良寛詩歌集

著者中野東禅
シリーズNHK 100分de名著 2015 年 12 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2015/12/01(発売:2015/11/25)
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2015/12/23

「100分de名著」に心和み系登場である。 「100分de名著」にしては珍しく、著作のあらましを知るというよりも、良寛の生き方を知るという感じの強い内容であった。 実直で融通の利かない人柄は、今なら高機能自閉症スペクトラムという名前がついてしまうかもしれないけれど、 であればこそ禅僧として原始仏教の理想とする生き方に近い生き方ができたのだとも言える。 良寛が漢詩をたくさん作っていることは初めて知った。そのことからもわかるように学識が高かったにもかかわらず、 世俗的な欲は皆無で、聖人として生き得たというのは驚異的である。

これまた初めて知ったのだが、良寛の作品を慕う人は数多かったようである。書評家の松岡正剛が千夜千冊の その記念の千冊目に良寛を選び、そこにそのようなことを書いていた。

生涯身を立つるにも慵(ものう)く 騰々 天真に任(まか)す
嚢中 三升の米 炉辺一束の薪
誰か問はん迷悟の跡(あと) 何ぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)
夜雨 草庵の裡(うち) 双脚 等閑(とうかん)に伸ぶ

無一文で生きたようだが、漢詩を作るときに辞書や漢籍は要らなかったのかなあと余計な心配をしてしまう。 そういう書物は誰か持ってきてくれる人がいたのか、記憶力が高かったのかいずれであろうか。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 ありのままの自己を見つめて

良寛の前半生
1758年生。新潟県出雲崎出身。
名主の家の長男として生まれる。
18 歳のとき、名主見習いとなったが、その仕事に耐えられず、出家して禅の道に入る。
22 歳のとき、岡山県備中玉島の円通寺に移る。そこは曹洞宗の寺で、国仙和尚の下、厳しい修行生活を行う。修行の中で「清貧」の意味を悟る。清貧こそが欲望を超える道だと直感した。
33 歳で修行を成就したと認められ、円通寺を出る。
その後5年間、諸国行脚を続け、托鉢で暮らす。その間、自分との対話を深めていった。
38歳で故郷に戻る。乞食僧として生涯を過ごす。
縁に生きる
修行していたとき、泥棒に間違えられても、弁明しなかった。
「我が生何処より来り、去りて何処にかゆく。(中略)尋思するも始めを知らず、いずくんぞよくその終わりを知らん。現在もまたしかり、展転してもすべてこれ空。空中にこそ我あり、いわんや是と非とあらんや。些子を容るるを知らず、縁に随ってまさに従容たり。」

第2回 清貧に生きる

越後の良寛
39 歳で、越後に戻って、国上寺(今の燕市国上)の五合庵で約 20 年暮らす。
その後、59 歳のときに、国上山の麓の乙子神社の草庵に移り住む。
さらに、69 歳になると、和島村島崎(今の長岡市島崎)の木村家の納屋に住む。
自由気ままに貧乏生活をする。そして、詩作に励む。
長岡藩主に長岡に寺を建てるから来て欲しいと誘われるが、断る。「たくほどは風がもてくる落葉かな」
良寛の批判眼
形や規則にとらわれない。ニシン(生臭もの)しかないときは、ニシンも食べる。すると、蚊に刺されても気にならない。
戒語を、自分の戒めになるように、メモに書いて貼っておいた。「こころあさくおもはるるは、しもべをつかふにことばのあらけなき」
生きる手本になる
泥棒に布団を盗ませてやった。
割られそうになったボロボロの鍋蓋に「心月輪(しんがちりん)」と書いた。心は月のように丸くありたい、という意味。鍋蓋は落し蓋だから、いろいろな味が染み込んでいる、ということが背景にあるのかもしれない。
世間とつかず離れず
「世の中にまじらぬとにはあらねども ひとり遊びぞわれはまされる」

第3回 「人」や「自然」と心を通わす

子供と遊ぶ
「鉢の子に菫たんぽぽこきまぜて三世(みよ)の仏にたてまつりてな」子供たちが良寛の托鉢の鉢を奪って、その中に花を入れて仏を拝むまねごとをしている様子をうたったもの。
良寛はいつも手毬を持っていた。
良寛は夢中で子供と遊んだ。
良寛は飾らない純真さを愛した。
良寛の友人
人間のあり方や風流を語り合う友人がいた。
同時に孤独に満ち足りていた。
良寛の実家
実家の橘屋は傾いていた。弟の由之(ゆうし)もその子の馬之助も放蕩生活をしたため、実家は没落。
弟や甥に意見せよと言われて行ったものの、なかなかきつくは意見できなかった。自分が家を投げ出したという負い目もあったのだろう。
自然とのかかわり
自然と楽しんで向き合う。
「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ。花開く時、蝶来り、蝶来る時、花開く。吾もまた人を知らず、人もまた吾を知らず。知らず、帝則に従う。」

第4回 「老い」と「死」に向き合う

老いを表現する
「老いが身のあはれを誰に語らまし杖を忘れて帰る夕暮れ」
病を表現する
「四大、不安にあたり、累日、枕衾に倚(よ)る。牆(かきね)は頽(くず)る、積雨の後(のち)、窓は寒し、脩竹の陰。幽径、人跡絶え、空階、蘚華深し。寥落、かくのごときあり、何によってか我が心を慰めん。」(四大=人の身体のはたらきのことで、地大、水大、火大、風大の4つから成る)
死を語る
越後三条の大地震に関する手紙への返事:
「うちつけに死なば死なずてながれへばかかる憂き目を見るがわびしさ」(うちつけに=ぽっくり)
「しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これは災難をのがるる妙法にて候 かしこ」
死を迎える(1831年歿)
「形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉」