荘子

著者玄侑宗久
シリーズNHK 100 分de名著 2015 年 5 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2015/05/01(発売:2015/04/25)
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読了2015/05/28

『荘子』は、漢文で「胡蝶の夢」を習ったことがあるくらいで、あまりよく知らなかった。余計なことをせず、自然に生きるとのが良いと言っているという意味では『老子』と同じようなものだが、万物斉同のようなことを語っているという意味でより形而上学的である。

妻の死を悲しむのは天命に逆らっていると考え、自らの死に際しても天地が自分の棺桶だと言っているのが、何とも超然としていて素晴らしい。

とはいうものの、深く読み込む哲学という感じではない。これを良くも悪しくも東洋的というのだろうか。

放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 人為は空しい

『荘子』について
2300 年前に成立。
諸子百家の中でも、個人の生き方を説いていることや小説的であることが特色。
作者は荘周(荘子)ならびにその継承者たち。
寓言(ぐうげん;寓話的物語)、重言(じゅうげん;古人の言葉を借りた物語)、巵言(しげん;相手によって臨機応変に対応した言葉)から成る。
言語にたいして否定的「言とは風波なり(言葉は風や波のように当てにならない)」
作者荘子について
儒家の曾子とくべつするために、専門家は「荘子」を「そうじ」と読む。
戦国時代の宋という国の思想家。宋は、殷の落人が集まった国で、周囲からは蔑まれていた。
人生の大半は自由な隠遁生活をしていた。
渾沌王の話
渾沌王に秩序を与えようと、南と北の帝が混沌王に目や鼻などの七つの穴を開けたら渾沌は死んでしまった。
「ないがまま」が良い。あるがまま、は既に「私」に染まっている。五感はすでにフィクション。
「はねつるべ」の話
井戸から水を汲むのに「はねつるべ」という機械を使わない老人がいた。老人が言うには、からくり(機械)を用いるものは、からくり事(機事)をするようになり、からくり事をする者は、からくり心(機心)を持つようになる。だから、機械を信用しない。
哀駘它(あいたいだ)の話
哀駘它は、醜かった。でも、彼は皆に好かれていた。彼は、和して唱えず。いつも人に同調するだけだった。
アピールしないことが徳だとしている。

第2回 受け身こそ最強の主体性

受け身の主体性
人間どうしたら主体的でいられるか。蛇は地面に沿ってうねうね曲がって移動するから強い。「主人公」とは、もともと禅語で、どんな役にもなりきれる人のこと。状況に浸りきる=主体的な人格、と考える。禅では、我を無くした無我の状態を目指す。
仏教と荘子
中国では、仏教が漢の時代に伝わったが、そのときはあまり広まらなかった。その後の分裂時代になって政治に敗れた人々たちに老荘が広がったところに仏教が広まった。仏教を訳すのに使った「衆生」とか「解脱」とかいう言葉は荘子から来ている。
禅も6世紀ころ現れた。中国には托鉢の習慣が無かったので、お坊さんが自給自足するようになった。ただし、なまぐさものを食べないということになった。
やむをえずの思想
「已むを得ずして而(しか)る後に起(た)ち」自分の意思で行動するのではなく、やむをえずということになってから動くのが良い。
「知と故(こ)とを去りて、天の理に循(したが)う」小賢しい意思や知恵を捨てて、天の理のままに行動する。
「為合(しあわせ)」とは、天が為すことに合わせること。しあわせは、受け身。
「影」の話
影は、本体の動くままに動く。しかし、本体だって状況の中でやむをえず動いているだけ。
自由意思などというものは無いかもしれない。天に任せ切るのが強い。
妻の死を受け入れる話
命はもともとおぼろなもの。それが道理というものだから、泣くのを止めた。
「不測に立ちて無有(むう)に遊ぶ」
どう変化するか先の予測がつかない状態で、人がそれと気づかないあり方を遊ぶ。
「来世は待つべからず、往世(おうせ)は追うべからざるなり」過去はしかたがない、未来にも期待しない。
未来を予測しない、憂えない、計画しない。その時々の直感に素直にしたがって、今に没頭する。

第3回 自在の境地「遊」

「遊」
「至人(しじん)は乃ち能く世に遊びて僻せず、人に順(したが)いて己れを失わず」
「遊ぶ」=とらわれないこと
「遊」は、もともと神と人とが一体になった境地
料理人庖丁(ほうてい)の話
庖丁は牛の解体の名人だった。自然体で向き合って無意識になると、うまくいくのだということだった。
本当の茶人は茶人臭くない。本当の学者は学者臭くない。意識せずにできるほどに習熟することが大切。
役立たずで生きる=樗櫟(ちょれき)の話
樗(おうち)の木は巨大になるが瘤だらけで使えない。役に立たないから巨木になる。巨大で長生きの樗の木は、その下で昼寝でもすれば良い。
櫟(くぬぎ)の木は大きいが使えない。役立たずだからこそ切られずに大きくなった。「無用であることが、大木になるには有用であった。」
「無用の用」
世間的には役立たなくても良い。世の中いろいろな物差しがあるので、そんなにはお互いに比較できない。
「もちまえ」
急流の中を泳いでいる男がいた。彼は、水に逆らわずに自然に泳いでるのだと言った。
その泳ぎの名人が言うには、「故に始まり、性に長じ、命(めい)になった」。
  • 「故」=生まれつきの下地。
  • 「性」=「もちまえ」=無意識の領域。生まれつきだったり、習慣になったりして、無意識にできるようになったこと。
  • 「命」=さからえない流れ=全体の流れの中で生きてゆく。
自分の「もちまえ」に従って、自然に逆らわないのが良い。

第4回 万物はみなひとしい

万物斉同
荘子の「道」は、渾沌=水が激しく渦巻いているような状態でそこからみな生まれる、という意味ではみな一緒。
天から見れば、すべてのものはつりあっている。天から見れば、区別や対立はない。
「道」はどこにでもある。屎尿にもある。
渾沌=精⇒気⇒「目、耳、鼻、口」⇒「心、物」。「心、物」は「私」の中に発生しているものである。「私」を通さなければ、ものごとはみな斉しくなる。
「私」がさらに行などにより純化されると「心、物」は「神(こころ)」になる。
胡蝶之夢
荘周は夢で胡蝶になっていた。荘周は夢で胡蝶になっていたのか、胡蝶が夢で荘周になっていたのか。そこに区別はない。
物化
物は際限なく変化し続ける。「今」もやがて夢になる。辛いことも夢になる。新たなことに気付くと、それ以前のことは夢になる。
大夢(禅の言葉)
人生のことを「大夢」と言う。人が亡くなることを「大夢にわかに遷(うつ)る」と表現する。死もまた生を夢に還すこと。死んでみたら、生は夢だったということになるかもしれない。
道枢
枢(とぼそ)とは、回転ドアの軸。枢という動かない軸から見れば、物は何にでも変わることができる。
ものごとは、二項対立ではない。
鯤(こん)から鵬(ほう)へ
大きな魚の鯤が、大きな鳥の鵬となる。鳥は南の果ての天池に行こうとする。
これは『荘子』冒頭の物語。このような訳の分からない壮大さが荘子の骨頂。