続・シルクロード10の謎 流砂に消えた王国・タクラマカン砂漠からの報告
中村清次 著
NHK カルチャーラジオ 歴史再発見 2015 年 1~3 月、NHK 出版
刊行:2015/01/01(発売:2014/12/25)
福岡天神のジュンク堂福岡店で購入
読了:2015/03/31
NHK 特集「シルクロード」の取材をしていた著者が、西域のオアシス王国の謎を紹介するという趣向の番組である。
いろいろな時代のことを順不同で紹介しているので、とりとめがないといえば、とりとめがない。
そこはかとなくロマンを感じましょ、という番組であった。
テキスト+放送のサマリー
第1回 謎の巨大王国「タクラマカン」
- 「タクラマカン」は「一度入ったら出られない」という意味だと言われていたが、今はそれが本当とは思われていない。
- 「タクラマカン」というのはけっこう新しい単語らしい。昔は、固有名詞では呼ばれていなかったようだ。
- スウェン・ヘディンは、地元の言い伝えを収集して、探検ルートを決めた。その中で「タクラマカン」の名前を聞いた。
ヘディンの『アジアの砂漠を越えて』によれば、「タクラマカン」は、もともと伝説の巨大王国の名前であったようである。
- 「タクラマカン」は「扜弥(うび)王国」に相当するかもしれない。これについては、別の回に取り上げる。
- スウェン・ヘディンは、1895 年、砂漠を横断して九死に一生を得る(死のキャラバン)。
メルケトを出発してマザーターグを目指した。25日分の水を用意していたつもりだったが、従者は5日分しか用意していなかった。
節水したものの、出発して20日で水が尽きた。そこで、ヘディンは、ラクダや荷物や従者を置き去りにして、一人でホータン河を目指した。
彼はようやく水たまりに到達して命拾いをした。
- ヘディンは、カシュガルに戻り、翌 1896 年、ホータンから2度目の探検に入る。そして、遺跡を発見した。
ヘディンは、これを「タクラマカン」だと考えた。
- その 4 年後の 1900 年、オーレル・スタインが同じ遺跡に入った。ホータンの人々に従い、スタインは「ダンダンウィリク」遺跡と名付けた。
第2回 一枚の絵「蚕種西漸図」は語る
- 玄奘三蔵は、ホータン王国に絹の製法が東方から伝わったときの伝説を『大唐西域記』に書き記した。
それによれば、東国のお姫様が嫁いできたときに、帽子に隠して桑と種と蚕の卵を持ってきた。
この伝説が真実だとわかったのは、Sir Aurel Stein が 1900 年に発見した板絵「蚕種西漸図」による。
Stein による板絵の解釈によれば、ホータン王国に中国のお姫様が嫁いできたときに、髪飾りに隠して蚕の卵を持ってきた。
- しかし、これには謎がいろいろある。たとえば、ホータンに養蚕が伝わったのがいつだったのか?
どうやって蚕の卵が孵ったり死んだりしないようにして持って来られたのか?
- 古代中国では、絹づくりのノウハウを持ちだすことを禁止していた。禁止令は、7世紀に始まる唐の時代にもあったが、
実はそれより前の6世紀にすでに東ローマ帝国にすでに蚕と桑が密輸入されていたことがわかっている。
ヨーロッパの研究者によれば、4、5世紀にはペルシア、シリアに伝わっており、
ホータンには遅くても西暦3世紀(実際はおそらく西暦1世紀まで)には伝わっていたと考えられる。
- ホータンの郷土史家の李吟屏は、ホータンに絹づくりを伝えた東国は、中国ではないと考えている。
というのは、(1) 蚕の卵を仮眠状態で長い間保持するのは難しい (2) 中国にはそのようなお姫様の記録が残っていないからである。
したがって、ホータンのすぐ東にあった国から伝わってきたのであろう。伝わってきたのは、遅くても3世紀であろう。
1世紀には伝わっていたという考えもある。というのは、後漢の歴史書に、ホータンが匈奴に絮(じょ)を納めたという記録があるからである。
- ホータンで作られた絹は、粗かったらしい。というのは、ホータンは仏教国だったので、蚕の蛹を殺せなかった。
そこで、蛹が繭を食い破って出てきた後の繭を使ったので、糸が切れ切れになってしまったからだ。
第3回 砂に埋もれた大画廊~姿を現した幻の画家集団・尉遅(うっち)派
- ホータン王国の王家出身の尉遅(うっち)派の画家が、唐でも人気だった。しかし、その作品は残っていないと言われていた。
- ところが、2005 年の『新シルクロード』の放送で、ホータンから尉遅派の壁画が2つ発見されたと伝えられた。
尉遅派の絵画の特徴は、強い輪郭線の「屈鉄線(鉄線描)」であったとされる。
- 壁画の一つは、ホータンの東 90 km のドモコ村の近くで見つかった。それは、小さな仏教寺院の壁画だった。
発掘に当たった巫(ふ)教授は、この遺跡を「トプラクトン仏寺」と名付けた。
巫教授は、発見当時、遺跡は 5, 6 世紀のものだと言っていたが、2005 年の『新シルクロード』では、
壁画は 7 世紀終わりから 8 世紀の尉遅派のものだとしている。
さらに、「トプラクトン仏寺」の近くで、2006 年中国社会科学院が「トプラクトン仏寺2号遺跡」を見つけた。
- もう一つの遺跡は、ホータンの北東 160 km のダンダンウィリク遺跡である。2002 年に日中共同調査隊が壁画を発見した。
力強い輪郭線で、尉遅派のものとされた。放送では「西域のモナリザ」と呼ばれていた。
- 「西域のモナリザ」と似た壁画が、ウズベキスタン南部にある騎馬民族エフタルの遺跡やバーミヤンにもある。
第4回 古代ホータン王国の都を探せ
- 古代ホータン王国は、日本にとっては仏教のふるさと、中国にとっては玉のふるさと、西洋にとっては絹の製法のふるさとである。
- 古代ホータン王国の王城がどこだったのか、いまだによくわかっていない。
- 王城の所在地に関しては、ヨートカン遺跡とマリクワト遺跡の2説がある。
- Stein がヨートカン遺跡説を唱えた。『法顕伝』と『大唐西域記』には、王城の西方二、三キロのところに大寺院があることを記している。
Stein は、ヨーカトン遺跡西方にある仏塔と「サモジョー僧院」という巡礼地がそれに相当すると考え、ヨーカトン遺跡が王城だとした。
- 中国の考古学者である黄文弼がマリクワト遺跡説を唱えた。
第5回 王国が忽然と消えた「扜(う)弥(び)王国」の謎
- 前漢の時代、西域には、古代ホータン王国(于闐王国)と並ぶ大国として「扜弥(うび)王国」があった。西暦2世紀に于闐王国に呑み込まれる。
- 紀元前 100 年ころ、亀茲王国が、扜弥王国の太子の頼丹を人質に取っていたという記述がある。
- 亀茲王国はギリシャ・ローマ民族に近く、扜闐王国は騎馬民族スキタイに近かったらしい。
- 後漢が始まった西暦 25 年ころには、西域では莎車王国が力を増していたが、西暦 58--75 年の明帝の時代に于闐王国に滅ぼされる。
- 扜弥王国の位置は、タクラマカン砂漠の中のケリヤ河沿いだったかもしれない。
第6回 歴史書が記さなかった王国「エンデレ王国」の謎
- 現在の西域南道は、かつてより 70~100 km ほど南を通っている。現在は昔よりも砂漠が広がっているのだろう。
- 昔の西域南道沿いのエンデレ河沿いに「エンデレ故城」がある。このエンデレについては、中国の正史は何も記していない。
仏像の無い仏塔があることから、比較的古い形式(3~4世紀?)のものだと考えられる。
玄奘三蔵の『大唐西域記』にある荒れ果てたトカラの故地がそれに相当するかもしれず、とすれば 7 世紀にはもう人が住まなくなっていた。
- エンデレから西へ 120 km のところにあるニヤ遺跡からカローシュティー文字の木簡が大量に発見された。
その木簡から鄯善王国の様子が分かってきた。文字が記されたのは 3~4 世紀である。
- 鄯善王国は、敦煌あたりからニヤ遺跡あたりまでを支配する広い王国で、ガンダーラ語を公用語としていた。
この王国は、ササン朝ペルシアに滅ぼされたガンダーラ王国からの移民が支配する国であったと考えられる。
「エンデレ」は、木簡に書かれた「サチャ」州に相当すると考えるのが良さそうだ。
第7回 天下一の大金持ち「鄯善王」と財宝の行方
- 1 世紀半ば以降少なくとも 2 世紀の間、西域南道には、于闐王国(うてん、古代ホータン王国)と鄯善王国(旧・楼蘭王国)の2つの大国があった。
- 5 世紀半ば、五胡十六国の時代は、北魏の華北統一によって終わりを告げた。さらに、鄯善王国も北魏に滅ぼされた。
- この混乱の中で、天下一の大金持ちであったはずの鄯善王の財宝は且末国(しょまつこく)の且末城に搬送されていたという記述が『魏書』にある。
- しかし、且末国王城はいまだに見つかっていない。
第8回 湖畔の美女「ロプの王女」は語る
- 多くのミイラが発見されている。年代はいろいろ。
- 1934 年、ヘディンは、絹に包まれた「ロプの王女」を見つけた。その翌日には、絹の無いミイラを見つけた。
- 後に分かったところでは、絹の無いミイラは、4000 年前の古代のもので、中国・中原の文化の影響がない。
一方、絹のあるミイラには、中国・中原の文化の影響がある。西域に中国から絹が大量にもたらされたのは、
前漢の武帝(在位 141BC--87BC)が張騫(ちょうけん)を派遣した 119 BC 以降である。
第9回 身長180センチ「墨山国・仮面のミイラ」の証言
- ロプノールに注ぐ孔雀河のほとりの「営盤遺跡」から 1995 年に長身の男性のミイラが発見された。国際色豊かな衣装をまとっていた。
- 前漢時代の『漢書』に「山国(墨山国のこと)」が登場する。この中心的な街が「営盤」であった。西域36か国の中で中程度の規模の国であった。
- 後漢時代の『後漢書』では、墨山国は鄯善王国(旧・楼蘭王国)の支配下にあるような書かれ方がされている。
3~4世紀には、鄯善王国の公用語はガンダーラ語であった。前述のミイラもこの時代のものであろう。
だからこそ、国際色豊かだったのではないか。
- 営盤遺跡からは、匈奴に対する防衛施設、寺院、墓地、居住地などが見つかった。墓の副葬品には、東西文化の影響が見られる。
- 鄯善王国最盛期の1~3世紀の遺跡には、際立った東西文化の融合が見られるものがある。(1) 米蘭(ミーラン)仏教遺跡
(2) LC遺跡(孤台墓地) (3) 営盤遺跡。
第10回 楼蘭の「極彩色壁画古墳」の証言
- 2003 年、今から 1800 年くらい前の楼蘭の遺跡(楼蘭壁画墓)が見つかった。極彩色の壁画のある古墳であった。
楼蘭故城から北東へ向かう道(北東への道)に沿ったところにあった。
- この「北東への道」の重要性を認識したのは、探検家 Stein であった。Stein は、この道に沿っていくつかの遺跡を見つけた。
LC(孤台遺跡)、LE(方城遺跡)が代表的である。この「北東への道」は西暦 330 年ころ放棄されたと Stein は考えた。
- 楼蘭壁画墓は、方城遺跡の近くにあり、丘を利用した横穴式墳墓であった。盗掘されていた。
大量の壁画が残っていた。仏教の図もあるが、動物咬合図、金銀のラクダ、一角獣などの動物が多い。
六体の人物像があって、ソグド風の服装をまとっている。図の様式から見て 3--4 世紀ころのものと見られる。
- 古墳の主がどのような人物であるかに関しては諸説ある。3--4 世紀ころだとすると、古代楼蘭王国の人々ではないであろう。
大阪教育大学の山田勝久は、壁画の人物像の服や顔立ちからしてソグドの大金持ちだと推測している。
第11回 漢代の西域指令本部「烏塁城」を探せ
- 漢代の西域指令本部「烏塁城」は、おおよその場所はわかっているが、城跡がいまだに発見されていない。
- 『漢書―西域伝』の記述から、烏塁城は西域を統括していて、60BC--23AD までの間存在したことがわかっている。
- 97BC 漢の武帝は、第15次匈奴討伐軍を出動させたが惨敗。90BC にふたたび第16次匈奴討伐軍を出動させたが敗北。
武帝はこれを反省し、自己批判「輪台の詔」を出した。内容は、輪台において屯田を止めるということだった。87BC、武帝死去。
- 85BC 頃から匈奴内部で内紛が起こる。60BC には匈奴の日遂王(につちくおう)が漢王朝に投稿する。
そこで、すかさず漢王朝は、烏塁城に「西域都護府」を設置した。このあたりには広大な土地があり、灌漑すれば畑作ができた。
位置としても西域の中央部で、西域の軍事拠点として都合が良かった。
第12回 天山山中の大草原・バインブルグ~シルクロードの要衝「西突厥」の大王庭
- 384AD、亀茲王国と西域西部の連合軍と、五胡十六国時代の前秦と西域東部の連合軍とが激突した。
その結果、前秦連合軍が勝ち、将軍呂光は、名僧・鳩摩羅什を連れ帰った。
このとき中国にもたらされた亀茲の音楽は、わが国の雅楽の祖先の一つと言われている。
- 負けた亀茲王の白純はどこに行ったのであろうか?ひとつの候補は天山山地のバインブルク草原である。
- 552AD、もともと鍛冶職の奴隷であったトルコ系の突厥が、主君に当たる柔然と闘い、勝った。
突厥初代の王は、イリ可汗である。現在、トルコ共和国では、この 552AD を建国の年としている。
- その後、イリの弟のイステミは西突厥を作り、西方に版図を広げ、東ローマと友好関係を結ぶ。
このころには絹織物の中国独占が崩れており、東ローマではペルシアから粗絹の輸入をしていた。
ところが、ペルシアとの関係悪化で、東ローマは困っていた。それで、西突厥との友好関係が結ばれることにより、
シルクロードを通じて東西の絹貿易が行われることとなった。