シェイクスピア ハムレット

河合祥一郎 著
NHK 100分de名著 2014 年 12 月、NHK 出版 [電子書籍]
刊行:2014/12/01(発売:2014/11/25)
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読了:2015/01/05
「ハムレット」は、ずいぶん昔、中高生のころに読んだ。そのころは福田恆存訳の全集が図書室にあって、それを読んでいたように思う。 その後もいろいろな訳が出ている。話の筋も忘れていたが、この放送で何となく思い出した。

以下のまとめでわかるように、「ハムレット」は、生き方の哲学を説いた戯曲だというのが著者の考えである。 ハムレットは、ロマン派の解釈のような優柔不断な青白い若者ではない。 文武両道の堂々たる体躯で、深く思索する若者だというのが著者の解釈である。思索の結果、最後には運命に身を任せるという悟りに至る。

放送の最後の回では、狂言師の野村萬斎が出てきて、河合氏の訳を使ってハムレットを演じた経験を語っている。 河合訳は野村氏の助言を得て行ったものだそうだ。狂言で鍛えた太い声で読む科白は確かに迫力があった。 しかし、一方で、ハムレットは、狂言的というよりも歌舞伎・文楽的だとも思う。 倫理的なジレンマがもたらす悲劇というのは歌舞伎・文楽の得意分野だからだ。 しかし、第4回で紹介されているところに依れば、シェイクスピアのころの舞台は舞台装置が無くて、能舞台に近いという意味で能・狂言的なのだそうだ。


放送テキストのメモ~いくつかの科白の解釈

放送テキストに書かれていることのうち、いくつかポイントとなる科白の解釈の部分のサマリーを作ってみる。この訳は著者の河合氏によるものである。
ハムレット この世の箍(たが)が外れてしまった。なんという因果だ、俺が生まれてきたのは、それを正すためだったのか。[第1幕第5場;テキスト第1回 pp.146-147]
ハムレットがしようとしていることが、単なる個人的な復讐ではなく、世の悪を正すことだと語られている。
ハムレット 俺が見た亡霊は悪魔かもしれぬ。悪魔は相手の好む姿に身をやつして現れる。そうとも、ひょっとして俺が憂鬱になり、気弱になっているのにつけこんでまんまと俺をたぶらかし、地獄に追い落とそうという魂胆か。もっと確かな証拠が欲しい。それには芝居だ。芝居を打って、王の本心をつかまえてみせる。[第2幕第2場;テキスト第1回 pp.48-49]
カトリックとプロテスタントのはざまの悩みとも解釈できる。カトリックは亡霊を認めるが、プロテスタントは認めない。カトリックは情熱的なのに対し、プロテスタントは理性的で冷静である。
芝居には、心の目で捉える真実を写すという発想がここにはある。
ハムレット 生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。どちらが気高い心にふさわしいのか。非道な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶか、それとも怒涛の苦難に斬りかかり、戦って相果てるか。[第3幕第1場;テキスト第2回 pp.90-92]
ロマン派の人々は、これを優柔不断と解釈した。が、そうではない。理性的に耐え忍ぶか、情熱的に復讐して果てるか、そのどちらが気高い生き方なのかという哲学的な問いを考えているのだ。
この問いは最後の第5幕で、神や運命に身を任せるという形で止揚される。
ハムレット 尼寺へ行け。え?罪人を産みたいのか?俺だってかなり誠実なつもりだが、おふくろが産んでくれなければよかったと自分を責めることだってある。[第3幕第1場;テキスト第3回 p.134]
ハムレットが隠れている王とポローニアスに気付いたのだという解釈もある。が、たぶん違う。ハムレットは、自分が情欲に流されないようにしたいと同時に、オフィーリアにも完璧な清純を求めているのである。これは、ハムレットの愛の屈折した表現である。
ハムレット 雀一羽落ちるのにも神の摂理がある。無常の風は、いずれ吹く。今吹くなら、あとでは吹かぬ。あとで吹かぬなら、今吹く。今でなくとも、いずれは吹く。覚悟がすべてだ。生き残した人生など誰にもわからぬのだから、早めに消えたところでどうということはない。なるようになればよい。。[第5幕第1場;テキスト第2回 p.158]
ハムレットは、悩みを超克して、運命に身を任せることにする。死を覚悟して、人事を尽くす。

放送時のメモ

第1回 "理性”と"熱情”のはざまで

第2回「生きるべきか、死ぬべきか」

第3回 「弱き者、汝の名は女」

ハムレットに登場する女性たち:ガートルードとオフィーリア

第4回 悩みをつきぬけて「悟り」へ

今日は、狂言師の野村萬斎をゲストに迎える。