意味で、「石」や「私」は空であるとする。 存在するものは、基本要素(十二処、十八界)とそれらの間に成り立つ法則性だけである。

一方で、般若思想の場合は、釈迦が存在するとした十二処、十八界といった基本要素まで実在しないとした。 つまり、これは神秘主義である。このように漠然としたものを取り込むことで、本来は自己修練の道であった仏教が、宗教になった。 なお、龍樹は、大乗仏教から神秘的な要素を取り除いて論理的にしようとした。しかし、龍樹の「空」は釈迦の「空」とはあくまで別次元のものである。

第3回 “無”が教えるやさしさ

さらに、十二支縁起も無いとされる。十二支縁起とは人のありさまを語る連鎖状態で、 「無明(むみょう)→行(ぎょう)→識(しき)→名色(みょうしき)→六処(ろくしょ)→触(そく)→受(じゅ)→愛(あい)→取(しゅ)→有(う)→生(しょう)→老死(ろうし)」 と続く。「無明」は無知のことで、煩悩の親玉、「老死」は苦悩の親玉である。釈迦の仏教では、根源の無明を取り除くことで、苦悩を消すことを説いた。 しかし、般若心経ではこれを全否定している。

さらには、仏教の基本方針であったはずの四諦を否定している。 四諦は、苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つで、苦諦は世の中は苦しみであるということ(一切皆苦の真理)、 集諦はその苦しみを生み出す原因が煩悩であるということ、滅諦は煩悩を消せば苦しみが消えること、 道諦は煩悩を消す具体的な方法としての八正道の実践である。

般若心経で、なぜ釈迦の教えを否定しているかといえば、因果則を変えたかったから。

そういうわけで、般若心経には般若経を讃える文句が入っている。

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故(中略) 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故(中略) 得阿耨多羅三藐三菩提 [ anuttara-samyak-sambodhi の音訳で完全な悟りが得られたということ]
菩薩もすべてのブッダも、みんな般若波羅蜜多のおかげで涅槃や悟りが得られた、ということである。

第4回 見えない力を信じる

釈迦の仏教は、心の苦しみを自力で消すことを目標とする。しかし、それでは救われない人もいる。 神秘に身を任せることで安らぎを得たいと思っている人のために「般若経」がある。 「般若心経」のはたらきは「呪文」なのである。その神秘の働きこそが「般若心経」の力である。 これは、釈迦の仏教の論理性・因果性とは対照的である。

「般若心経」の呪文(マントラ)の本体は以下の通り。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
ぎゃてぃぎゃていはらぎゃてい はらそうぎゃていぼじそわか
ガテーガテーパーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ
これは意味よりも、声で唱えて文字で書くことが大切。

般若心経はなぜ「名著」と呼ぶべきなのか? (1) 簡潔であること (2) 短すぎないこと (3) 構成の妙 (4) 玄奘三蔵訳の良さ (5) 個人の心の救済。

神秘は迷信ではない。人智の至らない作用が世の中にはある。苦しみを救うのは、論理よりも不思議な力であるというのは、人の情というものである。 それを軽々しく排除すべきではない。合理的に分かる部分と、それを超えている部分をしっかり区別して生きるのが良い。 神秘が心のパワーの源になることもある。


「100分で名著」放送時のメモ

第1回 最強の262文字

ナレーション「今回は、般若心経の真髄に迫る。」

佐々木「もともとは、サンスクリットで書かれていた。」
島津「般若心経とはどういう意味なのですか?」
佐々木「般若心経は、知恵のお経という意味。本当の名前は、般若波羅蜜多心経で、 知恵の完成に関して、一番のエッセンスを取り出したお経、という意味。」
佐々木「大乗仏教というのは、皆が大きな乗り物に乗って悟りの世界に行く、ということ。 大乗仏教では、いろんな人がいろんなお経を作った。般若心経は、大乗仏教の仏典の一つ。」

ナレーション「玄奘三蔵は西遊記のモデルとして有名だが、実在の人物。 インドに仏典を求めて旅した。旅に出かけるとき、病人から 「ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼーじーそわか」 という呪文を教えてもらったという伝説がある。この呪文で化物を追い払い、玄奘は旅の苦難を乗り越えた。 インドから持ち帰った仏典を数十年にわたって漢訳した。」

佐々木「玄奘の功績は、何より仏典の漢訳。」
島津「般若心経は、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典の一つですね。」
佐々木「玄奘三蔵は翻訳に優れていた。」
佐々木「最後には音写の部分がある。「ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼーじーそわか」。 いかがですか。」
伊集院「子供心に不思議だった部分だ。」
佐々木「これは呪文です。」
島津「実際の読経を聞いていただきます。」

照見五蘊皆空
度一切苦厄
寸劇A「私やこの世を形作っている五蘊(ごうん)はすべて空だとわかって、一切の苦しみや悩みから解放された。」
寸劇B「五蘊は空であるというのはどういう意味ですか?」
寸劇A「私たちには、確固とした実体はない、ということです。」

佐々木「ふつう私たちは「我(われ)」というものがあると思っているが、仏教では「我」というものは無い。 私の構成要素は5つで、それが五蘊。色(しき)=肉体、体を作っている物質。受=外からの様々な刺激をどう受け取るか。 想=私が考えること。行=私は何かをするぞという意思作用。識=心のなかに映し出す認識の働き。 これを、般若心経では「空」だと言う。」
佐々木「いったん徹底的に分析した上で、それが空だというひねりを入れる。」

寸劇B「ここにあるのは本ですね。」
寸劇A「猫にとって、この本は何か?紙の集まりとも言えるし、赤や白と金色の色の集まりだとも言える。 つまり、あなたの経験がそう決めているだけなので、本という実体は無い。それは偶然の産物である。 夜の闇の中では、赤という色は見えない。」
寸劇A「あなたの体も、心の働きも、すべては幻なのです。」

佐々木「私たちは、ものに約束事として概念を結びつけている。それは、表向きのものであって、本質ではない。」
伊集院「それだから何なのですか?」
佐々木「概念の中で生きるということは、他人が決めた概念の中で生きているということ。 しかし、その概念は間違っているかもしれない。」
島津「般若心経には「空」がどういうものかを書いてあるのですか?」
佐々木「そうです。「空」の概念を理解することで、ものの見方を転換することができる。そのことで、生き方が変わる。」
島津「次回から、「空」とは何かを見てゆく。」

第2回 世界は“空”である

舎利子
色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
佐々木「「空」は般若心経の核心の思想。「空」は生きる力を与えてくれる不思議な働きがある。」
ナレーション「「色即是空」は究極の真理。」
伊集院「「色即是空」の意味を理解していないんですけども。」
佐々木「「色即是空」の色は五蘊のひとつ。」
ナレーション「五蘊の、色は肉体で、残りの4つは心の要素。」
佐々木「「色」は、この世を作っている物質要素のこと。「色」は概念に過ぎないので、「空」だと言っている。」
ナレーション「桜はわずかの日で風に散る。移ろいゆく世界の中の法則を「空」と名付けた。」
佐々木「現象を法則の中に集約したい。すべてを統括している法則があるに違いない。 そのようなものが何かあるかもしれないけれど、わからないし、言葉で表すことができないものを「空」であるとした。」
佐々木「空とは、何もないというわけではない。」
島津「我々の知らない真理のことを「空」と名付けたんですね。」
佐々木「移ろいゆく世界も「空」から現れてくる現象だと理解できる。」
伊集院「空は悟りそのものですね。」

寸劇A「空即是色―すべては、移ろいゆくからこそ美しい。その変化のさまが美しい。」
寸劇C「移ろいゆく世界が美しいから写真を始めた。これって、空即是色だよね。」
佐々木「連続する世の中から画像を切り取って見せたいというのが写真とか絵画の芸術。 そのような世界を司る法則を切り取って見せたいというのが物理学。 つまり、創造的な作業の中には、「空」を切り取りたいという衝動がある。 このように、「空」から「色」を取り出すのが人間の活動。これが「空即是色」。」
伊集院「万有引力は、ちょっと前までは「空」だった。それが、法則を発見することで「色」になる。」
佐々木「空の世界に触れる喜びが、創造の喜び。」
佐々木「毎日を生きる一瞬に意味を見出す。そのように考えると、「空」をポジティブに考えられる。 そのように考えてゆくと、「空」から生きる喜びも出てくる。」

受想行識 亦復如是
佐々木「般若心経では、心の中の様々な要素(受想行識)もまた空だと言っている。 そこで、私という存在は、すべて「空」だと言っている。」
佐々木「たとえば、苦しみも永遠ではない。だから、これは苦しんでいる人には希望になる。」
伊集院「「空」を頭に留めておくと、頭の切り替えができるということだろうか。」

島津「舎利子とは誰のことでしょうか?」
佐々木「舎利子は、シャーリプトラという仏陀の一番弟子。智慧第一と言われた。」
ナレーション「あるとき、釈迦は弟子と共に山に登る。すると、お釈迦様は瞑想に入った。 このとき、舎利子が、観音様にこう質問した。立派な若者が般若波羅蜜多を実践するにはどうしたらよいでしょうか? こうして、観音様が舎利子に語った言葉が般若心経である。最後に、お釈迦様も眼を開いてその通りだと言った。」
伊集院「なぜ、お釈迦様が説いた教えではないのか?」
佐々木「一般の人にもわかりやすく語るという設定。観音様はみんなを代表する菩薩で、そういう役割を果たす。」

是諸法空相
不生不滅
不垢不浄
不増不減
佐々木「この世を作っているすべての存在要素(法)は空である。したがって、生まれるものでも消えるものでもない。 きれいでも汚くもない。増えも減りもしない。したがって、移り変わるのでも移り変わらないのでもない。 ものごとは一方的に決められない。」
佐々木「人が死ぬと、物質は雲散霧消する。それでも、影響力は残る。たとえば、子供がいれば、親の影響は残る。」

佐々木「般若心経は短いだけに、いろいろな解釈ができる。そこで、世界の人々に般若心経は愛されている。」

第3回 “無”が教えるやさしさ

島津「般若心経には21回も「無」が出てくる。これはどういうことでしょうか?」
佐々木「これは固定観念をリセットしようという教え。」
是故空中無色
無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
佐々木「空という立場から見れば、物質とそうでないものの区分けなどない。受想行識もない。すなわち、五蘊というものは無い。」
佐々木「認識器官と認識器官の対象(すなわち世界の全部)が無い。「身」は触覚器官、「法」は心が認識する対象。 枠組みを全部崩して、いったんプレーンに戻す。」
佐々木「これでとらわれから解放される。」

寸劇「ジョン・レノンの「イマジン」に「般若心経」と通じる。「天国も地獄も国境もない」と歌われる。No のシャウトが繰り返される感じがロック。」
佐々木「海外でも Heart Sutra と呼ばれて愛されている。No は既存のものを壊して創造する力のパワーを与えてくれる。」

無無明 亦無無明尽
佐々木「「無明」は煩悩のことで、世の中を正しく見ることができない愚かさのこと。釈迦はこれが人間の苦しみの源だとした。しかし、これが無いと同時に、これが尽きることが無いと言っている。」
ナレーション「ブッダは八正道が正しい生き方だとしたが、般若心経ではそれも絶対ではないと言っている。」
佐々木「八正道が出来なくても、世の中を無にして世界のあり方を変えるというやり方もある。」
島津「全部「無」だと言われると不安になるのでは?」
佐々木「今の自分が囚われている枠組みを壊すという思いで般若心経を読むと良い。それが価値観の変化につながる。 その結果、どのような生き方ができるかは一概には言えない。」

寸劇「「無智亦無得」、すなわち、知恵も悟りも実体はない。なぜなら永遠に完成しないから。」
島津「そもそも、般若心経は「最高の悟りに至るための知恵」ではないのか?」
佐々木「普通の知恵と、それを超越した「空」の立場の本来の知恵がある、という二重構造。」
佐々木「般若心経を読むときは、常に心の上の段階への向上を考えないといけない。」

ナレーション「菩提薩埵=菩薩は人を救うために常に努力する。それが般若心経の理想とする生き方。」
佐々木「菩薩のやり方は、お釈迦様の修行の道を変えた。他人を救うことが自分の安らぎにつながる。」
伊集院「悟りを開くことだけが目標ではない。」
佐々木「頑張るだけが道ではない。他人を救うことを目標にする。」

第4回 見えない力を信じる

ゲスト:玄侑宗久

佐々木「今回のテーマは神秘の力。神秘をどうやって体得して信じるか。実は、これが般若心経のポイント。」
ナレーション「玄侑宗久さんは、震災を経て改めて仏教的人生観を発信し続けている。」
玄侑「ものは無くなっても、われわれ自身が生き残っている。」

呪文「ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼーじーそわか」
佐々木「般若心経では、この呪文こそが真の力を持っているとしている。」
耳なし芳一の物語「芳一は平家の亡霊に琵琶を聞かせていた。それを知った和尚は、芳一の体全体に般若心経を書いた。しかし、和尚は耳にお経を書き忘れたので、芳一は亡霊に耳を取られた。」
伊集院「芳一の物語に使われるのが般若心経だとは知らなかった。」

呪文「ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼーじーそわか」
ナレーション「これはサンスクリット語で書かれた呪文である。」
玄侑「仏教では、「私」が世界の妨げになっており、「言葉」は妄想だと考えられている。」
玄侑「言葉がない状態が天然自然の命。その状態に返るために呪文がある。」
玄侑「音そのものにパワーがある。」
玄侑「東北には「絵心経」が伝わっている。これは頓智で般若心経を読ませるもので、音だけが大事。」
伊集院「意味が要らないというのは納得ができない。」
玄侑「般若心経全体を呪文と考えて、それを唱える行為がないとこのお経は完結しない。」
佐々木「般若心経の目的は「空」のような言語を超越したものを心でわかってもらうことだから、そのためには唱えることも大事。」

呪文「ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼーじーそわか」
玄侑「考えると、お経を唱えるのを間違える。」
玄侑「お経を読むと、覚醒していても何も考えていない時間が作れる。」
玄侑「「私」が消えたほうが、命が伸び伸びできるという意味がある。「私」にしばらく消えてもらうのが呪文の効果。」
伊集院「無心ということですか。」
玄侑「そうです。」
佐々木「写経も重要。もともとインドの時代から写経をしている。」
佐々木「今では、人々は心の安寧を得るために写経をしている。これはもともとインドから伝わる正しい姿。」
佐々木「われわれがとらわれている狭い世界から解き放たれるのが、般若心経の役割。」


講談社文庫本のサマリー

簡単なサマリー。

まず、第二部が『般若心経』の解説である。 以下の二~七は、空海の『般若心経秘鍵』が全体を五つに分けたのにだいたいしたがっている。

一 真実の知恵の経―経題
般若波羅蜜多心経
二 真実の実践―総論 [『秘鍵』の「人法総通分」(人と法(真実)とのつながり)]
観自在菩薩
行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空
度一切苦厄
三 色は空なり―般若の哲学(1) [『秘鍵』の「分別諸乗分」(もろもろの教えを考える)(1)]
舎利子
色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識 亦復如是
四 変りなき世界―般若の哲学(2) [『秘鍵』の「分別諸乗分」(もろもろの教えを考える)(2)]
舎利子
是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
五 生死を超えて―般若の哲学(3) [『秘鍵』の「分別諸乗分」(もろもろの教えを考える)(3)]
無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道
無智亦無得 以無所得故
六 さとりに生きる―心経の世界 [『秘鍵』の「行人得益分」(『心経』を実践する人の利益)]
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏、依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
七 不思議の発見―秘密と真言 [『秘鍵』の「総帰持明分」(すべては持明(マントラ)のふしぎなはたらきに帰する)と「秘蔵真言分」(マントラ)]
故知般若波羅蜜多
是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

第三部は、各種テキストのどのようなものがあるかを見て行っている。

一 サンスクリット原典
大きく分けると小本と大本がある。日本で普通流布しているのは玄奘訳を基にしたもので、これは小本が元である。 大本は、前後にいきさつが付いているものである。仏が瞑想している間に観音菩薩が説法を始めて、最後に仏もこの説法を認めた、ということが書かれている。
二 チベット訳テキスト
邦訳もある。
三 漢訳テキスト
今日本で読まれているのは、基本的には玄奘訳である。
註釈
たくさん註釈書があるのだが、とくに重要なのは、以下のものである。
近代の『心経』講述
明治以降もたくさんの解説が出ている。とくに有名なものに、高神覚昇『般若心経講義』がある。