グローバリズムという病

平川克美 著
東洋経済新報社
刊行:2014/08/07、刷:2014/08/07(第1刷)
福岡天神のジュンク堂書店福岡店で購入
読了:2014/08/16
世の中グローバル時代ということで、大学までグローバル、グローバルと言って英語での授業を強制されかねないのは困ったものだと 思っていたところで、何かの時の理論武装にと読んでみた。 むろん、科学研究はすでにグローバルなものだから、英語を使わなければできない。だから英語能力が必須なのは言うまでもない。 だからといって英語で授業じゃないだろうという思いがある。 これは、経済活動でも同様のようだ。本書の著者も、経済活動がグローバルになっていくというグローバリゼーションは嫌も応もなく不可避だと見ている。 それとグローバリズムというイデオロギーとは別でしょうというのが本書の主張だ。だから、本書の主張には非常に共感してしまう。

事実として「グローバル化してゆく/している」ということと、グローバリズムということは別である。 しかし、その区別が難しい。大学がグローバルという言葉に弱いのは、すでに科学技術の世界が英語に支配されていることによる。 この英語支配は如何ともしがたい。 第二次大戦の敗戦国のみならず、フランスだって英語で論文を書いたり研究発表したりしないとどうしようもない状況である。 もっとも、フランスも大戦中はヴィシー政権になっていたのだから立派な戦勝国というわけでもないわけで、それで 英語が勝利してしまったのかもしれない。将来中国が力を付けて中国語がこの独占体制に穴をあけたらおもしろいなとも思ったりもする。 そうなったら、日本人は、英語以外に中国語でも苦労する羽目になるかもしれないが、漢字文化圏にいるので一応漢字が分かるという有利さも少しは出てくるかもしれない (もっとも中国語はやっぱり日本語とは全然違うので修得は難しいが)。

自由貿易というのはもちろん大事なのだが、本書で引用してある下村治の書いたものを孫引きすると

経済活動はその国の国民が生きて行くためにある。国民の生活をいかに向上させるか、雇用をいかに高めるか、したがって、 付加価値生産性の高い就業機会をいかにしてつくるか、ということが経済の基本でなければいけない。(中略) 自由貿易のために政治経済が存在するのでは決してない。(中略)
むしろ、敢えて言うなら保護主義こそ国際経済の基本ではないだろうか。
ということである。その通りだと思うのは、経済というのは幸せに暮らすためにあるのであって、経済成長するためにあるのでもなく、 お金を儲けるためにあるのでもないということである。大学でやっているような学問も同様だと思う。 知識も人々が(とくにその国の国民が)幸せに暮らすためにあるのであって、国際競争に勝つためにあるのでもなく、 お金を儲けるためにあるのでもない。そのためには、英語化よりも日本語化をちゃんと考えないといけないし、 特許とか著作権のような知的財産権は可能な限り縮小しないといけないと私は思う。 英語化や特許を推奨するようでは困る。できるだけ多くの人ができるだけ多くの知識に接することができるようにすることが、 人々の幸せにつながるはずである。

著者は、株式会社と国民国家が対立しているという構図を説く。株式会社にとって国民国家は邪魔者なのであり、 それが無い世界を目指すのがグローバリズムなのである。今の安倍政権がグローバリズムを指向しながら愛国心を謳うのは、 安倍政権が本当は経済重視のグローバリストで国家をないがしろにしているのをカムフラージュするためだろう。

それに関連して、かねてから疑問に思っていたことで、ひとつこの本でだいぶん解決したことがあった。 その疑問は、人々がなぜ経済成長をそんなに必要だというのかということだ。 成熟した社会では別に成長などする必要がないはずだからだ。 わかったことは、株式会社という仕組みが成長を前提としているから、であった。 成長しなければ、人々は株式を買おうとあまり思わなくなるから、株式会社という仕組みが成り立たなくなる。 で、人々は株式会社を守るために経済成長と言い続けるというわけだ。 でも、ふつうには成長するはずのないところで無理に成長しようとするから世の中が歪んで、大部分の人々は不幸になるということになる。 株式会社は会社の唯一ありうる姿というわけでもないので、これからはやめるようにすれば良いのに、といささか無責任かもしれないが思った次第。