マッハとニーチェ 世紀転換期思想史

著者木田元
シリーズ講談社学術文庫
発行所講談社
電子書籍
刊行2015/01/01(電子版)、2014/11(紙版)
文庫の元になった単行本2002/02 新書館刊
元になった連載『大航海』1998/12(第25号)--2001/10(第40号)
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読了2015/11/29

マッハとニーチェの思想が 19 世紀末から 20 世紀初頭の思想に大きな影響を及ぼしているということを描いた本である。とくに、マッハの影響が詳しく書かれている。著者はこの文献は読んでないから○○の受け売りだというようなことを正直に書いてあり、その書きぶりには好感が持てる。内容もおおむねわかりやすい。引用の部分でときどきわかりづらいところがあったが、これは元の文献がわかりにくいのであろうからしょうがないか。

興味深かったのは、マッハの特異な哲学がいろいろな方面に大きな影響を与えたということである。今から見ると変な思想なのだが、そのころの物理学を想像して見ると理解できる気がする。徹底的に経験論的なマッハの考え方が、アインシュタインの相対性理論を生み出す元になったと思うと、その重要性は計り知れない。時間や空間のような当たり前に使っている概念を疑って、これれも経験的な概念だと考えたことが、アインシュタインによる時空概念の転換につながった。

とはいえ、感性的要素一元論は、さすがに今では成り立たない。たとえば、「赤さ」なるものがあるといわれても、今となっては物の側の性質としては量子力学的な説明があり、人の側には視神経などを通じた説明があり、光の性質としてもスペクトルを用いた説明があるから、それの基が「赤さ」だといわれても困る。しかし、当時はそういったことが理解されていなかった。マッハは形而上学を排除しようとしてこのような考えにいたったようだが、今から見ればこれも形而上学である。人類がどのように知識を獲得してきたかという歴史から世界の成り立ちの基本的な要素を抽出しようとしても、それは無理だと言うべきであろう。別の言い方をすると、論理実証主義が感覚を基礎にして物理学を再構成しようとして破綻したとき、マッハ主義も破綻したというべきだろう。しかし、その割に、別の経路でマッハを受け継いだ現象学なるものは、サルトルやメルロ・ポンティなどもっと新しい世代まで引き継がれたのは不思議である。

19 世紀末の哲学には、科学の成功が大きな影響を与えていることがわかる。現代の哲学も、科学を踏まえたものでなければならないはずだが、そうでないものも多いのは困ったことである。

サマリー

第1回 序論―マッハとニーチェ

19 世紀の捉え方
1789 年のフランス革命から 1830 年の7月革命までは一続きである。 思想界でも、1781 年のカント『純粋理性批判』から 1831 年のヘーゲル歿までが一続きで、ドイツ観念論の時代である。
1870 年の普仏戦争から 1933 年のナチス政権の成立までも、ドイツ語圏に安定した社会が出現した一続きの時代である。 これが世紀末の転換期である。
とすれば、1830 年から 1870 年までが 19 世紀の中核と考えられる。産業革命がヨーロッパ全体に波及した時代である。
エルンスト・マッハ
1838 年生、1916 年歿。
フッサールの現象学は、マッハや心理学者のへーリングが提唱していた現象学的方法を徹底したものである。
マッハとアヴェナリウスの「思考経済説」はフッサールによって批判された。
マッハの影響は、ゲンシュタルト心理学、相対性理論、論理実証主義、実証法学など広範囲に及ぶ。
ニーチェの「遠近法的展望」はマッハの「現象」とほとんど重なる。

第2回 力学的自然観とは―ヘルムホルツの到達点

科学の発展という時代背景

科学と技術
産業革命は、職人によってなされ、イギリスでは 19 世紀初頭まで職人と科学者の間の交流は無かった。
フランスでは、1794 年にエコール・ポリテクニクが設立され、科学と技術が結びついた。
1851 年には第一回万国博覧会がロンドンで開催され、本格的なテクノロジーの時代の幕開けを告げた。
古典物理学の完成
ニュートン力学を完成させたのは、18 世紀のオイラー、18 世紀末から 19 世紀初頭にかけてのラグランジュ、ラプラスである。
1824 年、カルノーが「火の動力についての考察」を著し、熱力学への道を開いた。
1821 年のエールステッドによる電流の磁気作用の発見、1831 年のファレデーによる電磁誘導の発見などを通じて、電磁気学が出来てきた。
エネルギー保存則は、1842 年のマイヤーの「生命なき自然界における力の考察」、1843 年のジュールの「磁電気の熱効果および熱の仕事当量について」、1847 年のヘルムホルツが「力の保存についての物理学的論述」などを通じて確立された。こういったことを通じて、19 世紀の中ごろには力学的自然観が生理学を含めた形で席巻した。
ヘルムホルツ
1821 年生まれ。医学・生理学を学ぶ。1871 年にベルリン大学物理学教授、1888 年以降は国立物理工学研究所所長になり、ベルリンを物理学の世界的中心にした。

第3回 実証主義の風潮―もう一つの予備的考察

科学の発展を受けて、人間諸科学も科学化に向かった。すなわち、要素還元主義や因果的説明が人文学に対しても適用されるようになった。

心理学
それまでの心理学は、研究者が自分自身の意識体験を反省すること(内観法)によってなされていた。
19 世紀半ばのフェヒナーは、刺戟の強さと感覚の強さの関係を測定して実験心理学を始めた。ヴントはそれを発展させて、 刺戟と感覚の比例関係を確立した。
当時の「科学的心理学」は、感覚を要素とする要素還元主義を基礎とし、感覚は、時空に定位された刺戟と一対一対応があると考えられた。
実証史学
それまでの歴史学は、歴史法則を究めようとする歴史哲学だったが、19 世紀から厳密な史料批判に基づく実証的なものになっていった。
社会学
社会学もそれまでは社会哲学であったが、19 世紀末のデュルケームとその学派の人々は、社会を個々の仕組みに切り分けて、その個々の仕組みの事実を確認してゆくという要素還元主義的方法を取った。
さらに、デュルケームは、認識や文化的所産は社会構造によって規定されているとした。そこで、社会学は精神科学の基礎であるとした。
言語学
言語学もそれまでは言語哲学であったが、19 世紀以降、音韻・語彙・文法の科学的な比較研究が行われるようになった。
文学
エミール・ゾラは、小説家は、社会環境という試験管の中に投げ込まれた人間が、どのような変化を遂げるかを観察するナチュラリストたるべし、と主張した。これが本来の「自然主義」である。
社会理論
ハーバート・スペンサーは、進化論を人間社会に適用した「社会進化論」を創出した。
エンゲルスの「科学的社会主義」も社会理論への科学主義の浸透の例である。
新カント派
1860 年代にカント復興が始まった。これは、カントの認識論によって、諸科学を基礎付けようとするものである。
実証科学に抗しようとして、哲学の学説史がこのころさかんに書かれた。

第4回 エルンスト・マッハの生涯―風車と流れるもの

マッハの生涯
1838 年、現チェコ領のキルリッツという村で生まれる。父親は学校教師で、父親からは猛烈な教育を受けた。 15 歳のころ、カントの『プロレゴーメナ』を読み感銘を受ける。
1855 年にウィーン大学に入学、1860 年に学位を得て私講師となる。物理学などの講義を行った。
1864 年からグラーツ大学に奉職。1867 年にプラーハ大学に実験物理学の教授として招かれる。 マッハの主要な仕事は、プラーハで行われた。1886 年には、『感覚の分析』を出版するとともに、衝撃波の写真撮影に初めて成功する。 1895 年、ウィーン大学の「帰納科学の歴史と理論」講座に招かれる。1916 年歿。

第5回 現象学的物理学の構想―マッハの思想I

科学史三部作
マッハは、1883 年『力学の発達、その批判的・歴史的叙述』(『力学史』)、1896 年『熱学の諸原理』、1921 年『物理光学の諸原理』を著す。
『力学史』は、科学史というよりも、力学の認識論的な考察を行うために歴史の分析を行った本である。 19 世紀半ば、ヘルムホルツやヴントは、自然界におけるあらゆる諸現象は力学に還元されるという力学的自然観を持っていた。 マッハは、力学的自然観を批判し、質点、時間、空間などの概念が経験的なものであることを歴史分析により示した。 アインシュタインもこれから多大な影響を受けた。
物理学的現象学
マッハによれば、自然科学の元になっているのは感性的世界だけである。感性的世界の要素はおたがいに複雑にからみあっている。 物体とは、色、音、圧などの感性的な要素が比較的恒常的な結びつきを持っているために名称を得たものである。 科学は、感性的要素間の関連を調べる学問である。力学がすべての基礎というわけではない。
物理学から形而上学的要素を抜き去ると、感性的要素の複合的な連関が残る。運動や熱や電磁気は不可分であって、力学だけに特権的な地位があるのではない。そこで、すべての分野を包括する普遍的な物理学的現象学を提唱する。
思考の経済
自然にはいろいろな記述の仕方がありうる。科学の課題は、それを出来るだけ簡潔に記述するという「思考の経済」である。
絶対的な真理はない。生物学的に有益でない心的体験のことを誤謬と呼ぶ。
マッハは、進化論の影響も受けている。

第6回 感性的要素一元論―マッハの思想II

原子論とエネルギー論
当時のドイツでは原子論とエネルギー論の間で激しい論争があった。原子論の主唱者はボルツマンである。エネルギー論のほうが優勢であった。マッハはエネルギー論派であった。
エネルギー論といっても、エネルギーを実在だと考える人と、関係の表現だと見る人とがいた。 マッハは、エネルギーは実在だと考えなかった。
感性的要素一元論
マッハは、感性的要素一元論を提唱した。世界の要素は感覚であるとした。しかし、こういった感覚は客観的属性でも主観的属性でもないとした。たとえば、ロウソクの炎が赤いのを見るとき、それは炎が赤いのでも、網膜が赤さを感じるのでもない。単に、「赤さ」という要素が直接に現前しているだけである。「赤さ」がほかの外的なことがら(空間とか温度とか)と結び付けられたときに客観的なものになり、「赤さ」がほかの内的なことがら(網膜とか印象とか)と結び付けられたとき主観的なものになる。
マッハは観念論者ではない。自我もまた、気分、感情、記憶などの諸要素が関連しあって形作られた複合体であって、根源的なものではないと考える。
マッハは、時間や空間も経験的な概念だとする。空間は、生理学的空間感覚を基にして、測定という行為を通じて形作られた概念である。
そこで、現実と夢の区別もない。違いはといえば、夢は実用的に役に立たないということだけである。
感性的要素一元論は、要素還元主義ではない。感性的要素が世界の構成要素ではあるが、それらは決してバラバラに現れるものではなく、それらの相互的依存関係をとらえることが重要である。
マッハとアヴェナリウス
アヴェナリウスの思想はマッハとよく似ており、あわせて「経験批判論」とも呼ばれる。
アヴェナリウスは、哲学は、世界を「純粋経験」に基づいて「最小力量の原理」にしたがって記述するべきだとした。これは、 マッハが、科学は、世界を感性的諸要素を基にして思考経済の原理にしたがって記述する、としたのと近い。
ウィリアム・ジェームズの「純粋経験」、ベルクソンの「イマージュ」も似た概念である。

第7回 ゲシュタルト理論の成立

感性的要素一元論における全体論
マッハは、世界が感性的諸要素の単なる寄せ集めだとは思っていない。要素間の連関の全体に目が向けられているという意味で全体論への志向が見られる。
エーレンフェルスの「ゲシュタルト質」
クリスチアン・エーレンフェルス (1859-1932) は、プラーハ大学の哲学の教授で才人であった。
エーレンフェルスは、マッハのいうゲシュタルトの「感覚」の曖昧さを批判した。エーレンフェルスは、表象複合体をゲシュタルト質の基礎と呼び、それら全体から立ち現れる表象のことを「ゲシュタルト質」と呼んだ。たとえば、音楽のメロディは、要素音を基礎としたゲシュタルト質である。
エーレンフェルスは、マッハ同様、ゲシュタルト質は感覚に知的作用を介さずに直接与えられるものだとした。
マイノングとグラーツ学派
マイノング (1853-1920) は、エーレンフェルスのゲシュタルト質が実在であるかのように見えることを批判し、「高次の内容」(のちには「高次の対象」)と言い換えた。そして、「高次の内容」は直接与えられるものではなく、知的作用の介入が必要だとした。同じ「基礎」を見ていても、異なる「高次の対象」が形成されることがある。
ベルリン学派
ベルリン学派とは、マックス・ウェルトハイマー (1880-1943)、クルト・コフカ (1886-1941)、ヴォルフガング・ケーラー (1887-1967) の3人である。
ウェルトハイマーは、「φ現象」を確認した。それは、一定の距離を離して置かれた2つの光点を適当な時間間隔で点滅すると、一方から他方に向かう見かけの運動が知覚されるという現象である。運動が近くされるとき、光点は知覚されず、光点が知覚されるときは運動は知覚されない。すなわち、ゲシュタルトは要素的感覚に分けられないことがある。
このようにしてベルリン学派は、刺戟と感覚が一対一対応しているという「恒常仮定」を否定した。ここにゲシュタルト心理学が誕生した。1912 年のことであった。
ウェルトハイマーはグループのリーダー格であった。ケーラーはゲシュタルト心理学を理論化した。コフカはゲシュタルト心理学のスポークスマンであった。

第8回 マッハと現象学の系譜

フッサール
フッサールは『算術の哲学』(1891) において、「ゲシュタルト質」に良く似た「図形的契機」あるいは「準質的契機」という概念を提唱する。これは「大勢の人」のように人目で捉えられるまとまり(集合)のことである。
さらにその十年後の『論理学研究』(1901) では「図形的契機」を「直観的内容の統一契機」と言いなおす。
さらにその後の『イデーンI』(1913) においては、「感覚的ヒュレー」と「志向的モルフェー」という概念に変える。「感覚的ヒュレー」は、色とか音とかの一つ一つの感覚の要素で、「志向的モルフェー」は感覚の要素に意味を付与するものである。
のちにサルトルは、ゲシュタルト心理学が感覚的要素を否定したのと同様に「感覚的ヒュレー」を否定する。
フッサールとマッハ
マッハは、物理学から形而上学的要素を除去し、物理学を感性的経験から構成しようとした。フッサールの「現象学」はこれを徹底しようとしたものである。
マッハの「思考経済の原理」とアヴェナリウスの「最小力量の原理」は生物学の進化論にヒントを得たものであった。フッサールは、こうした現実レベルの分析では、論理的思考は解明できないとした。ただし、フッサールは 1920 年代以降「生活世界」へ向かうので、一貫しているわけではない。
ゲシュタルト心理学と現象学
フッサールは、ゲシュタルト心理学が自然主義であるとして批判した。コフカはそれに対し、論理的な関係を心理学に還元しようとしているのではなく、心理的な過程も固有の論理的な関係で組織されているのだとして、そうした批判が当たらないとした。
フッサールを受け継いだメルロ・ポンティは、ゲシュタルト学説を積極的に評価している。

第9回 アインシュタインとフリードリッヒ・アードラーの交友

アインシュタインとマッハ
アインシュタインは、時間と空間の経験性を強調したマッハの影響を受けて、相対性理論を着想した。
フリードリッヒ・アードラー
フリードリッヒ・アードラー (1879-1960) は、チューリッヒ連邦工科大学でアインシュタインの親友だった。
アードラーは理想主義的で、マルクス主義に心酔していた。高潔な人物だったが、生真面目でもあった。
マッハの『仕事の保存律の歴史と根源』に感化されマッハ主義者となり、マルクス主義をマッハ思想と統合しようとした。 マルクス主義を進化論的歴史論だと理解し、マッハも物理学に進化論を取り入れたものだと考えた。
アードラーは、アインシュタインをチューリッヒ大学に推薦し、アインシュタインは職を得ることになった。
アードラーは、1916 年オーストリアのシュテルク首相を射殺し、禁固刑を受けた。
アードラーは、やがて第二インターナショナルの書記となる。第二次世界大戦中はアメリカに亡命していた。

第10回 レーニンとロシア・マッハ主義者たち

レーニンによる経験批判論の批判
レーニンは『唯物論と経験批判論』で、マッハとアヴェナリウスの「経験批判論」をバークリーやヒュームの主観的観念論の再来だとして攻撃した。
ロシア・マッハ主義
アレクサンドル・ボグダーノフ (1873-1928) は、マルクス主義の理論家であった。ボグダーノフは、マルクス主義と経験批判論を結び付けようとした。
ボグダーノフの影響もあって、ロシアにはマッハ主義者が増えていった。
レーニンはマッハ主義を嫌い、1909 年『唯物論と経験批判論』を刊行した。ボグダーノフは「フペリョード派」を結成してボリシェビキから除名された。
ボグダーノフは、物理現象も心理現象も感性的諸要素が組織化されて経験となったものだと見る。組織化の形式は社会的なものだから、科学と技術と社会は相伴って変化するとした。ボグダーノフは、正統派マルクス主義を、マルクスの思想を18世紀唯物論の方向に歪曲したものだと主張した。
ボグダーノフは、マッハやアヴェナリウスは技術インテリゲンツィアで、集団的な実践とか社会的な主体という考え方が無いとして、批判している。
ボグダーノフは、弾圧されたが、その後医学の研究に没頭し、自らの輸血実験に失敗して死亡した。この輸血は、全人類を血縁関係にしたいという彼の考えに基づいて実行されたものであった。

第11回 ウィトゲンシュタイン/ウィーン学団/ケルゼン

ウィトゲンシュタインとマッハ
前期のウィトゲンシュタインは、マッハを嫌っていた。ウィトゲンシュタインは、明晰な記号体系の構築を目指していたのに対して、 マッハは徹底的に相対主義的で明快でなかったからである。
これに対して、後期のウィトゲンシュタインにおいては、現象学は文法であると述べており、マッハを受け継ぐ立場になっている。
マッハは進化論の立場に立っており、マッハにとって、世界は進化の現段階のおいて与えられている感性的諸要素の総体である。 記述者も感性的諸要素の相互依存関係の中にあり、それを離れた超越論的次元は認めない。 ウィトゲンシュタインも、生活の中の言語の機能を生活の中で読み解こうとした。
ウィーン学団とマッハ
1924 年から 1938 年まで、ウィーンで科学者と哲学者の討論サークルができた。これがウィーン学団である。中心人物は、シュリックである。
ウィーン学団は、マッハの現象学を厳密化しようとした。これをラッセルやウィトゲンシュタインの論理学を基礎にして行おうとした。
ケルゼンとマッハ
ハンス・ケルゼン (1881-1973) は、「純粋法学」を提唱した。法命題を、マッハの考える自然法則になぞらえて、法の一般理論を再構成しようとした。法命題は、自然法則と同様、対象に内在するものではなく「思考上の定義」であるとした。

第12回 <力への意志>―ニーチェの哲学I

マッハとニーチェ
マッハ (1838-1916) とニーチェ (1844-1900) は同時代人であり、考え方に共通するところがあった。
「力への意志」
ニーチェの「力への意志」とは「生 (Leben)」のことである。ショーペンハウアーの「生」が非理性的で無方向的だったのに対し、 ニーチェの「生」には、より大きくより強くなろうとする方向性がある。これが「力への意志」である。
認識+真理、芸術+美
より大きくなるためには、まず現段階を見積もって確保し、次に未来の高揚を見積もらなければならない。 この見積もりの目安を「価値」という。現状確保のための価値を定める作用が「認識」であり、それにより定まった価値が「真理」である。 未来の高揚の価値を定める作用が「芸術」であり、それにより定まった価値が「美」である。
「力への意志」には進化論が影響している。
ニーチェにとって、世界とは、成長する「生」の「価値」にしたがって遠近法的に配置された現象の総体である。その背後に「真の世界」などはない。この見方はマッハの感性的要素一元論に通じるものがある。
「認識」とは、生の要求を満たす程度の図式化を転変する混沌に対して押し付けることである。「真理」とは、生が現状を確保するための思い込みであって、誤謬であるといっても良い。これまでは、真理を実体化してきたのでニヒリズムが生じた。

第13回 <力への意志>―ニーチェの哲学II

ヨーロッパのニヒリズム
ヨーロッパでは、長らく信じられてきた形而上学的な価値が力を失った。「神は死んだ」のである。
プラトン以降、超感性的・超自然的な価値があると信じられてきたが、そんなものはもともと無かったのである。それを認め、従来の価値は否定されねばならない。
今や価値は、感性的世界にある「生」の中に求められねばならない。
「認識」よりも「芸術」のほうが価値が高い。芸術は生を刺戟する。認識の精神性よりも、芸術の肉体性こそが生を高める。

第14回 ホーフマンスタールとフッサール

ホーフマンスタール
フーゴー・フォン・ホーフマンスタール (1874-1929) は、「若きウィーン派」の詩人、作家、劇作家である。若いときは耽美主義的な抒情詩を書いていた。
1902 年の『チャンドス卿の手紙』をきっかけに作風が転換する。 ホーフマンスタールは、それまでは外界から受ける印象を描く「印象主義的」な作風であったが、ここからは人間の中のものを外へ出す「表現主義的」な作風に転換する。幻視だとか、日常的なものが不思議な輝きを帯びる瞬間とか、そういう神秘的な体験を表現しようとするようになった。
ホーフマンスタールの作風転換にはマッハの影響があったと言われている。マッハの言う現象学的世界と、神秘的な体験が呼応する。
1906 年に行われたホーフマンスタールの講演に対して、フッサールは長文の手紙で共感を示す。ホーフマンスタールが周囲のものを純粋に美的に感じようとする態度と、現象学的還元に通底するものを感じたのだ。

第15回 ムージルに現れるマッハ/ニーチェ体験

ムージル
ローベルト・ムージル (1880-1942) もまたマッハとニーチェに影響を受けた作家である。
ムージルは、ニーチェに感銘を受けたという日記を書いている。さらに、マッハに関する学位論文を書いている。
『特性のない男』
『特性のない男』は、ムージルの未完の大作である。
マッハとニーチェは、因果概念や自我の概念を否定している。こういったことが、ムージルの文章の背後に見える。
ムージルの「可能性感覚」は、フッサールの「本質直観」に近い。
ムージルの「ユートピア」は「可能世界」と言い換えても良い。
ムージルの「可能的なもの」には「ゲシュタルト」を思わせる部分がある。

第16回 マッハに感応するヴァレリーとムージル

ヴァレリーとマッハ
ポール・ヴァレリー (1871-1945) は、もちろん著名な詩人である。
ヴァレリーは 1908 年、自分の独創的な考えだと思ったことがすでにマッハによって提案されていることを知り、ショックを受ける。1912 年ころから立ち直って詩作に励む。
ヴァレリーとムージル
ムージルの『特性のない男』の主人公ウルリッヒの原型は、ヴァレリーの「テスト氏」だったという論説がある。
ヴァレリーとニーチェ
デリダは、ニーチェとフロイトがヴァレリーの源泉の一つだと見ている。

第17回 二十世紀思想の展開

その後の物理学
相対論と量子論の登場によって、物理学は一変した。
その後のロシア・マッハ主義
政治家レーニンによって、ロシア・マッハ主義は歴史から消し去られた。
その後の心理学
その後、心理学では行動主義が支配的になり、意識については語られなくなった。1960 年代の認知心理学の時代になって、ゲシュタルト理論は再評価された。
実体的思考から構造的思考へ
カッシーラーは、数学における群の役割と心理学におけるゲシュタルトの役割の平行性を指摘した。それは、要素よりも要素間の構造に目を向けるということである。
メルロ・ポンティは、ゲシュタルト心理学をより徹底して、物質・生命・精神を実体と見るのではなく、構造の統合度の異なる三秩序であると見た。
フッサール
フッサールの現象学の根幹にはマッハがある。
心理学は、直接経験している心理現象を記述し、その内的構造や現象相互の関係の記述に終始すべきだと、フッサールは提唱した。
現象学的還元とは、われわれの意識の中でどうやって物や世界の概念が作られるのかを見届けようとする企てである。
ハイデガーとニーチェ
ハイデガーは、ニーチェの影響を受けて、西洋哲学の存在概念の相対化を図った。それは書かれなかった『存在と時間』下巻でなされるはずだった。
まとめ
マッハとニーチェはその後の思想に大きな影響を及ぼしている。