ところで、小川氏が青春文学という視点を取ったのは、政治的に難しい問題を避けるためだったかもしれない。 やはりユダヤ問題というのは難しいということを藤永茂氏のブログで最近知った。
小川談「思春期の只中にある人が書いた文学というのはなかなか他に無い。」
アンネの父親は、ドイツで銀行業を営む裕福な一族の出だった。母親も裕福な家で育った。 1933-34 年、ユダヤ人であった一家は、ナチスのドイツを逃れて、アムステルダムに移住した。 しかし、1940 年、オランダもナチスに占領された。 アンネは 1942 年の 13歳の誕生日の時に父親から日記帳をプレゼントしてもらい、日記を書き始める。 同年、姉マルゴーへの出頭命令を機に、一家は隠れ家に移る。 2年後、一家がゲシュタポに連行されたところで日記が途切れる。 支援者の女性のミープ・ヒースがその日記を回収して保管した。戦後、日記は生き残った父親のオットーに手渡され、最初はオランダ語で出版された。1991年には、父親がカットした部分も含めた完全版が出版された。
アンネは、日記帳にキティーという名前を付けて、それに語りかけるというスタイルを取った。 そのことによって、日記に文学性が出てきた。感情にひとりよがりではない言葉を与えることができた。
小川談「アンネは、皮肉屋でうぬぼれ屋で、おしゃべりでおしゃまな女の子。日記に友達の寸評を書いているのが率直で面白い。アンネは空想家だった、とアンネの友達から聞いた。」
「アンネの日記」にはユーモアがある。
じっさい、ファン・ダーンのおばさんというのは、すばらしいひとです!模範的なお手本を示してくれます…見習うべきです、反面教師として。(1943年 7 月 29 日)伊集院「ネタにすることで救われる、ということだと思う。」
小川「本当にそうですね。書いて、笑いで流す。」
一家が何とか生活を送ることができた背景には、父親の会社の従業員たちが献身的に支援をしていたことがある。
母と娘の葛藤が書かれている。アンネには母親の欠点が許せない。時が経って少しずつ関係が緩和されるところで日記が終わっている。一方で、アンネは父親を深く信頼していた。
外の世界に出ていけない中で、アンネの筆は自分の内面に降りて行く。
同居していたペーターへの恋心がだんだん芽生える。ペーターは、嫌味なく飼っていた猫の生殖器について語ってくれた。それを機に、二人の心は急接近。初々しいやりとりが描かれている。 そして、1944 年 4 月 16 日の日記には、ペーターと初めてキスをしたと書かれている。 恋に伴う激情も素直に描かれている。
一方で、母親から独立して大人になってゆく心の動きも描かれる。1944 年 4 月 11 日の日記には「わたしがわたしとして生きることを許してほしい」と書かれている。 しかし、母親への反抗心が完全に乗り越えられる前に日記は終わってしまう。
隠れ家の8人のユダヤ人は収容所に送られ、そのうち7人が命を落とす。アンネは、ベルゲン・ベルゼン収容所でチフスで亡くなる。たった15年の生涯だった。 父のオットーだけが生き残り、やがて「アンネの日記」を出版することになる。
アンネの日記によって死者たちの声に耳を傾けられるようになった。「わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!」(1944 年 4 月 5 日)
アンネは隠れ家の中で日記に語りかけることで心を癒していたのだろう。 言葉を使うことで、人は自己の内面に降りてゆくことができる。