こころ

夏目漱石 著
角川文庫 13391, な 1-10、角川書店
刊行:1951/08/25、刷:2013/04/30(改版29版)
文庫の元になったもの:1914/09/20 岩波書店刊
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読了:2014/09/15

こころ

夏目漱石 著
元となる朝日新聞連載:1914/04/20--1914/08/11
朝日新聞再連載:2014/04/18--2014/09/25
読了:2014/09/25

夏目漱石 こころ

姜尚中 著
NHK 100分de名著 2013 年 4 月、NHK 出版 [電子書籍]
刊行:2013/04/01(発売:2013/03/25)
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読了:2014/09/20
『こころ』はもちろん国民的名作だから、高校生くらいの時にも読んだことがある。 しかし、漱石が『こころ』を書いた年齢とほぼ同じ年齢になった今、また読み直してみるとやはりまた味わいが違う。 『こころ』は、100 年前の小説である。読んでいて、ずいぶん昔のように思うけれども、たった 100 年と言えばたった 100 年なのである。 日本もだいぶん変わったものだという感慨と同時に、明治期の日本人の悩みをまだ私たちは引きずっているのではないかという感もある。 ちなみに、九州大学は 2011 年が 100 年目で、北海道大学が帝国大学としては 2018 年が 100 年目であり(もっとも 北大は、歴史を札幌農学校から始めたがるので、1876 年を創設としているようである)、 日本の近代的教育が整備されてから約 100 年ということでもあるし、明治が終わってから約 100 年ということでもある。

『こころ』が 100 年目というのは、 もともと朝日新聞に 1914 年 4 月 20 日から 8 月 11 日まで連載され、9 月 20 日に岩波書店から初版が刊行されたということである。 朝日新聞では最近再連載がなされ、岩波書店からも復刻版と特装版が間もなく発刊されるらしい。 岩波書店では「漱石プロジェクト」なるものを立ち上げ、 twitterfacebook のページを作っている。 たいした力の入れようである。それとともに、昨年の「100分de名著」で取り上げられたのを始めとして、最近でも特集テレビ番組があったりで、 まあちょっとしたブームのようである。ニュースによると、朝日新聞再連載開始を機に新潮文庫版は 4 月から 7 月で 10 万部売れたそうだ。 私も最近朝日新聞で再連載をしているのをきっかけに、改めて読んで見ることにした。 新聞の再連載版を毎日読んでいたのだが、新聞の発行に合わせて少しずつ読むというのもなかなかゆったりとしていて良いものであることがわかった。 登場人物が少ないのも新聞連載に向いている。読んでいて人間関係がわからなくなることがないからである。

国民的名作とされている割に、全体的には奇妙な小説である。「上 先生と私」「中 両親と私」では、「先生」は単になぜか悩んでいるだけで、 「私」にはその悩みがなぜかとても気になっている。最後の「下 先生と遺書」で、先生の悩みの中身が明かされる。 しかし、そこで明かされるのは、きわめて優柔不断な人間としての「先生」である。こんなものの何が心を引くのか。 以下に書いてあるいくつかのテレビ番組やら新聞記事なども参考にしながら読んでみると、この本がなぜ日本人に人気があるのかがだんだんとわかるようになった。

ひとつには、日本人には、優柔不断にうじうじ悩む人が非常に多いということではないだろうか。 私も青少年時代は特にそうだったので、この悩み方が非常によく分かる。 「100分de名著」の姜氏も、高校時代にうつで引きこもりになり悩んだときに「こころ」がぴったり来たと書いている。 以下に書いた「漱石「こころ」100年の秘密」という番組でも、中野信子氏が、日本人とアメリカ人とでは脳内物質の分泌のしかたが違っていて、 日本人の方が内に向かい、アメリカ人の方が外へ向かうのだというようなことを言っていた。 ひたすら悩むのは、やはり日本人の国民病なのかもしれない。大学生でも引きこもりが多いけれども、 それもそのような悩みの現れとして理解ができる。『こころ』の「先生」は、悩みを紛らわすために書物を読んだ。 引きこもりの学生も書物を読んでくれると良いと思う。それは、このような小説でも良いし、専門の理学書でも良いし、いろいろあると思う。

この小説の「私」が「先生」に惹かれる様子が変だということで同性愛小説として読む向きもあるようだが、 たぶんそういうことではなくて、この手の「うじうじ悩み」を共感し合える人物として女性を想定できなかったのではないかと思える。 このような悩みは「女々しい」とも言われかねないので、異性に打ち明ける図はとても想定できなかったのではあるまいか。

もう一つは、近代化して自由になったが故の孤独感である。

自由と独立と己(おのれ)とにみちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの寂しみを味わわなくてはならないでしょう。 [上の十四(角川文庫版 p.45)]
これに類する歪みは、現代でもいろいろな形で現れているように思う。核家族化は明治時代よりもさらに進んでいるし、 最近ではグローバル化とか言って、日本人の心性に合わないはずのアメリカ化に巻き込まれ、 「ハーイ!」などと明るく挨拶させられるのではやっぱりつらい。

そういうわけで、「こころ」は今でも日本人の心の拠りどころになるのであろう。


「こころ」における心の病

朝日新聞では「こころ」の連載と並行して「漱石と私」という連載が少しの時期載った。そのなかで、精神科医の高橋正雄氏(筑波大学)の見方 (2014.07.30) がなかなかおもしろかった。 いわく、漱石自身が精神病的な状態に陥ったこともあるせいもあって、漱石の作品には精神を病んだ人が多く出てくるとのこと。 「こころ」における先生の自殺は、先生がPTSDだったと考えると理解しやすいそうだ。 親友Kの自殺が心的外傷となって人格が変化し孤立して自殺するというのはPTSDだとして説明できるということだ。 漱石文学は、精神障害に対する深い理解と共感の文学であるという見方は、有用だろうと思う。 なお、高橋氏には「漱石文学が物語るもの―神経衰弱者への畏敬と癒し」という著書がある。

最近では同性愛小説という読み方もある(ネット検索してもたくさんひっかかる)。 最初に「私」が「先生」に近づいていくやり方は確かにちょっとストーカー的だし、 「先生」が「K」のストイックなところを何とか緩めようとする努力も尋常ではない。 しかしこれは、見方を変えれば、以下にも話があるように、「私」も「先生」も「K」も一心同体で、 同一人物の別の側面を描いていると言っても良いのかもしれない。 「K」が生まれ変わって「先生」になり、「先生」がまた生まれ変わって「私」になるような。 もともと小説の登場人物というのは、作家の分身とも見られるわけなので、一心同体なのは不思議ではないけど、 それを3つの人格に自然に分離するのに成功していないということかもしれない。


NHK「漱石「こころ」100年の秘密」(BS 2014/09/10) メモ

NHK-BS で上記標題の番組を見たときのメモである。 鈴木杏、小森陽一、中野信子、関川夏央、高橋源一郎の六人が、好きなことを言うという番組である。

同性愛?
海水浴から始まるのが変だよねえ。
他人のものを欲しがる?
先生は、Kが静を好きだと言ったから、静を好きになったのでは?
恋に関して
やたら観念的に恋愛が語られている。
当時は恋愛至上主義。北村透谷などが恋愛を賛美していた。 しかし、漱石はそれに批判的で、「恋は剥げやすい仮面である」と言っていた。そういう批判も入っている。
金に対する執着も目立つ
お金も明治の精神のひとつであった。漱石はお金の力を書いた経済小説家でもあった。
魔性の女?
静は、先生とKの二人を自殺に追い込んだのだから、魔性の女とも言える。
静はそんなに優れた女としては描かれていないにも関わらず、愛し始めるのは、認知的不協和。
K
Kは、禁欲的で努力をしているのだけれども、その先が無い。果実をもたらさない努力をしている。
自立と孤独との間の相克。
Kの経歴は漱石本人に似ている。
政治的小説?
言いたいことをわからないように書くというところがある。当時のエリートにはわかるけれども、そうでないとわからない。
三角関係
小森陽一説:「先生―K―静」の上に「私―先生―静」の三角関係がある。「私」は、このあと「静」と結婚するのでは?
先生
先生はマゾヒスト?―自分をあえて苦しめているような。
先生は退屈していた?―利息生活で何もしていなかった。
「私」は先生の若い頃なのかもしれない。つまり、ちょっと論理的な SF のような設定。
天皇崩御と乃木殉死
乃木の妻は静子で、乃木は静子を連れて死んだ。先生の妻の名前が「静」なのも、これに対する批判も入っているのだろう。
「こころ」と日本
「こころ」は、最初はそう有名ではなかったのだが、戦後教科書に採用されて、売れるようになった。
日本は、「こころ」と「人間失格」が売れる国。どちらも自殺の話だというのがすごい。 これに対して、アメリカのベストセラーと言えば、「聖書」と「ハックルベリー・フィン」。 日本人は自問自答するタイプなのだ。そこで、日本人は、「こころ」に自分自身を見出す。

「100分de名著」テキストのサマリー

第1回 私たちの孤独とは

*「こころ」のテーマは「近代的自我」とそれに起因する「人間の孤独」である。
我々の遣ってゐる事は内発的でない、外発的である。是を一言にして云へば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云ふ事に 帰着するのであります、(中略)我々の開化の一部分、或は大部分はいくら己惚れて見ても上滑りと評するより致し方がない、 併しそれが悪いからお止しなさいと云ふのではない、事実已むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑つて行かなければならないと云ふのです。 [漱石の講演より]

*「こころ」は死を考える「デス・ノベル」である。多くの人が死ぬ―「先生」、K、「私」の父親、お嬢さんの母親、明治天皇、乃木希典。 背景にはいくつかのことが考えられる。

第2回 先生という生き方

*この回では、「先生」という生き方、あるいは呼び方を考察する。 「先生」はプータローであるにもかかわらず、「私」は強く惹かれている。それを読む鍵になることをいくつか。

第3回 自分の城が崩れる時

*この回では、Kの死を考える。

第4回 あなたは真面目ですか

*漱石が使っている「真面目」というキーワードについて

*漱石の死生観について


「100分de名著」放送時のメモ

第1回 私たちの孤独とは

「こころ」の評価が高まったのは戦後。

[あらすじ] 「私」が先生を初めて見たのは、先生が外国人を連れて海水浴をしていたとき。 「私」は先生には話したくない過去があることを知る。「恋は罪悪だが神聖なものだ」と先生は言う。 先生の遺書によって先生の秘密が明らかになる。

物語は、「私」の回想の形で展開する。遺書によって、三角関係をめぐる先生の親友Kの自殺のいきさつが明らかになる。

キーワードは「孤独」

先生は、青年時代に叔父に騙される。そこで、他人が信用できなくなる。ところが、三角関係をめぐって、今度は自分が 親友Kを裏切ることになる。結局、先生は、自分自身も信用できなくなる。その結果として、淋しさ、孤独を引きずっていくことになる。

漱石は、養子にやられて淋しい子供時代を送った。文学的才能が有ったので、帝国大学で英文学を専攻する。 漱石は、ロンドンに渡って、孤独を味わう。近代化が孤独をもたらすことを痛感する。 漱石は、自意識や自我によって、人々は孤独になると考えた。

姜「漱石は、孤独を全否定しているわけではないのではないか。」

第2回 先生という生き方

なぜ、「私」は海岸で会った男を「先生」と呼んだのか?この「先生」は、実はプータロー。「私」にとっては、生き方の指南役であった。

[あらすじ] 先生の態度はむしろ非社交的であった。先生はいつでも一人であった。「私」は、先生のお宅にときどき押しかけでお邪魔する。 私は、先生を強く尊敬するようになる。私の父親は、先生に不信感を抱いている。先生の妻の静ですら、先生のことがよくわからない。

姜「当時「高等遊民」という言葉があった。今風に言えば、優雅なニート。」
姜「「私」には純粋さへのあこがれがあったのではないか。」
姜「高等遊民は現実の中で打ち砕かれる。」

[あらすじ] 「私」は、先生と父親とを比べてみた。父親には全く物足りないものを感じているのに対し、先生を尊敬する。

姜「家父長制がだんだん揺らいできているのではないか。父親が平凡に見えてくる。」
姜「父親がもはや乗り越えるべき人物ではなくなってきた。これは、現代にも共通している。」
姜「漱石は、師弟関係を理想的な人間関係だと見たのではないか。」

[あらすじ] 「私」は、先生の遺書を受け取る。

姜「先生は、自殺を肯定しているわけではない。先生は、自分の考えを引き取ってくれる青年を見つけたということだろう。」
武内「自分の想いを伝えることができる人がいたということは、幸せなのではないか。」

第3回 自分の城が崩れる時

K は何をやっても敵わない友達。

K は先生にお嬢様への恋を打ち明ける。先生は心を乱される。先生は K に痛烈な言葉を浴びせる。さらに、先生はお嬢さんと婚約する。その数日後、K は自殺する。

姜「K が自殺したのは、自分の作り上げた城が崩壊したことで死んだのではないか。孤独が K を苛んだ。K は本当は弱い人だったのではないか。」

[参考] エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」;主人公は自分の分身を殺してしまう

姜「K は、先生の分身だったのではないか。先生は K の後を追いかけるかのように、恋をし、孤独を味わい、自殺をする。」
武内「人は、一人では生きられない。」

第4回 あなたは真面目ですか?

ゲストは島田雅彦

武内「島田先生は「こころ」をベースにして「彼岸先生」という先生と書かれていますけど。」
島田「実は「こころ」はあんまり好きじゃないんです。」
島田「女性から見ると、女性は蚊帳の外に置かれている感じで、憤るんじゃないか。」

[あらすじ] 「私」は先生の過去を聞き出そうとする。しかし、先生は、思想と過去は別のものだという。そして、過去を語りたがらない。 「私」は、自分は真面目だと言う。それに対して、先生は「あなたは真面目ですか?」と尋ねる。これに対して「私」は、自分は真面目だと言い切る。

島田「奥さんじゃなく、「私」に過去を告白しようというんだから、裏があるんじゃないか。 先生が本当に好きだったのは、「私」か K だったのではないか。同性愛というわけではないけれども、 同性を信頼していたということか。」

[背景] 漱石は、日本の近代化が外国からもたらされたことであることを問題にしていた。涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない。 漱石の小説には「真面目」と言う言葉がときどき出てくる。「虞美人草」でも、真面目とは真剣勝負だと述べている。 「それから」では、真面目の難しさを述べている。

島田「当時は近代化の思春期で、短期間の間に国力を上げていった。漱石の時代には、戦争ばかりやっていた。そういう時代なので、 不真面目には生きられなかった。」
島田「封建時代の名残を残していた人々が、急速に近代化していった。」
姜「お前の正体は何か?ということを真面目に考えるということ。」
姜「「坊っちゃん」や「猫」の諧謔は出てこない。」
島田「「こころ」では、職業作家として新聞に連載をしていた。家族、学生、夫婦といったモデルを提出し続ける。 漱石は、「こころ」をはじめとして、あまりうまくいっていない夫婦関係とか家族をたくさん書いている。」
島田「漱石が「真面目」になったのは、病気になるなどして、自分自身を深く見つめるようになったのではないか。」
島田「極私的な観点から、もう一度世相を見直している。」
島田「もうひとつ章があっても良かったかもしれない。「私」がその後どう考えたかとか、奥さんがその後どうなったかとか。」
島田「生き残ったものが、書くことで伝える。」
姜「最後は「伝わった」ということに価値を見たい。生き残った人が次々に引き継ぐ。」
島田「ある種完結していないところが魅力。悩み続けて解決が無い。」


版に関して

文庫版と朝日新聞版の大きな違いは、章立てである。文庫版の方は、「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三章立てだが、朝日新聞版は切れ目はなくて全部「先生の遺書」である。 朝日新聞版は、もとの新聞連載バージョンに従ったとのことである。相違が生じた理由は、自序に書いてある。 もともと「心」という標題で数編の短編を書くつもりだったのが、「先生と遺書」が長くなってしまったので、それを一つの小説とし、 改めて3つに大きく章立てしたとのことである。

その他、角川文庫版と朝日新聞版とでは漢字の使い方が少し異なる。いずれも、現代仮名遣いと漢字表記に直してあるのだが、 角川文庫版の方が徹底的に直してあって、読みやすい反面、漱石らしい当て字の数々が跡形もなくなってちょっと淋しい。

注について気づいたことやメモなど

上の四(角川文庫版 p.17)「新(ら)しい学年」
朝日新聞版では、当時の大学の新学年は9月に始まったと説明されている。確かに「こころ」は夏から始まるからそうでないと話が合わない。最近、大学の秋入学を目指す動きがあるが、昔そうだったとは初めて知った。帝国大学が4月入学になったのは大正時代になってからだそうな。
上の五(角川文庫版 p.19)「依撤伯拉(イザベラ Isabella)」
角川文庫版の説明では、Isabella は、スペイン語女性名 Isabel の英語読みとなっている(本屋で立ち読みしたところ、他の文庫のいくつかでも同じ説明がされている)。これは不思議である。たとえばWikipediaを見ても、Isabel(もしくは Isabella, Isabelle)はラテン系諸語にある女性名で、英語では Elizabeth に対応すると書いてある。Isabella と綴るのはイタリア語である。一般に欧米では、他国の人の名前は、綴りはそのままで自国語読みをするか、自国の対応名に置き換えるのが普通だから、「英語読み」というのが意味不明である。英語圏でもIsabel系の名前をつける人がいるようだが、少なくとも今では、好みによって Isabel, Isabella, Isabelle のいずれも使われるようである。そもそも「英語読み」というのが仮に正しいにしても、これは本文では墓標にある名前だから、イタリア人女性の名前と考えるのが素直である。なぜ「イタリア人女性の名前」という説明にしなかったのだろうか?