私たちはどこから来たのか 人類700万年史

著者馬場悠男
シリーズNHK カルチャーラジオ 2015 年 7~9 月
発行所NHK 出版
刊行2015/07/01(発売:2015/06/25)
入手東京浜松町の文教堂書店浜松町店で購入
読了2015/09/25

人類の歴史が要領よくまとめられている。断片的には聞いていた話もあったが、やはりまとめて書かれていると頭に良く入る。

すでに放送が始まっている7月末に近くなって、本屋でテキストを見かけて、放送を聴きたくなり買ってみた。 放送を聴き始めてみると、著者は、単にテキストを読み上げるのではなく、体験談をたくさん交えながら、生き生きと語っていて面白かった。 最初から聴いておけばよかったと思ったが、しょうがない。

放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1~3回と第4回前半は放送を聴いていない。

第1回 ヒトの特性~人間らしさの芽生え

人類進化の5段階
人類進化を、初期猿人 (700-400 万年前)、猿人 (400-120 万年前)、原人 (230-数10万年前)、旧人 (60-4 万年前)、新人 (20万年前以降) の5段階に分ける。
人間らしさの4つの特徴
(1) 犬歯の退化:人類進化の初期に大きく退化した。これはオスの暴力性の減退を示す。
(2) 直立二足歩行の発達:初期猿人、初期猿人→猿人、原人→旧人の3段階で進化した。
(3) 小臼歯と大臼歯:猿人で発達し、原人以降退化した。草原で硬い草の根や豆などを食べるようになって発達し、道具を使い肉を食べるようになって退化した。
(4) 大脳の拡大:脳容積は最後の段階で大きくなり、数十万年前に現在のヒトの大きさになった。

第2回 人類はアフリカの森で誕生した~初期猿人の進化

サヘラントロプス・チャデンシス
今のところ見つかっている最古の人類。2001 年、チャドで発見。
700-600 万年前。
大後頭孔が下を向いていることから、人類の仲間であるとされる。すなわち、ある程度直立二足歩行をしていた。
生息環境は森林であった。すなわち、人類は草原ではなくて、森林で始まった。
アルディピテクス・ラミダス
1992 年に、エチオピアで諏訪元が大臼歯を発見。その後まとまった化石が発見され、2009 年にまとまった研究が発表された。
440 万年前。
手足は類人猿的だが、骨盤は猿人に近い。すなわち、直立できたが、樹上生活をしていたと考えられる。
身長は 120 cm 程度。
オスは特定のメスに頻繁にプレゼントをしていたという「食物供給仮説」がある。

第3回 森から草原への進出~猿人の進化

アウストラロピテクス・アフリカヌス
1924 年、レイモンド・ダートが南アフリカで発見して、人類の起源がアフリカだとわかる端緒になった。
大後頭孔が下を向いていることから、ヒトの祖先であるとわかった。
320-200 万年前。
アウストラロピテクス・アファレンシス
1974 年に、エチオピアで発見された Lucy が有名。
370-300 万年前。アフリカヌスよりも古い。
足の構造が現代人とほぼ同じ。すなわち、親指が他の指とそろい、アーチがあり、踵骨が大きくて海綿質である。 直立二足歩行ができたと考えられる。
骨盤が幅広く、垂直に保たれていることも、直立二足歩行を示す。ただし、大殿筋は現代人より発達していないし、ウエストがくびれていないので、ドタバタした歩き方だったと推測される。
臼歯が発達している。これは、草原に進出して、草の根や食物を噛み砕くためと考えられる。
オスは身長 155 cm 程度で逞しかった。
脳容積は 350 ml 程度で、ラミダスと同程度。

第4回 乾燥する草原に生きる~頑丈型猿人と初期の原人

氷河時代の到来
260 万年以降、地球は第四紀の氷河時代に入る。その結果、アフリカでは乾燥化が進んだ。
この時代になって、大きく2つの集団に分かれる。ひとつは頑丈型猿人のパラントロプス、もうひとつは原人のホモ・ハビリスである。
頑丈型猿人パラントロプス
乾燥した豆や草の根などを食べるために、顔、顎、歯が丈夫になった頑丈型猿人のグループが現れた。 顔が平らで、噛むための筋肉が発達している。頭頂部の矢状稜が発達しているところは、ゴリラと似ている。
250-120 万年前に生きていた。
脳容積は 350-550 ml くらいで、華奢型猿人よりわずかに大きくなった程度。
原人ホモ・ハビリス
230-170 万年前に生きていた。ひょっとすると、280 万年前まで遡るかもしれない。
本格的な石器が作られ始めた。そのために、顎や歯は徐々に退縮していった。
脳容積が 550-690 ml くらいに大きくなった。
体の構造は猿人とほぼ同じ。
東アフリカのンゴロンゴロ公園での経験
森の動物と草原の動物が行き来している。人類の祖先もそうやって森と草原を行き来していたのではないか。
リーキー夫妻(ルイスとメアリー)とオルドヴァイ渓谷
ルイスはイギリス系ケニア人、メアリーはもともとはイギリス人考古学者である。
リーキー夫妻はナイロビからオロドヴァイ渓谷に通って調査していた。1959 年のあるとき、メアリーが化石を見つけて、発掘してみるとほぼ完全な化石だった。 これをジンジャントロプス・ボイセイと名づけた。これは、後に頑丈型猿人のひとつとされるべきことがわかり、今では、パラントロプス・ボイセイと呼ばれる。
そのすぐ後、夫妻は、同じような地層から、顔が小さくて脳が大きい化石も見つけた。それは、ホモ・ハビリスと名づけられた。
息子のリーキー夫妻(リチャードとミーヴ)とトゥルカナ湖
リチャードはリーキー夫妻の息子だが、両親に反発して大学にも行かなかったが、結局、人類化石調査をすることになった。 性格は変わり者。両足切断の事故に遭ったりして波乱万丈の生き方をしている。
リチャードは、1990 年からは野生動物保護の仕事をするようになり、奥さんのミーヴ・リーキーが人類学研究を続けている。
リチャードは、1984 年にトゥルカナ・ボーイ(ホモ・エレクトス)を発見した。
著者は、2008 年、ミーヴの調査に同行してみた。まず、アフリカ人のハンターが化石を探して、見つかったら研究者が連絡を受けてそこに行くようなスタイルで調べていた。 イギリス流で、コックも同行していて、お茶の時間もあった。

第5回 脚長エレクトスのユーラシアへの拡散~中後期の原人の進化

ホモ・エレクトス
約 180 万年前から。
脚が長くて、草原に適応している。
石器を使っており、狩りを行っていた可能性がある。
脳容積が 750-1000 ml になり、歯や顎も小さくなった。
男性は、現代人よりも筋肉がかなり発達していた。
トゥルカナ・ボーイ
1984 年に、リチャード・リーキー隊の化石ハンターのカモヤ・キメウが発見したホモ・エレクトスの少年。
10 歳くらいで、160 cm くらい。約 160 万年前。
ヒトの特徴
白目が見えて、唇がめくれている。
ホモ・エレクトスもこの特徴を持っていたのではないか。
石器
はじめは、オルドヴァイ型。140 万年前ほどから左右対称なアシュール型。
ドマニシ遺跡(ジョージア)
原人の化石が見つかり、年代が 180 万年前であることがわかった。しかも、脳容積が 600-780 ml と小さかった。 すなわち、初期のホモ・エレクトスがアフリカから出ていたことがわかった。
かつては台地で、多くの動物がおり、原人はそれを大量に狩っていたらしい。

第6回 インドネシアのジャワ原人化石調査

原人ホモ・エレクトスの拡散
原人はやがてアジアに広がり、北京原人やジャワ原人となってゆく。今回は、著者の調査研究を含めて、ジャワ原人の紹介をする。
ジャワ原人の発見
ダーウィンが予言したヒトとサルの中間の化石を探そうとしたのは、オランダのウジェーヌ・デュボワが最初だった。
デュボアは、東南アジアが人類発祥の地だと考えて、ジャワ原人を発見した。これを、ピテカントロプス・エレクトスと名付けた。今では、ジャワ原人は北京原人とともにホモ・エレクトスにまとめられて、この化石はホモ・エレクトスの模式標本となっている。
最初は、ジャワ原人は、なかなか人類の祖先とは認められず、デュボアは偏屈となり不幸な晩年を送った。ジャワ原人が認められるようになったのは、北京原人が見つかってからである。
日本人によるジャワ原人調査
東大の渡辺直経(なおつね)教授が、ジャワ原人の研究プロジェクトを 1975 年に始めた。著者もそれに加わったところからジャワ原人の研究を始めた。このプロジェクトは 1990 年に終わったが、著者らは調査を続けた。
ジャワ原人の化石で、不法に持ち出されたものに関してびっくりするような事件があった。
ジャワ原人の化石とされて売っているものには偽物もよくある。
独自の進化をしたジャワ原人
今ではホモ・サピエンスはアフリカ起源とされているが、20年くらい前には多地域進化説が主流だった。
ジャワ原人には二つのグループがある。前期 (100-50万年前) と後期 (10-5万年前) である。後期のジャワ原人には独自の特徴がある。中間的な化石も見つかり、独自の進化をしたことが明らかになった。ジャワ原人は、その後絶滅したと見られる。これも、ホモ・サピエンスのアフリカ起源説を裏付けることになった。

第7回 謎の超小型人類~ホモ・フロレシエンシス

ホモ・フロレシエンシス
2003 年、フローレス島で、110 cm の身長と 420 ml の脳容積の人類を発見された。2万年前のもので、石器を使っていたらしい。 すなわち、体の大きさは猿人、石器を使うという意味で原人、時代は新人と同じという人類であった。
フローレス島は、氷期でもアジア大陸と地続きにはならない。
オーストラリアのマイク・モーウッドは、フローレス島に古い石器が出てくることから、発掘をした。 そこで、新種の人類、ホモ・フロレシエンシスを発見した。
頭骨分析プロジェクト
海部陽介が、ホモ・フロレシエンシスの頭骨の分析をした。すると、ジャワ原人に最もよく似ていることがわかった。 ジャワ原人がフローレス島に渡って、独自の進化を遂げたのだろうと推測される。
ホモ・フロレシエンシスの脳は小さいが、原人と同様の石器を作っていた。脳の前頭葉と側頭葉の分離がはっきりしている点は、 原人や新人と似ていて、猿人とは異なる。
ウォーレシア
フローレス島を含むウォーレシアという地域は、スンダランドからはウォーレス線で隔てられ、サフールランドからはライデッカー線で隔てられている。 ウォーレス線を渡ってフローレス島に来た哺乳類は、ゾウとネズミとホモ・フロレシエンシスだけだった。フローレス島の動物は独特である。 ゾウは小さく、ネズミは大きく、ホモ・フロレシエンシスは小さい。
先進国と途上国の間で
ホモ・フロレシエンシスの化石の所有をめぐって、オーストラリアのモーウッドとインドネシアの研究社であるテウク・ヤコブの間で 激しい争いがあった。

第8回 ネアンデルタール人は白人だった~旧人の進化

旧人
前期は、ホモ・ハイデルベルゲンシス。後期はホモ・ネアンデルタレンシス(ネアンデルタール人)。
ホモ・ハイデルベルゲンシス
1907 年にドイツのハイデルベルグ付近で骨が発見されたためにこの名がある。
発祥の地はアフリカで、ヨーロッパやアジアに拡散した。東アジアでは、北京原人を押しのけた(もしくは混血した)。
ホモ・ハイデルベルゲンシスは、顔が大きく、体は頑丈であった。脳容積も現代人と大差ない。噛むための機能は、原人よりも弱くなっていた。
原人はおそらく言葉が話せなかったが、旧人では喉頭が下がってきて言葉が話せるようになったと思われる。
ネアンデルタール人
ヨーロッパにおいて、ホモ・ハイデルベルゲンシスは、ネアンデルタール人に進化した。
ヨーロッパでは日差しが少ないので、肌の色が薄くなったと思われる。肌の色が濃いと、ビタミンD不足になるからである。
寒さへの対応として、胴が太くなり、すねが短くなって、胴長短足になった。
ネアンデルタール人は、立体的な顔をしていた。顎が大きく、おとがいが無い。
木の葉型の剥片石器を作っていた。槍の先に用いていたと思われる。
狩もしていたようで、狩で大怪我をしたと見られる骨も見つかっている。
埋葬の跡がある。
ネアンデルタール人の研究の歴史
ネアンデルタール人の化石は、19 世紀前半にすでに発見されていたが、始めは奇妙な現代人(病気とか)だと思われていた。
ネアンデルタール人に対する見方は二転三転した。愚鈍な原始人だと思われたこともあったし、ホモ・サピエンスの亜種だと思われたこともあった。
ホモ・サピエンスとは別種であるという今の見方が確立したのは 1980 年代である。
シリア砂漠
昔、著者はシリア砂漠で調査をした。そこは文明の交差点。最近の戦乱の影響が心配。

第9回 新人ホモ・サピエンスの世界戦略~原人・旧人との交雑

ホモ・サピエンスの出現
20 万年前に、ホモ・ハイデルベルゲンシスがホモ・サピエンスに進化した。頭が丸くなり顔と頸が小さくなった。おとがいが突出するようになった。
ちょっと前までは「現代人の心」が生まれたのはヨーロッパだと思われていた。しかし、2002 年、南アフリカのブロンボス洞窟の 7 万 5 千年前の地層から、オーカーに模様が刻まれたものや貝殻のビーズが見つかった。つまり、現代人の心は 10 万年くらい前からあった。
ホモ・サピエンスの世界拡散
サピエンスは 6 万年ほど前から世界中から拡散していった。そして原人や旧人を駆逐していった。
とくに、オーストラリアは気候がアフリカに似ているので、オーストラリア先住民はもともとのサピエンスの姿をとどめていると考えられる。
3 万 5 千年ほど前に縫い針が発明され、毛皮を縫い合わせることが出来るようになって、厳寒のシベリアへもヒトが進出していった。
ヨーロッパのサピエンス(クロマニョン人)は、ネアンデルタール人を追い詰めて 4 万年前に絶滅させた。
サピエンスは、1 万 5 千万年前にはベーリング陸橋を渡り、わずか 1000 年ほどでアメリカ大陸最南端に到達した。
遠洋航海により 1500 年前には、ハワイやイースター島に到達した。1000 年前にはニュージーランドやマダガスカルに到達した。
サピエンスの交雑
2010 年に、アジア人とヨーロッパ人はネアンデルタール人と少し交雑しており、アフリカ人と交雑していないことがわかった。 アジア人とヨーロッパ人では交雑の程度が同じくらいであることから、交雑は西アジアで起こったと思われる。
デニソワ洞窟の指の骨の DNA 解析から、ネアンデルタール人とサピエンスの共通祖先から分かれた新たな人類であることがわかり、 デニソワ人と名づけられた。デニソワ人と現代メラネシア人のゲノムにも共通部分があることがわかり、混血があったと考えられる。

第10回 日本人集団の形成1~旧石器人と縄文人

日本に原人や旧人はいたのか?
直良信夫が発見した明石原人は原人とされたことがあったが、新人だとわかった。葛生原人の骨は、半分は動物化石で、 半分は歴史時代の人骨であることがわかった。牛川人骨は、人骨ではなかった。三ケ日人骨は縄文人であることがわかった。 浜北人骨だけが後期旧石器時代 (1万8千年前) のものであることがわかった。
というわけで、今のところ原人や旧人は見つかっていない。
日本列島最古の人骨~港川人
1 万 8 千年前の港川人が南西諸島で発見されている。
港川人の頭は、上下に低く幅が広く頑丈である。幅が最も広い部分が耳のすぐ上で、現代人よりも低い。 噛む力が強かったと考えられる。彫りの深い顔立ちをしていた。
小柄で上半身は華奢だが、下半身はしっかりしていた。
初期のホモ・サピエンスの特徴をとどめながら、沖縄で独自の進化を遂げたものではないだろうか。
縄文人
1万 5 千前から 2 年前まで。
頭は全体的に四角い。噛む力は強かったが、歯は小さい。彫りが深く、濃い顔をしていたと推定される。
アイヌは縄文人の直系の子孫。
切歯や犬歯を意図的に抜いてあると見られる骨もある。何らかの風習があったのだろう。
体つきは、小柄だが筋肉質で、腕や脚の先の方が長かった。狩猟採集生活への適応と見られる。

第11回 日本人集団の形成2~渡来系弥生人の拡散と混血

渡来系弥生人
2千数百年前からいた渡来系弥生人は、顔がのっぺりしていて、縄文人より背が高い。
渡来系弥生人は、中国や朝鮮半島からやってきた。これに対して、縄文人の子孫は在来系弥生人と呼ばれる。
渡来系弥生人の故郷は、シベリアだと考えられる。
北方アジア人
3万5千年前に、骨や角を材料として縫い針が発明された。トナカイの腸や腱を糸として、防寒着が作られた。
耐寒のため、胴長短足になり、顔が平らになり、体毛が減った。皮をなめすために、歯と顎が発達した。
北方アジア人は、腋臭の人が少ない。閉鎖されたテントでは嫌われたのかもしれない。
6000 年前ころから、北方アジア人は北東アジア全域に広がり、やがて農耕民になった。
弥生時代の日本
渡来系弥生人は、九州北部と本州西部にやってきた。
1985 年に、奈良県の唐子・鍵遺跡から人骨が見つかった。これは渡来系弥生人だった。つまり、 弥生時代前期に、渡来系弥生人が関西まで来ていたことが分かった。
現代日本人集団
本土日本人は、渡来系弥生人の影響が強い。周辺部では縄文人の影響が強まる。アイヌでは縄文人の影響が強い。 琉球人は、縄文人と渡来系弥生人が半々。
縄文人は10万人くらいいた。 渡来系弥生人は、最初は人数が少なかったかもしれないが、農耕技術のために子孫を大きく増やし、縄文人を凌駕するようになったのであろう。

第12回 徳川将軍親族遺骨の研究

徳川将軍の遺骨の研究
谷中墓地にある廟を寛永時墓地に移すために、2007-2008 年にかけて発掘された遺骨の研究を著者らは行った。
正室と側室の顔
吉宗の生母の浄円院は、骨格は庶民的にたくましいが、鼻は隆起していてなかなかの美人であった。
家重の正室の証明院は、公家の出身で、細面で顔は華奢。骨の曲がり方から、子供のころから正座の習慣があったことがわかる。
家治の正室の心観院の骨には変な傷が多い。これは、死後秘密裏に遺体が京都まで長距離運ばれたために傷が付いたのではないか。
家慶の正室の浄観院は、頭は大きいが顔が細い。足の筋肉は弱く、肉体的な仕事は全くしなかったのであろう。
家慶の側室で家定の生母の本寿院は、正室のような細顔だが、骨格はしっかりしている。
全体的に見ると、正室は、庶民に比べると、顔の下が狭い。側室は、庶民と正室の中間。側室の顔は、時代によって異なる。江戸時代前~中期は、庶民のような幅広い顔が多い。 江戸時代後期になると、正室と同じように細長く華奢になっていった。
将軍の顔
将軍の顔は、江戸時代の後期になるにつれ、細長く華奢になってゆく。将軍のほとんどは側室の子なので、側室の顔の変化によるものであろう。
現代日本人の顔
江戸時代の人々は、全体として噛む力が健全で、歯並びが良かった。
ところが、最近は歯並びが悪い人が多い。北方アジア人は歯が大きい。骨の発達が十分でないと、歯並びが悪くなりやすい。 最近の日本では、野菜も肉もパンも柔らかい。そこで、骨の発達が悪くなってしまう。

第13回 孫たちに贈る二つの世界

地球生命史と人類
1億年前、哺乳類の祖先は小型の夜行性の動物だった。
6500万年前、隕石衝突により恐竜が絶滅した。霊長類は樹上生活を選んだ。
700万年前、初期猿人が現れて直立二足歩行を始めた。
200万年前、原人が誕生して道具を作り始めた。
60万年前、旧人が誕生して、狩猟が発達した。
20万年前、ホモ・サピエンスが誕生。
1万年前、農耕・牧畜の開始。
5000年前以降、文明が発展。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』によると、文明の発達が場所によって違うのは、大陸の形状による。大陸が東西に伸びているところでは、利用できる種が多く、技術が伝わりやすいので、文明の発展に都合が良い。
地球文明の崩壊
私たちはやがて資源の枯渇を見るのではないか。すると文明が崩壊するだろう。このままでは、未来の人類に申し訳ない。
自然と共存する文明縮小のロードマップが必要だ。日本列島で身の丈サイズの生活をしよう。