哲学入門

戸田山和久 著
ちくま新書 1060、筑摩書房
刊行:2014/03/10、刷:2014/03/10(第1刷)
著者から頂戴した
読了:2014/11/03

戸田山さんらしい「哲学とは何か」である。わかりやすい筆致で壮大な哲学像が描かれている。しかし、筆致がわかりやすいからといって内容がわかりやすいわけではない。これは、扱っている問題がもともと入り組んだものであることと、もともと未完成なものであるからしょうがない。哲学とは、永遠に完成しないものだということもよくわかる。

全体的に言えば、人間らしいと考えられている諸特性、たとえば「表象」とか「自由」とか「協力」とか「道徳」とかいったことがどのように進化してきたかを、生物学に依拠ししつつ、生物学では手が届かない部分まで考えようということである。お互い関連しながら進化しているところがややこしいのだけど、とりあえずはそれぞれ独立に議論されている。

最後が、ジタバタと生きようね、みたいに終わっているのも好ましい。著者は、実存主義の匂いも漂っていると言って「存在は本質に先立つ」を引用している (p.399) のだが、私もこの存在(あるいは実存あるいは現実存在)は本質に先立つという言葉が好きである。要するに、目的があるから生きているのではなくて、生きているから小さな目的を作ってみるのである。アリさんだってきっとそういうふうに生きていると思う(無論サルトルはアリさんのことを考えているわけではないが)。だから、生物学に準拠して考えると、どうしてもそんなふうになるのだという感じがする。


以下、サマリー
哲学が考えている対象は「ありそでなさそでやっぱりあるもの」、たとえば、「意味」である。 本書の立場は唯物論である。このとき「存在もどき」たちを唯物論に描き込むには3つの戦略があり得る。
  1. 還元主義:たとえば、「意味」の正体を神経細胞の発火であるとする。しかし、「意味」は、神経細胞以外でも (たとえば電子回路でも)実現できるかもしれない。「意味」はモノレベルよりも一段抽象度の高いところで定義する必要がある。
  2. 存在もどきは観点に応じて現れる:「存在もどき」は、システムレベルの観点で現れてくるはず。しかし、「観点」では、 われわれの見方次第ということになって、恣意的である。
  3. 発生的観点:「意味」だって、この世の進化の結果湧いてきた産物である。このプロセスを再構成することで「意味」の正体を知る。 この見方では、表象能力の進化が中心的なポイントになる。本書ではこの立場を取る。
第1章 意味
(1) まず、意味を理解する機械を作るにはどうしたら良いかを考える。
(2) そこで、機械が問題解決をするための条件を考える。
(3) 前半のまとめ:意味と目的という概念は密接に結びついている。「意味」は、生きるための活動において現れる。
(4) 後半では、認知科学的認知観・人間観を下敷きにして、「意味」に関する問いを立て直す。
(5) 表象が意味を持つというのは、いかなる自然現象か?
第2章 機能
前章で紹介した Millikan の目的論的意味論では、「意味」は「表象」の「本来の機能」のことであった。したがって、今度は「機能」とは何かを考える。
第3章 情報
ここは本文とは順序をひっくり返して、後ろの結論からまとめてゆく。まず、結論:情報内容の定義を Dretske 流に以下のようにする。
信号 r が s は F であるという情報を伝える ⇔ r という条件の下での「s が F である条件付き確率」が1である
この定義の帰結について、以下にまとめる。
この定義の発展について、以下にまとめる
この定義の下敷きとして、Shannon の情報量理論がある。条件付き確率が出てくるのは、それが理由である。 そこで、情報量理論のキモをまとめておく。Shannon は、情報伝達に関心があったので、情報から意味を捨象して理論を作っているところがポイントである。 この意味を抜き去った情報を下敷きに情報の内容を定義したのが Dretske のエライところである。
[吉田疑問:「知識の哲学」第4章4では Dretske を批判しているのだが、やっぱり良いことになったのか?]
第4章 表象
本章では、あるもの「について」語るという「志向性」の問題の自然化を試みる。
次章では、なぜ間違い可能性が生まれたのかということを考える。
第5章 目的
間違い可能性があるということは、現実に成り立っていないことを表象できるということだ。 現実にないものの表象として、「目的・目標」がある。
[読書会で指摘されていたこと:表象間違いは、ものごとをカテゴライズする能力ができたら発生することで(表象間違いは分類の間違えだから)、 目的ができることとは直接つながっていないのではないか?(もっと前の段階の話なのではないか?)]
そこで、目的・目標がどのようにして自然界で形成されたかを考える。 「目的」を広い意味で捉えると、「本来の機能」まで含んでしまって、これはありふれたものになる。 そこで、ここでは、目的に適った手段をさまざまな選択肢の中から選ぶという「目的手段推論」の形成を考える。
[吉田感想:目的の進化に関して考えないといけないことのすべてが考えられているわけではない感じがする。 この章が分かりにくいのは、まだ理論が作られる途上であって完結していないためであろう。]
[読書会コメント:著者(戸田山氏)も、目的手段推論ができるシナリオは、本当は図25よりももっといろいろな要素(たとえば道徳とか)が からみあって生まれたのではないかと考えているようだ。しかし、それは手に余るとのこと。]
[吉田感想:「役に立たない情報」を持つことの利点がきちんと言えれば、理学部のように役に立たない研究をしていることを 正当化できるようになるはず。]
第6章 自由
  1. 前提:ここでの立場について。
    • 近代的な法体系では、刑罰は自由意志に基づく行為について課される。自由という概念は、その意味では重要である。
    • 一方で、自由意志はありえないという議論もある。その代表的な形は、(1) 神学的決定論 (2) 物理学的決定論(ラプラスのデモン) (3) メカニズム決定論、である。本書では、最後のメカニズム決定論を考える。これは、われわれの心というのは、外部環境と内部状態を入力として、行為を出力とする機械だという考え方である。前の2つの決定論が世界全体に対する決定論であるのに対し、最後のものは心に対してのみの決定論である。
    • 自由と決定論の関係には、それが両立しないとする非両立論と両立するという両立論(ソフトな決定論)とがある。非両立論には、自由意志は幻想だとするハードな決定論と、心に対する決定論が誤りだとするリバタリアニズムがある。本書では主に両立論を追求する。ただし、次章では、ハードな決定論を取った場合の道徳についても考える。
  2. Dennett の議論の方針と特徴
    • ここでは、Dennett の議論を追う。その特徴は、(1) 自然主義的であること (2) 自己のつくられ方とからめて議論していること (3) 自由があるためには決定論が必要だと議論すること (4) 改訂的だということ、である。
    • 行為の究極原因は行為者の中にないといけないとするリバタリアン(たとえば Chisholm)がいる。そこまで言うと決定論はありえない。Dennett は、自由意志の概念をもう少し安上がりにした上で、決定論と両立させることを試みる。そして、さらに進んで、そのような自由意志こそが、われわれに必要なのだと論じる。
  3. Dennett の議論の前提
    • 自由には、他行為可能性と自己コントロールという2つの概念がある。
    • 量子力学の確率性を自由意志の起源だと考える向きもある。しかし、単なるサイコロのようなはたらきは、他行為可能性はあっても、自己コントロールできていないという意味で自由意志とはいえない。
    • そこで、自由意志は自己コントロール能力のことだと考える。自己コントロールは、テキトーに行われるものでもなく、外部環境に無関係になされるものでもない。
  4. 自己コントロールとしての自由
    • 自己コントロールは、自己の目的を達成するためになされる。
    • 決定論は自由意志概念をおびやかすものではない。決定論は、外部環境と内部状態が行為を決定するというものであった。外部環境には欲求や目的がないので、外部環境にコントロールされたとは言わない。依存症のようなものは、内部メカニズムの故障というべきである。
    • [戸田山読書会コメント:NASA の探査機は自己コントロールしているのではない。それは、目的を持っているのが探査機ではなくて NASA の人だからだ。もし、NASA の組織と人と探査機を一体として考えると、自己コントロールがあるとみなすこともできる。エージェントをどこで区切るかは見方次第。]
    • 目的に導かれた行為はあらゆる生物が行っている。そのような行為をデザインできるのは、世界が因果的に決まっているからだ。
    • [戸田山読書会コメント:自己コントロールが成り立つためには、おおむね決定論が成り立っていないといけない。決定論が成り立っていないと、自分が思ったようにものごとが起こらなくなって困る。コントロールが可能ということは、決定論がおおむね成り立っているということである。]
    • したがって、程度の違いはあれあらゆる生物に自由がある。
    • 人間の特徴は、自らの行為の理由を知ることができるということだ。これは、人間が目的を表象できるようになった結果である。
    • 私たちは目的手段推論によって、自らの行為を予め検討できる。決定論的な世界でも、検討は違いをもたらす。[吉田注:ここは、ラプラスのデモン的な決定論ではないことに注意する。]
    • [戸田山読書会コメント:宿命論は、仮にちょっと違ったほかのことが起こったとしても、結果が変わらない、とする。 いいかえると、可能性のアンサンブルが一つに収束する。 単なる決定論では、仮にちょっと違ったほかのことが起こったとすると、結果が変わる。]
  5. 他行為可能性と自由
    • 他行為可能性と決定論とは確かに相容れない。しかし、他行為可能性は自由や責任にとって必要がない。
    • [読書会ツッコミ:Frankfurt の例は「行為の自由」に関すること。これと「意思の自由」とは区別しないといけないのだが、 この本では少し書き方が混乱している(戸田山)。Frankfurt の議論はあまり良くないかもしれない。もしそうなら、 別の議論を考えないといけない (戸田山)。]
    • 起こることが決まっているのだけれども、有限の行為者である私たちには、それを知ることができない。 そのなかで、よく考えることは無駄ではない。決定論であったとしても、検討も確率は有用である。
    • 過去の間違いから学んで未来に生かすことはできる。Dennett によれば、これこそが他のようにすることもできた能力としての自由である。言い換えると、経験に基づいて自己を再プログラムできる。
[吉田註:読書会で、自由には「意志の自由」と「行為の自由」があるということを知った。責任のような話になると、両方が関係しているから話がややこしいようだ。自己コントロールは、意志と行為のセットだし、他行為可能性も、意志と行為のセットである。]
[吉田感想:子供を見ていると、親の言うことを聞かずに「遊びたい」と言って遊ぶのが自由意志の始まりのような気がする。一方で、遊びは「目的」というほど大げさなものでもない。そのへんがまだちょっと腑に落ちない。]
第7章 道徳
  1. 責任ある主体とは
    • 科学衛星「はやぶさ」は決定論的な自己コントローラーだから、前章の意味では、自由がある。しかし、責任ある主体ではない。
    • 人間は、言語による反省的検討によって自己づくりができる。われわれは、子供の頃は責任ある主体ではないが、自己を作り上げてゆくことで、だんだんと責任ある主体になってゆく。
    • 自己は、実体というよりは組織化のされ方である。自己は、物語がつくっている。Dennett は、これを「物語的自己」と呼ぶ。[吉田感想:組織化と物語の関係は必ずしも明確でないように思える。]
    • 物語によって造られてきた自己は、ある程度首尾一貫した行動を取る。このような自己が為した行為が責任ある行為とよばれる。
    • 責任があるとみなすよい理由があるときに、人には自由があったのだと判断される。
  2. 責任を取るという実践の進化
    • Dennett は、責任を取るという実践は次のように進化してきたと考える。(1) 協力(互恵的利他行動)の進化 (2) 罰によって協力を強いる実践の発達 (3) 裏をかいたりそれを見破ったりする競争の出現 (4) 善い人間になるような自己再プログラミングの進化(自己づくりの原点)
    • 上の (4) のような自己コントロールができるためには、なぜそういうことをやったのかを尋ねたり、それに答えたりするような言語共同体に属していることが必要である。
    • 以上のような Dennett の説明だと、自由は社会が作った共同幻想だという立場に近いことになる。Dennett は幻想と解釈されることを嫌ってはいるが、著者は不満である。
    • Dennett は、われわれは事実の問題としてどれくらい自由なのかという問いには答えていない。そこで、以下では、自由がなかったら道徳はどうなるのかを考える。
  3. Pereboom による、自由意志無き世界
    • Pereboom は、ハード非両立論という立場を取る。それによると、われわれの行為は、外部から決定されているか、ランダムであるか、それらの混合であるかである。したがって、自由意志や責任は無い。自由意志は無いが責任はあるという立場もありうるが、Pereboom は責任も捨てる。
    • すると、非難や賞賛に値するということは無くなる。
    • では、残るものは何か?われわれは、合理的行為者であり、熟慮に基づき検討するということは残る。検討してから行為することは、この世に影響を与える。
    • 行為の善悪や正不正の区別は、帰結主義的な意味で残る。人格の善し悪しも残る。「人間を手段として扱わない」というカントの定言命法も残る。これらは、自由と責任という概念に依拠していない。
    • Pereboom の立場では、罰は正当化されない。悪事を犯した者に対して社会ができることは隔離である。それから、場合によっては犯罪者の治療もできる。
    • 自由意志無き世界はディストピアではない。責任は無いけれども、市民的自由は保障されているという世界は、そんなに悪くはない。むしろ、自由意志という考え方から、過度の自己責任論が出てくることに警戒すべきである。
人生の意味ーむすびにかえて
自由意志は無くてもかまわない、人生に究極の目的などない、人生はそもそも無意味だ。それらを受け入れて、ジタバタと少しずつ自己を作っていくことが人生の意味であろう。

気になった点
p.152 「マルコフ過程」
「こういうシステムをマルコフ過程という」と書かれている割に、どういうシステムのことかきちんと書かれていない。 本来は、未来の挙動が現在の状態だけから決まる確率過程のことのはずだが、確率過程のことも書かれていないし、 「現在の状態」のことも書かれていない。