写楽の深層
秋田巌 著
NHK ブックス 1213、NHK 出版
刊行:2014/02/20(第1刷)
福岡天神のジュンク堂書店福岡店で購入
読了:2015/03/25
NHK カルチャーラジオで「写楽は何を描こうとしたのか~夢判断からのアプローチ」という番組が 2015 年 1~3 月に放送された。
放送テキストは無いのだが、実質的に本書がテキストのようなものであった。そこで、放送を聴きながら、本書を読んでゆくことにした。
面白いと言えば面白いが、深層心理学の怪しげな雰囲気も満載である。変テコな隠喩みたいな話が多くて、私にはついていけない。
話の進め方も、実証的では全くなく、直感的で、散漫なところが多い。
本書の最も重要なところは第6章(放送では第9回)で、ここで写楽画の変遷に対する解釈がまとめて述べられている。
本書はここだけ読めば十分である。ここでは、写楽画の変化を、苦悩から脱却するための絵画療法であったと見ている。
それはそれである程度納得できるのだが、しかし、私が解せないのは、最初写楽がそのように精神的に追い詰められていたとすると、
なぜ蔦屋重三郎はそんな人が書いた絵をわざわざ出版しようと思ったのかということだ。しかも、タイミングとしても、
写楽に精神的打撃を受けたときからちょうど始まるようにである。
個人的に描かれた絵の解釈だとすればよくわかるのだが、商業ベースの絵を自己絵画療法に使ったりするのかなあということが疑問として残る。
それ以外のところでは、著者の思いがいろいろ綴られているのだが、その根拠がよくわからない。どのくらい
精神分析家としての体験に基づいているのか、単なる直感なのか、さっぱりわからない。
たとえば、第3章(放送では第3回)では、「奴江戸兵衛」の「奴」を取ってはいけないと盛んに主張するのだが、
根拠が薄弱で、私から見ればそんなに主張するようなことではないだろうという感じが最後までぬぐえなかった。
写楽でネット検索をしていたら、
永井俊哉氏による写楽の正体に関する詳しい考察を見つけた。ここでも引用されているが、本としては
中野三敏「写楽―江戸人としての実像」、内田千鶴子の著書(数冊ある)などが定番のようで、
写楽は阿波の能役者の斎藤十郎兵衛ということで間違いないとのこと。で、その前提で、写楽が短期間で消えた理由として
- 役者をリアルに描いたので、役者から嫌われた。そのため役者を芝居前にデッサンすることが出来なくなった
- 絵があまり売れなかった
- 戻るべき本業があるので、あっさりとやめることができた。その上、歌舞伎役者は卑しいと見なされていたので、
それを描いていたのがバレると本業が首になるおそれがあった。
といったことが挙げられている。これに比べると、本書の解釈は穿ち過ぎという感じがする。
本書+放送のサマリー
本書と放送のサマリーが混ざっているので、本書と書いたり本講座と書いたりする。統一はしない。
放送第1回 「包み紙」として海を渡った浮世絵の衝撃/本書 はじめに、序章 写楽との出会い (pp.7-23)
- 写楽は謎の絵師である。1794 年 5 月に、大首絵をひっさげて忽然と登場し、わずか 10 カ月間の活動の後、忽然と消えた。
- 本講座では、写楽の正体探しはせず、写楽の精神分析を試みる。
- 2011 年の NHK スペシャル「浮世絵ミステリー 写楽~天才絵師の正体を追う~」の制作にあたって、写楽の深層心理分析を依頼された。
写楽の絵をいろいろ見てみたところ、写楽の心が一瞬にしてつかめた気がした。
そこで考えたことはテレビの取材では十分に表現できなかったので、本書を書いた。
- 一般的な写楽の評価によれば、第1期が一番素晴らしく、だんだん質が落ちてきたとされる。
しかし、深層心理学的に見ると、別の見方ができる。それを本講座で紹介する。
- 写楽は、自己絵画療法のプロセスとしてとらえることができて、自己絵画療法の成功例と見ることができる。
自己絵画療法と言ったのは、治療者(カウンセラー)なしに絵画療法を行ったという意味である。
- 著者の解釈では、写楽は大首絵によって自分自身を描いた、すなわち自画像を描いたのである。
放送第2回 写楽との出会い―突如として現れた写楽/本書 序章 写楽との出会い、第1章 写楽、降臨 (pp.23-39)
- 本講座では、写楽の正体探しは行わない。写楽の版画から、彼が一体何を為したのかを深層心理学の立場から分析する。
- 写楽はなぜ消えたのか?が説くべき謎である。
- 深層心理学的分析は、主観的に行われる。それがどれだけ説得力を持つか?
- キリスト、仏陀、ソクラテス、孔子は「大いなる治療輪」の中に入った。大きなものを知ることは治療の核である。
大きな流れに抗(あらが)いつつ従うときに自己は輝く。[吉田感想:このあたり、いかにも深層心理学の怪しげな雰囲気が漂うので、他にもいろいろ言っているが、まとめ不能。]
- 写楽の正体は、阿波の能役者の斎藤十郎兵衛だという説が最も有力である。しかし、諸説あって本当のところはわからない。
本書 第1章 写楽、降臨、第2章 「初回画」をめぐって(pp.39-76)
- 写楽は、自分自身で絵画療法を行った。これを自己絵画療法と呼ぼう。
- ユング派深層心理分析では、夢分析が重要視される。とくに、分析初期に見る夢のうち重要なものを初回夢といい、分析過程全体を予見するような内容を含んでいる。
- 写楽の絵の中で初回夢に相当するものは「初代大谷徳次の奴袖助」である。これを「初回画」と呼ぶことにする。「奴袖助」の握りしめられた拳は、「よし、やるぞ!」という絵画療法への意思表示であるとともに「俺はやったぞ」という絵画療法の成功を予見させるものである。
- 「奴袖助」の着物の紋の「徳」の字は、エートスを表していると見られる。これと短期集中型の画業というパトスのぶつかり合いがある。あるいは、絵の中にも、握られた拳というパトスと穏やかな表情というエートスが同居している。
放送第3回 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」―「奴」に関して/本書 第3章 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」―「奴」に関して(pp.77-96)
- 三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛は写楽の代表作である。江戸兵衛は、これから金を奪おうとするところである。
- 浅野秀剛は、「奴」は「武家の奴僕」という意味だから、「奴」を付けるべきではないと主張している。江戸兵衛は、非人の頭であると見られる。しかし、「奴」には「身分の賤しい人」という意味もあるので、わざわざ外す必要も無いのではないか。長い間使われたタイトルを捨てるには及ばない。
- 著者は、役者絵は写楽の自画像であると考えている。
放送第4回 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」―「手」に関して/本書 第4章 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」―「手」に関して(pp.97-116)
- 「奴江戸兵衛」の絵においては「手」がポイント。
- この「手」は下手だと評価されることが多い。版画家の故・池田満寿夫は、手は素人が描いた下手なものだと言っている。
それでも迫力があると評している。写楽研究家の浅野秀剛も、下手だが魅力があるとしている。
しかし、著者は、この「手」は意図的だったのだと考える。
- 島田荘司の小説『写楽 閉じた国の幻』では、「写楽は千分の一秒の高速シャッターを持っているんです」と表現されている。
これから悪事を働こうとする人間の尋常ではない決心がこの手に閉じ込められているのではないか。
放送第5回 「歪む」ということ―絶対絶妙のアンバランス/本書 第4章 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」―「手」に関して(pp.116-128)
- 名作の本質を明確に表現するのは難しい。
- 「奴江戸兵衛」の手には、抑圧や鬱屈が感じられる。襲おうとするエネルギーと踏みとどまろうとする自制のせめぎあいがある。
- 「奴江戸兵衛」の手は、六本目の指があった方がバランスが取れるような形をしている。
写楽自身の闘いが奴江戸兵衛の手に表現されているのではないか。
- 「奴江戸兵衛」には、歪み、アンバランス、欠落と過剰がある。
- 著者は、Disfigured Hero という言葉を造った。これは、傷という欠落が存在を高みに押し上げている者のことである。
代表例は「ブラック・ジャック」である。写楽も、苦しみの中で、破格の自立をした。
放送第6回 「歪み」から「Disfigured Hero 元型」へ
- 「Hero 元型」は、旅する王子が龍と闘ってお姫様を救ったり宝物を得たりする、という種類の物語。これは西洋の神話や昔話によくある。
日本でも「桃太郎」という物語がある。ただし、桃太郎は子供である。日本では、「Hero 元型」が子供の形でしか表現されないのかもしれない。
西洋では、龍は殺されるが、桃太郎では鬼は降参させられるだけ。
- 「Disfitured Hero 元型」の代表は、「ブラック・ジャック」。ブラック・ジャックの本名は間黒男(はざまくろお)。
間黒男は、母親と共に、不発弾の失敗に巻き込まれて、重傷を負う。
母親は、まったく身動きができなくなり、やがて無くなる。間黒男はバラバラになるが、外科医本間丈太郎に助けられる。
後に、本間丈太郎は死ぬ間際に、手術にミスがあったことを告げる。
このほか、ブラック・ジャックはさまざまな過酷な試練を受ける。
- ブラック・ジャックの過酷な運命。たぶん手塚治虫も幾度も壁を乗り越えたに違いない。そのたびに手塚治虫も成長していったのだろう。
傷を乗り越えることで、人は成長する。
- 西洋では、傷つくとモンスターになるというパターンが多い。
- Disfigured Hero には外面的な傷がある。傷があるがゆえに存在が高みに押し上げられている。傷が魅力にまで高まることができる。
- イエス・キリストの場合は、傷が存在を高めなかった。聖書は、十字架後のキリストを表現できなかった。単に天に上げられて神になっただけ。
放送第7回 「歪み」と「傷」が存在を高みに押し上げる
- 写楽の「奴江戸兵衛」の手を絶対絶妙のアンバランスであるととらえたい。写楽は意図的にそうしたのだと考える。
- 日本の disfigured hero たちは、傷があるにもかかわらず、格好良い。たとえば、
ブラック・ジャック、ケンシロウ(北斗の拳)、緋村剣心(るろうに剣心)、キャプテン・ハーロック、クイーン・エメラルダス、丹下左善、座頭市。
- 「歪み」を広くとらえる。子供のころ、近所に精神病の女がいた。ぼろぼろの着物を着て、ときどきよろける。
しかし、そのよろけるのが美しいと感じた。あたかも舞っているかのようであった。
- 大変な目に遭った時にも、日常性にしがみつくと耐えられる。その中で、自分のなかに破格が芽生えてくる。
放送第8回 写楽はなぜ十ヵ月で消え去ったのか
- 深い心の傷は、消えることは無い。傷が消えたら、異能も消える。ブラック・ジャックには、傷と異能が保たれていた。
- 写楽の魂は、十ヵ月間だけ写楽であろうとした。「奴江戸兵衛」に彼の苦しみが凝縮されている。
- ブラック・ジャックは、ほかの disfigured hero 達と違って、戦うのではなく、他の人を治療する。
ブラック・ジャックは、母を殺した不発弾の処理をした人々に復讐しようとする。しかし、苦しみながらも、医者としてそれをしないことにする。
- 菊池寛『恩讐の彼方に』で、市九郎(了海)は、過去の悪事への悔悛から苦労して青の洞門を掘る。
写楽もそれと同様、一撃を加えられたとき、全身全霊で「奴江戸兵衛」の手を仕上げた。
本書第5章 大いなる治療輪(pp.129-148)
- 浅い心の傷は日が経てば癒える。しかし、深い心の傷はそう簡単には癒えない。「大いなる治療輪」が必要である。
- 菊池寛『恩讐の彼方に』の市九郎は、過去の自らの悪事を恥じて一心不乱に青の洞門を掘る。手塚治虫『火の鳥』の我王もまた、過去の自らの悪事に叩きのめされ、次々に仏像を掘る。やがて大願成就したとき、彼らは涙を流す。このようなことが大治療輪である。
- 写楽の場合は、第1期が治療輪の中にあり、第2期以降普通に戻ってゆく。
放送第9回 写楽画の激変―自己絵画療法として考える/本書第6章 自己絵画療法としての写楽画 (pp.149-185)
- 写楽画は4期に分けられ、1期が一番質が高く、だんだんと質が落ちて行ったとするのが定説。
- 著者の主張のまとめ (1) 「奴江戸兵衛」の「奴」は除くべきではない (2) 「奴江戸兵衛」の「手」は素晴らしい (3) 写楽画は自己絵画療法だった
- 第1期は大判、第2期以降は間判や細判の方が多くなって、全体的に画面が小さくなっていく。
第1期は大首絵、第2期以降は全身図になり迫力が落ちる。第3期には風景(背景)が加わりますます迫力が落ちる。
- 第1期では、写楽は首のみに注目している。これは、状況を頭のみで処理しようとする一種の意識狭窄である。
苦しくて心が狭められた状態、つまり、何か煮詰まった状態であった。
第2期にはその状態を脱して全身図を描く。つまり、状況に全身で対処しようとしている。
第3期には風景が加わる。ということは、写楽はもっと大きなものの中での自分を感じるようになった。
- 絵画療法でも、最初は迫力のある大きな絵から始まって、小さくて迫力の弱い絵に移行することがよくある。
- 各期の絵について
- 第1期
- ペアになっていると思われる絵が3対ある。このうち、「藤川水右衛門」vs「石井源蔵」と「志賀第七」vs「松下造酒之進」とは仇討ちである。
これに対して写楽絵のクライマックスである「奴一平」vs「奴江戸兵衛」は仇討ちではない。これは、外の敵との闘いから自分との闘いへと
闘いの姿が深化しているということではないか。
- 第2期
- 第2期は「篠塚浦右衛門の都座口上図」から始まる。これは、心が俗世間に戻ってゆくことを反映しているのだろう。
- 第4期
- 鬼退治の絵がある。「二代目市川門之助」と「大童山文五郎 鬼退治」である。鬼が退治されていることは、写楽の心の中でも鬼がいなくなってゆくことの反映だろう。
- 「大童山文五郎 鬼退治」「大童山文五郎 碁盤上げ」は一組のものとして見ることができる。
宇宙を表現する「碁盤」を下手に向かって鬼に投げ付ける。「扇面お多福図」でも、豆が下手に向かって鬼に投げられている。
1期の「奴江戸兵衛」を思い出すと、下手にいる江戸兵衛の衣装には「鬼」の字が書かれていた。
つまり、第4期の鬼退治で、1期の鬼が変容して治癒されたことを意味するのではないか。
- 「恵比寿」の穏やかさが写楽の心の平穏を表しているようである。
さらには「扇面老人図」の子供は、写楽の中に新たに生まれた子供の心であるように感じられる。
本書第7章 燦然たる煙滅(pp.187-199)
- 写楽の苦悩には男色が関係していたのではないか。
第1作と見られる「初代大谷徳次の奴袖助」はどこか柔弱である。写楽は春画を描いていないし、女形を美しく描いていない。
それから第4期から後に描かれたかもしれないとされている「扇面老人図」では、子供が男女の絵を踏みつけている。
放送第10回 狂気と芸術:「日常」に潜む「非日常」を考える
これからの3回では、写楽に限らず、芸術と異常心理の関係を考える。
- 破瓜型の精神分裂病の患者がいた。その人は「気が狂いそう」と叫んだ。
そのころから、精神障害と異常心理とは異なるのではないかと思い始めた。
- われわれは、非日常に囲まれている。たとえば、戦争とか暴行とか。
- われわれは、皆殺生をしている。食事をするということは、他の生き物を殺しているということだ。
マグロの解体ショーは嫌な感じがする。高級レストランでは、食べ物が原形をとどめていなくて、人間の特権性が目立って嫌な感じがする。
- 医学生がネズミの解剖をするのも残酷だと感じている。あるいは薬を作るのに動物実験が行われている。このような犠牲の上に私たちは生きている。
- 科学は暴走する。フランケンシュタインが、マッド・サイエンティストの象徴だが、科学者は皆そうである。
新幹線がリニア新幹線になるのもマッドではないのか?
- 知性の領域において、コンピュータが人間を凌駕し始めた。チェスや将棋でも人間が負けている。
- ユング派の精神分析では、連想と拡充を使って夢分析をする。こういったこともやがてコンピュータができるようになるだろう。
- 今や、非日常の中にたまにまともな部分があるというくらいではないか。
- 写楽の手を認識することは、「一撃」を「一撃」として認識するということだ。
放送第11回 狂気と芸術:「非日常」はどこにその居を定めるべきか
- 狂気、おまえの居場所は芸術である。
- 江戸時代、歌舞伎と遊郭が「悪所」と言われた。相撲も「悪所」に入れられることがあった。
- 多くの人は、自分の中の狂気に気付いていない。
裁判では、精神障害と判定されると、減刑される。しかし、正気と狂気が紙一重であることを考えると、これはおかしい。
- 精神医学の役目は、患者を楽にすることであって、人間について深く洞察するわけではない。
- 島木健作の小説「赤蛙」に「毒念」という言葉が出てくる。これは人格障害の心の状態にぴったりあてはまる。
- 芸術によって「非日常」に接するべきである。芸術によって、自らの異常心理を治めることができる。
- スポーツでも、レベルが高くなると、異常性が高まる。異常なほどに自らを鍛えることが必要である。
趣味のレベルならば、異常性は必要ない。
- 芸術やスポーツなどの中で、自分のなかの非日常性と向き合うべきである。
放送第12回 狂気と芸術:「非日常」の破壊性と創造性について
今回は、これまでのまとめ
- 破壊性と創造性は概念なのだが、それは実体ではない。
- 写楽の正体には諸説ある。それにはあまり興味はない。
- 問題は、写楽はなぜ消えたのか、ということである。
- アダムとイブは、前人間であった。楽園追放とそれに続く試練を経て人間となった。
- 淀川長治は、人生でいろいろな苦労をした。そのことを神様から与えられた課題という言い方をしていた。
また、『全盲の僕が弁護士になった理由(わけ)』という本の中で、著者の大胡田誠は、自分は神様から全盲という課題をもらった、
という言い方をしている。
- 写楽も、何らかの試練に遭った。と同時に何かの理由で絵を描くことになった。第1期では大首絵、第2期では全身像、
第3期では全身像+背景画と遷移した。それととともに絵の大きさが小さくなってきている。この推移はまさに自己絵画療法である。
- 絵画療法では、ふつう大きな画用紙に迫力のある絵を描く。それからだんだん常識的な絵になってゆく。
写楽は、その絵画療法を、奇跡的なことに自分自身で行った。
- 風景が描かれるようになったということは、周囲の状況が見えてくるということ。
- 奴江戸兵衛の手は下手なのではない。写楽は全身全霊をかけてあの手を描いたはずだ。ぎりぎりの心理状況が高速シャッターで描かれているのである。
Disfigured Hero が賦活された時の表現である。