いろいろ知らないこともあった。 たとえば、多面多臂の仏像の起源はヒンドゥー教だとか、木彫仏の起源は鑑真の来日にあるとかいったことである。 仏像には、いろいろな文化が混ざり合っているのだということが良く分かる。 以下にサマリを書いておく。
アーリア人が紀元前 1500 年ころインドに入ってきてから、バラモン教ができた。バラモン教の特色は、輪廻思想とカースト制度である。 バラモン教の輪廻思想では、人が次に生まれ変わる境涯を「天界」「人間」「畜生」「餓鬼」「地獄」の5種類とした(五趣、五道)。 仏教のお釈迦様は、紀元前 500 年ころの人である。釈迦入滅後 100 年ほどで、仏教は上座部と大乗仏教とに分裂した。 紀元前 3 世紀のマウリア朝が初めての仏教国家である。紀元 1~3 世紀ころのクシャン朝のカニシカ王が仏教に帰依して仏教を保護した。 仏像が作られたのは、紀元 1~2 世紀ころ、そのクシャン朝のガンダーラやマトゥラーにおいてである。 インドの仏教は、8 世紀以降のイスラム教徒の侵攻によって衰えた。中国の仏教がさかんだったのは、3~9 世紀ころで、北魏や唐などで栄えた。 日本に仏教が伝わったのは、北魏→新羅の北ルートと、六朝→百済の南ルートがある。北ルートの信仰は弥勒信仰が代表的で、 南ルートの信仰は釈迦・観音信仰が代表的である。日本で初めて本格的な仏像が造られたのは、606 年の飛鳥大仏とされる。
仏教の輪廻思想は「六道輪廻」である。まず、輪廻界の上に、輪廻から解脱した如来や菩薩の住む仏界がある。 その下の六道輪廻界には、バラモン教の五趣に修羅道が加えられて六道になっている。六道は、天、人、修羅の善趣と、 畜生、餓鬼、地獄の悪趣とに分かれている。修羅道を治めるのは、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(阿修羅)であるといわれている。
今日は、京都の三十三間堂を訪ねて、そこで観音さんを護っている二十八部衆を見てゆく。
天部の神々は古代インドのバラモン教の神々が元となっているものが多い。 バラモン教は、紀元前5~4世紀ころ仏教に圧されて変質し民間信仰を取り入れながらヒンドゥー教になっていった。バラモン教の主な神は、ブラフマー(創造神)、アグニ(地の神)、スールヤ(天の神)、インドラ(武闘神)である。ヒンドゥー教の主な神は、ブラフマー(創造神)、ヴィシュヌ(太陽神、維持発展の神)、シヴァ(破壊神)である。 仏教においては、ブラフマーは梵天に、インドラは帝釈天、シヴァの化身マハーカーラは大黒天、 ヴァイシュラヴァナ(もしくはヴィシュヌ)は毘沙門天になる。 ヴィシュヌの妻ラクシュミー(富と幸運の女神)は吉祥天(もしくは大弁功徳天)、ブラフマーの妻サラスヴァティは弁財天になる。 シヴァの息子ガネーシャは歓喜天である。
天部の住民も六道輪廻からは逃れられない。天の住人の老いによる衰えを「天人五衰」と言う。 天の神々も菩薩に救いを求める。
日本の仏像の天部の神々の衣装は、中国の南北朝から唐時代のものである。
阿修羅は八部衆の一員である。 八部衆は、法華経の中では、人ではない(非人)と紹介されている。 釈迦は、心の闇に出てきた魔物を調伏して(降魔成道)、悟りを開いた。この魔物が八部衆となった。
八部衆のメンバーは、経典によって諸説ある。 『法華経』第三「譬喩品」や『金光明最勝王経』(金光明経)等に基づけば、 天・龍・夜叉・阿修羅・乾闥婆(けんだつば)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)である。 興福寺の八部衆は少し違っていて、 五部浄(ごぶじょう;天に相当)・沙羯羅(さから)・鳩槃荼(くばんだ;夜叉に相当)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・ 迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・畢婆迦羅(ひばから)である。
二十八部衆は、千手観音の侍者。八部衆の神のほとんどが含まれている。
中国の鬼(キ)と日本のオニとはだいぶん性格が異なる。
番組では、願成就院(静岡県伊豆の国市)の毘沙門天の足下にいる邪鬼、法隆寺(奈良県斑鳩町)金堂の四天王の足下にいる邪鬼、興福寺の天燈鬼、龍燈鬼を見る。
釈迦如来(お釈迦様)は、古代北インドのカピラ王国の王子ゴータマ•シッダールタ。生まれてすぐに七歩歩き、 「天上天下唯我独尊」と言ったとされる。釈迦は、城の外の人々が苦しむ様子を見て思い悩む。29歳で出家。 6年間の苦行ののち、ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開き(大悟)、仏陀(悟りを開いた者)となる。 サールナート(鹿野苑)で最初の説法をする(初転法輪)。その後、仏教教団が出来る。お釈迦様は食中毒で亡くなる。
仏像ができたのは、ギリシャ文明の影響で、ガンダーラ地方。同じ頃、北インドのマトゥラーでも仏像制作が始まる。 仏像はシルクロードに沿って中国からやがて日本へと伝わる。
番組では、法隆寺で、釈迦三尊像、百済観音像を見る。釈迦三尊像は厚手の衣、百済観音像は薄手の衣をまとっている。 華北の様式(北魏様式)が新羅経由で、華南の様式(六朝様式)が百済経由で伝わったせいだと考えられている。
多面多臂のほとけは密教の影響である。 密教は、ヒンドゥー教の影響を受けてインドで成立した。 密教では、ヒンドゥー教の影響を受けた「法華経」が重視される。 7世紀ころの唐では密教(とくに中期密教)が伝わって流行ってきていた。 これが、まず遣唐使(たとえば、玄昉)を通じて天平時代の日本に伝わった。 最初に伝わったのは、個別の仏像に対する信仰で、これを「雑密」という。 平安時代には、空海が体系的な真言密教をもたらした。
観音菩薩と明王が多面多臂になることが多いので、それらで見てゆく。
平安時代中期になると角材一木造りが出てきた。これは、体幹は四角く製材した木から作り、これに腕などを枘(ほぞ)で組み合わせてゆく。
平安時代後期には、定朝 (-1057) が現れ、寄木造りを完成させた。これによって大きな仏像が作れるようになった。 木としても建築材料であった檜が使われるようになった。 背景には阿弥陀信仰の広がりがあった。同じ阿弥陀像を複数個並べるのが流行し、大量の需要がでてきた。 このような大量の需要を支えたのが寄木造りであった。部材ごとに分業して製作することで、品質の保たれた仏像を大量生産できるようになった。 そして、定朝様式は、その後の日本の仏像のスタンダードになった。
その後、院派が定朝様式を継承した。円派はそれにやや力強さや大胆さを加えた。応仁の乱などで多くの仏像が焼けた後で、 鎌倉時代には慶派が新しい写実主義の仏像を作り出した。院派、円派、慶派はすべて、出自は定朝工房につながる。
「光背」は、オーラのこと。キリスト教の図像にもある。仏像を作る立場からすると、本体より光背の方が手間がかかる。 たとえば、東大寺法華堂の不空羂索観音像には、放射光背と呼ばれる光の筋がある。頭上は宝冠が華やかに彩っている。 これも荘厳である。できたときには、周辺の仏像は極彩色に彩られていたと言う。 紺丹緑紫(こんたんりょくし)を隣り合わせて配色することできらびやかに描いている。
お堂の中を飾るのを堂内荘厳という。たとえば、法隆寺金堂は、堂内全体で仏国土を表現しようとしている。 壁画の傑作に阿弥陀浄土図がある。ただし、金堂は昭和24年に修理中に漏電による火災で焼けており、今の金堂にあるのは模写されたもの。