哲学入門
戸田山和久 著
ちくま新書 1060、筑摩書房
刊行:2014/03/10、刷:2014/03/10(第1刷)
著者から頂戴した
読了:2014/11/03
戸田山さんらしい「哲学とは何か」である。わかりやすい筆致で壮大な哲学像が描かれている。しかし、筆致がわかりやすいからといって内容がわかりやすいわけではない。これは、扱っている問題がもともと入り組んだものであることと、もともと未完成なものであるからしょうがない。哲学とは、永遠に完成しないものだということもよくわかる。
全体的に言えば、人間らしいと考えられている諸特性、たとえば「表象」とか「自由」とか「協力」とか「道徳」とかいったことがどのように進化してきたかを、生物学に依拠ししつつ、生物学では手が届かない部分まで考えようということである。お互い関連しながら進化しているところがややこしいのだけど、とりあえずはそれぞれ独立に議論されている。
最後が、ジタバタと生きようね、みたいに終わっているのも好ましい。著者は、実存主義の匂いも漂っていると言って「存在は本質に先立つ」を引用している (p.399) のだが、私もこの存在(あるいは実存あるいは現実存在)は本質に先立つという言葉が好きである。要するに、目的があるから生きているのではなくて、生きているから小さな目的を作ってみるのである。アリさんだってきっとそういうふうに生きていると思う(無論サルトルはアリさんのことを考えているわけではないが)。だから、生物学に準拠して考えると、どうしてもそんなふうになるのだという感じがする。
以下、サマリー
- 序
- 哲学が考えている対象は「ありそでなさそでやっぱりあるもの」、たとえば、「意味」である。
本書の立場は唯物論である。このとき「存在もどき」たちを唯物論に描き込むには3つの戦略があり得る。
- 還元主義:たとえば、「意味」の正体を神経細胞の発火であるとする。しかし、「意味」は、神経細胞以外でも
(たとえば電子回路でも)実現できるかもしれない。「意味」はモノレベルよりも一段抽象度の高いところで定義する必要がある。
- 存在もどきは観点に応じて現れる:「存在もどき」は、システムレベルの観点で現れてくるはず。しかし、「観点」では、
われわれの見方次第ということになって、恣意的である。
- 発生的観点:「意味」だって、この世の進化の結果湧いてきた産物である。このプロセスを再構成することで「意味」の正体を知る。
この見方では、表象能力の進化が中心的なポイントになる。本書ではこの立場を取る。
- 第1章 意味
- (1) まず、意味を理解する機械を作るにはどうしたら良いかを考える。
- 人間らしい会話ができるアルゴリズムはできるだろうか?(チューリング・テスト)
- 「イライザ」というロジャー派の精神科医を真似たアルゴリズムがある。これはけっこう医者っぽく見える。
- しかし、「イライザ」のようなアルゴリズムは形式的記号操作なので、意味を分かっていない気がする。
しかし、さりとて人間の知能もアルゴリズム的な処理を行っていないとも言えない。
- John Searle は、「中国語の部屋」という思考実験で、人工知能研究を批判した。
英語しかできない John が、英語で書かれたマニュアルを参照して中国語の質問に対して中国語で答える、というシチュエーションだ。
この場合、John は統語論を知っているだけで、意味論は知らない。そこで、アルゴリズムに従って動く計算システムは知能ではない。
- Searle の議論では、John は部屋の一部に過ぎない。意味の理解を問うべき対象は部屋全体なのではないか?と反論できる。
- Searle は、その反論に対しては、John がマニュアルを丸暗記したと考えれば良いと答える。
そのような丸暗記 John が意味を理解をしていないことは、その中国語を世界の事物や行動と結び付けられないことから分かる。
- しからば、中国語の部屋に身体を与えてロボットにし、会話するとともに行動するようにすれば、これは意味を理解していると言えるのではないか?
と考えられる。
- しかし、このようなロボットも意味を理解している気がしない。人間は主体的に問題を解決するのに対して、ロボットは問題解決を代行しているだけだからだ。
- [吉田まとめ:結局、「意味の理解」を考えようとしても、人間がどういう風に意識下で意味を処理しているのかよく分からないから、
いくら考えてもしょうがない。そこで、観点を変えないといけない。]
- [吉田疑問:「意味」から「問題解決」に行く論理が飛躍しているのではないか?]
- (2) そこで、機械が問題解決をするための条件を考える。
- 問題は、欲求充足のための課題である。欲求充足は、環境への適応である。
- そこで、機械が自分自身の問題を持つためには、(1) 環境の中で適切な行動を取らなければ死ぬ (2) 自らのプログラムを書き換えて
行動が変えられる (3) 自己複製ができる、といったことがなければいけないだろう。つまり、機械が「生き」なければならない。
- (3) 前半のまとめ:意味と目的という概念は密接に結びついている。「意味」は、生きるための活動において現れる。
- (4) 後半では、認知科学的認知観・人間観を下敷きにして、「意味」に関する問いを立て直す。
- 認知科学的認知観・人間観として古典的計算主義を紹介する。それは、以下のような考え方が合わさったものである。
(1) 表象という存在者を認める (2) 思考の言語仮説をとる (3) 認知とは、統語論的構造を持つ表象にたいする計算である
(4) 計算は意味に基づくのではなく統語論に基づく。
- 上のような認知観では、認知を統語論的計算であるとしているので、このままだとさっきの「中国語の部屋」と同じである。
そこで、「表象が意味を持つというのはどういうことか?」という問いに変えてみる。
- (5) 表象が意味を持つというのは、いかなる自然現象か?
- 意味は、解釈者がいて初めて存在する、という立場を解釈主義と呼ぶ。しかし、そうすると、解釈者の心のなかの表象を
どうするのかということになるので、この立場は取らない。
- 次に、因果意味論を考える。これは、「表象XがAを意味している」⇔「Aが、そしてAだけがXを生み出す原因である」、とするものだ。
しかし、これでは、表象間違いの不可能性、ターゲット固定問題、といった問題が発生する。
- そこで、有望な理論として Ruth G. Millikan の目的論的意味論を紹介する。
- 表象間違いの余地を残すために、表象XがAを意味する、ということを、表象Xの本来の機能がAを意味する、と読み替える。
そして、「本来の機能」の概念を自然化すればよい。
- 「本来の機能」は、進化的に有利だった、という意味だとして自然化する。
- すると、たとえば、「トムの表象Xがネズミを意味する」⇔「トムに表象Xが存在しているのは、トムの先祖においてXが
ネズミ捕食行動を引き起こすなどといった効果を果たしたことが、トムの先祖に生存上の有利さをもたらしてきたことの結果である」、
と読み替えられる。これは、ターゲット固定問題も回避している。
- 以下では、目的論的意味論に対する批判に反論してみる。
- 批判1:これで人間の持っている表象全体をとらえられるのか?⇒できるわけがない。たとえば、「ニュートリノ」。
目的論的意味論は、表象の原型であり、人間はより複雑で高度な階層の表象を持っている。
- 批判2:Pietroski の思考実験(キムとスノーフ)⇒表象の目的の汎用性の問題。
- 批判3:Fodor の批判。自然選択は外延的だが、意味は内包的。⇒意味をわれわれの言語にあてはめて考える必要はない。
- 批判4:swampman の思考実験⇒こういうのは答えなくてよい。
- [吉田疑問:ここで議論されているのは表象の「意味」というより「指示」の問題ではないか?]
- 第2章 機能
- 前章で紹介した Millikan の目的論的意味論では、「意味」は「表象」の「本来の機能」のことであった。したがって、今度は「機能」とは何かを考える。
- 「機能」は、生物や人工物によくある。Millikan は、前章と同様、機能も起源論的に説明する。したがって、機能は、それが作られた歴史無しには語ることができないということになる。
- Millikan の機能的定義は概念分析ではない。概念分析とは、哲学者の直観に基づいて概念の必要十分条件を与えることである。しかし、概念は理論の目的にかなうように作られるべきものだ。
- 「機能」によってひとくくりになった「機能カテゴリー」が持っているべき性質には以下のようなものがあるだろう。(1) 作られた目的が共有されている (2) 故障などによる機能不全がありうる。
- 「機能」については、Robert Cummins による因果役割的説明というのもある。これは、いま考えている対象を含む上位システム全体の中で、その対象が果たしている役割で定義される。
- Millikan からすると、Cummins の定義には2つの欠点がある。(1) 目的のない機能まで含まれてしまう(たとえば、雲が水循環において果たす機能) (2) 機能不全を含めるのが難しい。
- Millikan の定義にせよ Cummins の定義にせよ、めざす理論の目的にかなっているかどうかで評価されるべきである。本書の「存在もどき」を唯物論的世界観に描き込むという目的からすると、Millikan の定義の方が都合が良さそうだ。
- 第3章 情報
- ここは本文とは順序をひっくり返して、後ろの結論からまとめてゆく。まず、結論:情報内容の定義を Dretske 流に以下のようにする。
信号 r が s は F であるという情報を伝える ⇔ r という条件の下での「s が F である条件付き確率」が1である
- この定義の帰結について、以下にまとめる。
- [帰結 1] 情報を担う信号は表象でなくても良い。
- [帰結 2] この情報の概念は、解釈者がいなくても成り立つ。本書では、発生的観点で情報を語りたいので、この性質は好都合である。
- [帰結 3] ひとつの信号は複数の情報を担うことができる。たとえば、「s は長方形である」という情報は「s は正方形である」という情報に入れ子になっている。
ここで、[定義] t が G であるという情報が、s は F であるという情報に入れ子になっている ⇔ s が F であるということが t は G であるという情報も担う
- [帰結 4] 情報は因果連鎖が無いと発生しないが、情報は因果関係ではない。
- (1) 事象 s1 からでも s2 からでも信号 r が発生する場合、r が伝える情報は s1 もしくは s2 であって一意的に定まらない。
- (2) 事象 s から信号 r1, r2, r3 のいずれかが確率的に発生する場合、因果連鎖は弱いが、r1 は s という情報を伝えている。
- (3) 事象 s が信号 r1 と r2 の両方を発生させるとき、r1 は信号 r2 が発せられたという情報を持っているし、
r2 は信号 r1 が発せられたという情報を持っている。しかし、r1 と r2 とは因果的にはつながっていない。
- この定義の発展について、以下にまとめる
- 知識は情報によって生み出された信念であると考える。
すなわち、[定義] エージェントAがPということを知っている ⇔ AのPという信念がPという情報によって因果的に引き起こされた
- この定義の下敷きとして、Shannon の情報量理論がある。条件付き確率が出てくるのは、それが理由である。
そこで、情報量理論のキモをまとめておく。Shannon は、情報伝達に関心があったので、情報から意味を捨象して理論を作っているところがポイントである。
この意味を抜き去った情報を下敷きに情報の内容を定義したのが Dretske のエライところである。
- 確率 p の事象 A が実際に生起したことを伝える情報に含まれている情報量 I(A) は I(A) = - log p で与えられる。
そのココロは、珍しいニュースは情報が豊富ということである。
なぜ、対数が出てくるかというと、事象 A と事象 B をまとめて事象 C としたとき、
pA pB = pC が成り立ち、このときに
I(A) + I(B) = I(C) としたいから。
- 情報源が平均的に生み出す情報量を情報エントロピーと呼ぶ。H = - Σpk log pk
- 通信路で喪失する情報量を equivocation と呼ぶ。信号 ri を受信した時の equivocation は
E(ri) = - Σp(si|ri) log p(si|ri) で与えられる。
- 先の Dretske の定義では、信号 r が s という情報を伝えているとき p(s|r) = 1 である。
このような状態の時は E(r)=0 となる。すなわち、伝送途中での情報の損失が無い。
- [吉田疑問:「知識の哲学」第4章4では Dretske を批判しているのだが、やっぱり良いことになったのか?]
- 第4章 表象
- 本章では、あるもの「について」語るという「志向性」の問題の自然化を試みる。
- 表象には「志向性 (intentionality)」がある。志向性とは、表象それ自身以外のものを指すはたらきである。
そこで、志向性には「について性 (aboutness)」と「間違い可能性」がある。第1章の Millikan の議論では
「間違い可能性」が重視されていた。一方で、第3章の Dretske の議論では「について性」にだけ着目していた。
志向性から間違い可能性を除いたものを「志向性モドキ」と呼ぶ。
ここでは、志向性モドキから志向性が進化してくる様子を描くことを試みる。
- 「自然的記号」と「志向的記号」とを区別しよう。
自然的記号は、自然現象に含まれる情報で、たとえば、黒い雲が雨が降るだろうという情報を担っているということ。
これには間違いがない [吉田疑問:黒い雲があっても雨が降らないかもしれないから、これは良い例ではないのでは?]。
一方で、志向的記号は、正真正銘の志向性を持っていて、間違う可能性がある。
そこで、問題は、自然的記号からどのようにして志向的記号が生まれるのか?ということである。
- Dretske 流の「条件付き確率が1」はどう扱うべきだろうか?これは記号とそれが表すものが確率1で結びついているということだ。
しかし、これが普遍法則である必要は無さそうだ。それほど普遍的でなくて環境に依存していても良いという意味でローカルであっても良い。
この確率が本当に1であるという必要もなさそうだ。ある程度緩いつながりで十分に生きものの役に立つ。
かといって、たまたまではダメなので、繰り返し起こる必要はある。その程度の単なる偶然ではなさそうなつながりのある自然的記号を
Millikan は「局地的反復自然記号 (recurrent local natural sign)」と呼ぶ。
- 自然的記号に目的や機能と誤作動とが加わると、志向的記号になる、といえば単純だがそれほど単純でもない。
- Millikan は、志向的記号には、記号の生産者と消費者が必要だと強調する。
[吉田疑問:論理的には消費者を導入するメリットがあることは分かるが、一方で、生物の進化の実際の過程では
そんなに生産者と消費者が分かれていなかったというべきでは?]
- そこを強調すると、生産者はどうやって記号を生産するかはどうでもよくて、真であれば良いということになるが、
やっぱり記号を生産するシステムに信頼性が無いと使いものにならない。
- 消費者を導入しておくことの利点は、ターゲット固定問題や抽象的な表象の問題が回避できることである。
それには、志向的記号が運ぶ情報は、消費者が利用したい情報だけだということにすればよい。
消費者を導入することで、消費者が利用したい情報だけが情報だというふうに言うことができる。
- 生産者は単に自然的記号を生み出しているのではない。生産者の機能は、消費者の役に立つ表象を生み出すことであって、
その副産物として自然的記号が生み出されているのである。
- 次章では、なぜ間違い可能性が生まれたのかということを考える。
- 第5章 目的
- 間違い可能性があるということは、現実に成り立っていないことを表象できるということだ。
現実にないものの表象として、「目的・目標」がある。
- [読書会で指摘されていたこと:表象間違いは、ものごとをカテゴライズする能力ができたら発生することで(表象間違いは分類の間違えだから)、
目的ができることとは直接つながっていないのではないか?(もっと前の段階の話なのではないか?)]
- そこで、目的・目標がどのようにして自然界で形成されたかを考える。
「目的」を広い意味で捉えると、「本来の機能」まで含んでしまって、これはありふれたものになる。
そこで、ここでは、目的に適った手段をさまざまな選択肢の中から選ぶという「目的手段推論」の形成を考える。
- David Papineau は、生き物が情報を利用して行動するしくみの進化を6つの段階に分けた。その始めの3つを考える。
- 第1段階「モノトマータ」:「Rしろ」という命令だけに従う。
- 第2段階「オポチュニスト」:「もし環境条件がCならRせよ」に従う。環境条件に行動を合わせる。
- 第3段階「ニーズを持つもの」:「もし環境条件がCで内的なニーズがDならRせよ」に従う。
たとえば、「黒い小さなものが動いていて、かつお腹が減っていたら、手でつかまえる」
- ここで、第2段階や第3段階の生物が持っている表象がどんなものかということで、以下の Millikan の「オシツオサレツ表象」というのが出てくる。
[吉田註:で、おそらく、Papineau と Millikan の対応付けとしては、Papineau の第4,5段階のどこかで
オシツオサレツ表象の記述的側面と指令的側面とが分離すると考えているのだろうけれども、そのあたりは明示的には書かれていない。]
- Millikan は、原始的な志向的表象を「オシツオサレツ表象」と呼んだ。これは「ハエがいる舌を出せ」のように、
記述的側面と指令的側面が分離していない表象である。これと同様の概念として「アフォーダンス」がある。
ハエは、カエルに対して舌を出すことを「アフォードする」という言い方をする。
動物行動学では、アフォーダンスに相当するものを「解発因」と云う。
オシツオサレツ動物は、予測によって行動の組み合わせを変えることはできないし、行動の結果を次の行動にフィードバックすることもできない。
- Millikan は、オシツオサレツ表象が、記述的側面と指令的側面に分離してゆく過程を考えた。
- Step 1 : 対象の表象を分離すること。たとえば、「ネズミ」が「小さくて」「チューチュー言って」「ちょろちょろ動く」もの
であるというふうに。ただし、このステップでは、まだ指令的側面とは分離していない。このようなものを「準事実的表象」と呼ぶ。
準事実的表象には、このほかに、なわばりの「空間的配置」と、事象の「時間的随伴関係」がある。
- Step 2a : 指令面の分離。これには、未来を予測して、その予測を行動にフィードバックする、という2段階がある。
ネコの行動を見ると、前者はある程度できていても、後者は難しそうだ。後者ができるようになるためには、
目標と行動の結果とが比較できなければならない。
- Step 2b : 記述面の分離。これは、役に立つことと直接結びつかない情報を持てるということだ。
ここで、そのような情報を持つことの利点と、そのために必要な表象システムを考えよう。
- (1) 役に立たない情報を持つ利点を Daniel Dennett の心の進化のモデルから考える。Dennett は
「ダーウィン型生物→スキナー型生物→ポパー型生物」という進化の過程を考えた。ポパー型生物では、
思考実験が出来なければならない。そのためには、すぐには行動と結びつかない表象を持てる必要がある。
- (2) とりあえず使い道のない信念が持てるための表象システムの要件を考えよう。
ひとつは、いろいろな表象が一様にコード化されていることで、それによって、多くの情報を組み合わせて使うことができる。
もうひとつは、主語と述語に分節化され、否定形が作れるということで、これによって思考実験の結果をテストできる。
[吉田疑問:いまひとつ必然性がよくわからない。→読書会での一応の結論:とりあえず必要そうなことを述べてあるだけで、
必要十分条件を述べているものではない。]
- 改めて目的手段推論を定義しなおそう。目的手段推論とは、目的状態の表象(欲求表象)と事実的表象(信念表象)とを組み合わせて、
目的に適った行動を生み出すシステムである。Papineau は、目的手段推論には以下の特徴が必要だとする。
(1) 普遍的情報の表象 (2) 普遍的情報を組み合わせてあらたな普遍的情報を産出 (3) 事実的表象が客観的 (4) 推論は内容特定的ではない。
- Papineau は、目的手段推論はなにかのオマケとして進化してきたのではなく、それ自体が持つ適応的利点のために進化したのだと議論している。
- Papineau の議論の中で、目的手段推論と言語能力との関係は微妙である。言語能力には、コミュニケーション、目的手段推論などいろいろな機能がある。これらがどのような順番でどのような相互関係で進化してきたのかを考えなければならない。
普遍的情報を用いて目的手段推論をした結果は表象であって行為ではないので、直接的には淘汰が働かない。
そのような淘汰が直接的には作用しない能力がどのように進化してきたかを考えなければならないからである。答えはまだない。
- 一応の結論は、図25。言語は、まず特殊者についてのものができる(それ以前の話との関連では、ここの時点で、すでに
表象の指令面と記述面との分離はすでに完了している)。それから(なぜか←ここは本には書かれていない)普遍的情報を処理する言語もできてくる。
[読書会コメント(久木田氏):全称命題(これは普遍的情報処理言語につながる)と条件文とは深く関係している。だから、条件文の発生とも
関係しているのではないか?久木田氏による子供の観察でも関連がありそうであった。]
一方で、目的手段推論は、まずその特殊者バージョンが行動に結びついたものとして現れ、さらにそれが普遍的情報と結びついて
一人前の目的手段推論を生み出せるようになった。
- 人間は、オシツオサレツ動物に目的手段推論という拡張機能がついたものだととらえたい。
- [吉田感想:目的の進化に関して考えないといけないことのすべてが考えられているわけではない感じがする。
この章が分かりにくいのは、まだ理論が作られる途上であって完結していないためであろう。]
- [読書会コメント:著者(戸田山氏)も、目的手段推論ができるシナリオは、本当は図25よりももっといろいろな要素(たとえば道徳とか)が
からみあって生まれたのではないかと考えているようだ。しかし、それは手に余るとのこと。]
- [吉田感想:「役に立たない情報」を持つことの利点がきちんと言えれば、理学部のように役に立たない研究をしていることを
正当化できるようになるはず。]
- 第6章 自由
- 前提:ここでの立場について。
- 近代的な法体系では、刑罰は自由意志に基づく行為について課される。自由という概念は、その意味では重要である。
- 一方で、自由意志はありえないという議論もある。その代表的な形は、(1) 神学的決定論 (2) 物理学的決定論(ラプラスのデモン) (3) メカニズム決定論、である。本書では、最後のメカニズム決定論を考える。これは、われわれの心というのは、外部環境と内部状態を入力として、行為を出力とする機械だという考え方である。前の2つの決定論が世界全体に対する決定論であるのに対し、最後のものは心に対してのみの決定論である。
- 自由と決定論の関係には、それが両立しないとする非両立論と両立するという両立論(ソフトな決定論)とがある。非両立論には、自由意志は幻想だとするハードな決定論と、心に対する決定論が誤りだとするリバタリアニズムがある。本書では主に両立論を追求する。ただし、次章では、ハードな決定論を取った場合の道徳についても考える。
- Dennett の議論の方針と特徴
- ここでは、Dennett の議論を追う。その特徴は、(1) 自然主義的であること (2) 自己のつくられ方とからめて議論していること (3) 自由があるためには決定論が必要だと議論すること (4) 改訂的だということ、である。
- 行為の究極原因は行為者の中にないといけないとするリバタリアン(たとえば Chisholm)がいる。そこまで言うと決定論はありえない。Dennett は、自由意志の概念をもう少し安上がりにした上で、決定論と両立させることを試みる。そして、さらに進んで、そのような自由意志こそが、われわれに必要なのだと論じる。
- Dennett の議論の前提
- 自由には、他行為可能性と自己コントロールという2つの概念がある。
- 量子力学の確率性を自由意志の起源だと考える向きもある。しかし、単なるサイコロのようなはたらきは、他行為可能性はあっても、自己コントロールできていないという意味で自由意志とはいえない。
- そこで、自由意志は自己コントロール能力のことだと考える。自己コントロールは、テキトーに行われるものでもなく、外部環境に無関係になされるものでもない。
- 自己コントロールとしての自由
- 自己コントロールは、自己の目的を達成するためになされる。
- 決定論は自由意志概念をおびやかすものではない。決定論は、外部環境と内部状態が行為を決定するというものであった。外部環境には欲求や目的がないので、外部環境にコントロールされたとは言わない。依存症のようなものは、内部メカニズムの故障というべきである。
- [戸田山読書会コメント:NASA の探査機は自己コントロールしているのではない。それは、目的を持っているのが探査機ではなくて NASA の人だからだ。もし、NASA の組織と人と探査機を一体として考えると、自己コントロールがあるとみなすこともできる。エージェントをどこで区切るかは見方次第。]
- 目的に導かれた行為はあらゆる生物が行っている。そのような行為をデザインできるのは、世界が因果的に決まっているからだ。
- [戸田山読書会コメント:自己コントロールが成り立つためには、おおむね決定論が成り立っていないといけない。決定論が成り立っていないと、自分が思ったようにものごとが起こらなくなって困る。コントロールが可能ということは、決定論がおおむね成り立っているということである。]
- したがって、程度の違いはあれあらゆる生物に自由がある。
- 人間の特徴は、自らの行為の理由を知ることができるということだ。これは、人間が目的を表象できるようになった結果である。
- 私たちは目的手段推論によって、自らの行為を予め検討できる。決定論的な世界でも、検討は違いをもたらす。[吉田注:ここは、ラプラスのデモン的な決定論ではないことに注意する。]
- [戸田山読書会コメント:宿命論は、仮にちょっと違ったほかのことが起こったとしても、結果が変わらない、とする。
いいかえると、可能性のアンサンブルが一つに収束する。
単なる決定論では、仮にちょっと違ったほかのことが起こったとすると、結果が変わる。]
- 他行為可能性と自由
- 他行為可能性と決定論とは確かに相容れない。しかし、他行為可能性は自由や責任にとって必要がない。
- [読書会ツッコミ:Frankfurt の例は「行為の自由」に関すること。これと「意思の自由」とは区別しないといけないのだが、
この本では少し書き方が混乱している(戸田山)。Frankfurt の議論はあまり良くないかもしれない。もしそうなら、
別の議論を考えないといけない (戸田山)。]
- 起こることが決まっているのだけれども、有限の行為者である私たちには、それを知ることができない。
そのなかで、よく考えることは無駄ではない。決定論であったとしても、検討も確率は有用である。
- 過去の間違いから学んで未来に生かすことはできる。Dennett によれば、これこそが他のようにすることもできた能力としての自由である。言い換えると、経験に基づいて自己を再プログラムできる。
- [吉田註:読書会で、自由には「意志の自由」と「行為の自由」があるということを知った。責任のような話になると、両方が関係しているから話がややこしいようだ。自己コントロールは、意志と行為のセットだし、他行為可能性も、意志と行為のセットである。]
- [吉田感想:子供を見ていると、親の言うことを聞かずに「遊びたい」と言って遊ぶのが自由意志の始まりのような気がする。一方で、遊びは「目的」というほど大げさなものでもない。そのへんがまだちょっと腑に落ちない。]
- 第7章 道徳
- 責任ある主体とは
- 科学衛星「はやぶさ」は決定論的な自己コントローラーだから、前章の意味では、自由がある。しかし、責任ある主体ではない。
- 人間は、言語による反省的検討によって自己づくりができる。われわれは、子供の頃は責任ある主体ではないが、自己を作り上げてゆくことで、だんだんと責任ある主体になってゆく。
- 自己は、実体というよりは組織化のされ方である。自己は、物語がつくっている。Dennett は、これを「物語的自己」と呼ぶ。[吉田感想:組織化と物語の関係は必ずしも明確でないように思える。]
- 物語によって造られてきた自己は、ある程度首尾一貫した行動を取る。このような自己が為した行為が責任ある行為とよばれる。
- 責任があるとみなすよい理由があるときに、人には自由があったのだと判断される。
- 責任を取るという実践の進化
- Dennett は、責任を取るという実践は次のように進化してきたと考える。(1) 協力(互恵的利他行動)の進化 (2) 罰によって協力を強いる実践の発達 (3) 裏をかいたりそれを見破ったりする競争の出現 (4) 善い人間になるような自己再プログラミングの進化(自己づくりの原点)
- 上の (4) のような自己コントロールができるためには、なぜそういうことをやったのかを尋ねたり、それに答えたりするような言語共同体に属していることが必要である。
- 以上のような Dennett の説明だと、自由は社会が作った共同幻想だという立場に近いことになる。Dennett は幻想と解釈されることを嫌ってはいるが、著者は不満である。
- Dennett は、われわれは事実の問題としてどれくらい自由なのかという問いには答えていない。そこで、以下では、自由がなかったら道徳はどうなるのかを考える。
- Pereboom による、自由意志無き世界
- Pereboom は、ハード非両立論という立場を取る。それによると、われわれの行為は、外部から決定されているか、ランダムであるか、それらの混合であるかである。したがって、自由意志や責任は無い。自由意志は無いが責任はあるという立場もありうるが、Pereboom は責任も捨てる。
- すると、非難や賞賛に値するということは無くなる。
- では、残るものは何か?われわれは、合理的行為者であり、熟慮に基づき検討するということは残る。検討してから行為することは、この世に影響を与える。
- 行為の善悪や正不正の区別は、帰結主義的な意味で残る。人格の善し悪しも残る。「人間を手段として扱わない」というカントの定言命法も残る。これらは、自由と責任という概念に依拠していない。
- Pereboom の立場では、罰は正当化されない。悪事を犯した者に対して社会ができることは隔離である。それから、場合によっては犯罪者の治療もできる。
- 自由意志無き世界はディストピアではない。責任は無いけれども、市民的自由は保障されているという世界は、そんなに悪くはない。むしろ、自由意志という考え方から、過度の自己責任論が出てくることに警戒すべきである。
- 人生の意味ーむすびにかえて
- 自由意志は無くてもかまわない、人生に究極の目的などない、人生はそもそも無意味だ。それらを受け入れて、ジタバタと少しずつ自己を作っていくことが人生の意味であろう。
気になった点
- p.152 「マルコフ過程」
- 「こういうシステムをマルコフ過程という」と書かれている割に、どういうシステムのことかきちんと書かれていない。
本来は、未来の挙動が現在の状態だけから決まる確率過程のことのはずだが、確率過程のことも書かれていないし、
「現在の状態」のことも書かれていない。