実存主義とは何か 実存主義はヒューマニズムである

著者Jean-Paul Sartre
訳者伊吹武彦
シリーズサルトル全集 第十三巻
発行所人文書院
刊行1955/07/30(初版)、1981/10/20(改訂重版)
原題L'existentialisme est un humanisme
原出版社Éditions Nagel
原著刊行1946
入手はるか昔のことで忘れた
読了2015/11/21

サルトル 実存主義とは何か

著者海老坂武
シリーズNHK 100分de名著 2015 年 11 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2015/11/01(発売:2014/10/25)
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2015/11/27

『実存主義とは何か』はこれまでに2度読んだことがあると思う。最初が高校生のときで、次が大学院生くらいのときだったと思う。 最初はあんまりわからず、2度目はだいぶんすっきりわかったように思う。3度目の今は、多少批判的にも読めるようになった。

基本的には、かっこいい、というかいわゆる「男らしい」自由宣言である。自分は自由に自分自身を作るんだ、自分が自分自身を作るんだから何事も自分に責任があるんだ、しかもそれは世界全体にコミットすることだから世界全体に対して責任があるんだ、としている。

これは無神論の完成宣言でもある。神がいないんだから何をしても「自由」なんだというわけである。無神論が完成するのが西欧ではこんなに最近だったんだというのも、そういう文化圏ではない私たちにとってはびっくりすることでもある。つまり、キリスト教世界では、神と倫理があまりにも強く結びついていたために、なかなか脱出に手こずったようだということがわかる。翻って日本では、江戸時代には倫理は儒学と結びついていたわけだが、明治維新、敗戦という2度の大きな変革を経て、倫理は空気とともに浮遊している感じがする。

今読み返してみると、やはりちょっと古い感じがする。「実存は本質に先立つ」というのはある種正しいけど、先天的に決まるような性質や性格もけっこうあるということも近年ではいろいろ確かめられたと思うので、やはり生物学的な事実と整合性のある哲学がまた改めて必要だろうと思う。

倫理学としてみると、結果主義ではなくて義務論ということになる。立派な行動であるかどうかを決める基準は、世界全体に責任を取れるような自由の名の下になされているかどうかである (p.66)。で、もちろんこれだけで行動を一意的に決められるわけではないけれども、それは構わないのだというのがサルトルの考えである。

『100分de名著』の方は、『実存主義とは何か』だけだとちょっと薄っぺらいので、『嘔吐』や『存在と無』などの代表作の関連部分もあわせて読むことで、サルトルの実存主義入門という感じになっている。とくに小説『嘔吐』はすべての回で引用されている。

「実存主義とは何か」の翻訳がわかりづらい部分

一箇所意味が通じず変だと思って原文を見たら、ちょっと訳が変だった。実は原文よりPhilip Mairet による英訳のほうがわかりやすいので、それも参考にして訳しなおしてみた。伊吹訳は原文から訳しているということがよくわかるのだが、直訳過ぎて何を言っているのかわかりづらい。
(原文)Je reste dans le domaine des possibilités ; mais il ne s'agit de compter sur les possibles que dans la mesure stricte où notre action comporte l'ensemble de ces possibles. A partir du moment où les possibilités que je considère ne sont pas rigoureusement engagées par mon action, je dois m'en désintéresser, parce qu'aucun Dieu, aucun dessein ne peut adapter le monde et ses possibles à ma volonté.
(英訳)I remain in the realm of possibilities; but one does not rely upon any possibilities beyond those that are strictly concerned in one’s action. Beyond the point at which the possibilities under consideration cease to affect my action, I ought to disinterest myself. For there is no God and no prevenient design, which can adapt the world and all its possibilities to my will.
(伊吹訳)私は可能性の領域にとどまっているのである。しかし可能なものに期待するのは、われわれの行動がこれら可能なものの全体をふくむという、厳密な範囲内のことである。私の考えている可能性が、私の行動によって厳密に拘束されなくなった瞬間から、私は当然そのような可能性に関心を持たなくなる。なぜなら、いかなる神もいかなる意図も、世界とその可能性を私に意志に適応させることはできないからである。[pp.39--40]
(吉田試訳)私は可能性がある範囲内にとどまっているのである。しかし、期待できる可能性の範囲は、私たちの行動がそのような可能性の総体と厳密な意味で関連している場合に限る [これは ne ... que ... 構文(~だけである)。comporte は英語で言うと comprise ということだが、英語で直訳していないところから見ても、直訳だと意味が取れない。comporte には「許容する」という意味もあることを考えて意訳する。]。考えている可能性が私たちの行動と厳密な意味では関連が無くなった瞬間から、私はそれに関心を持ってはならない。なぜなら、どんな神も、あるいはどんな意図も、世界とその可能性を私の意志に合わせることができないからである。[この後も読むと意味がはっきりするが、全体としては、要するに、他人の行動などの自分がコントロールできないものに期待しちゃいけないよってこと。]

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 実存は本質に先立つ

本書について
1945年のサルトルの講演を出版したもの。第二次世界大戦直後の混乱した時代であった。
サルトルは、当時サン・ジェルマン・デ・プレの一角のホテルでボーヴォワールと同棲していた。そうして、一日中カフェでものを書いたり、若者たちと議論したりしていた。
実存は本質に先立つ
人間の本質は予め決まっているわけではない。人工物とは逆。
それ以前、キリスト教の時代は、人間は神の被造物だから、本質が実存に先立つと考えられていた。無神論者でも、人間の本性というものを考えていた。
実存=existence
本質=essence
「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義される。」(『実存主義とは何か』)
「人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。」(『実存主義とは何か』)
若者には大人たちへの不信が蔓延していた。そこで、主体性をもって自分たちが選択するという主張が説得力を持った。
小説『嘔吐』
主人公ロカンタンが感じた吐き気。それは実存の不安だった。
吐き気=あらゆるものは偶然の産物だという啓示。ありのままの存在を目にした時の気持ち悪さ。
価値を決定するのは自分自身だ。
何ものでもない「生」
「人間とは○○である」という考え方を疑う。
人間は、自分自身で決断して作って行く。
サルトルの前半生
1905 年生。父親は、サルトルが1歳過ぎの頃に亡くなる。
幼い頃から書物人間だった。
高等師範学校で教育を受け、兵役に就いたあと、高校の哲学教師となる。このとき一年間ベルリンで現象学を学ぶ。

第2回 人間は自由の刑に処せられている

人間は自由の刑に処せられている
「人間は自由である。人間は自由そのものである。」(『実存主義とは何か』)
「われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。」(『実存主義とは何か』)
自由なので、不安がつきまとう。
小説『嘔吐』にみる自由
女優アニーは、現実の世界の中に演劇のように「完璧な瞬間」を求めていた。しかし、彼女はそんなことができないことに気付き、金持ちの愛人として自堕落に暮らすようになった。
ロカンタンは、自分に生きる理由が無いと気付いた時、自分が自由であることに気付いた。
ロカンタンは、音楽を聴いていると吐き気がなくなる。それは、音楽も必然的な時間の中に流れているからだ。
そうして、ロカンタンは、小説家になることにする。つまり、自分で物語を作ろうと決意する。
負ける perdre
「負ける」というヴィジョンは、サルトルのいろいろな作品に登場する。
サルトルの理解する現象学では、物についての認識が成立したとき、意識は物に対して「負ける、あるいはおのれを失う」。
サルトルのフローベール論には「負けるが勝ち」という章がある。
サルトル自身の生き方
ボーヴォワールとは生涯にわたって自由な関係を続ける。お互い、他の恋人がいた。ボーヴォワールはバイセクシュアルでもあった。
サルトルもボーヴォワールもそれぞれ一人の人間として生きた。
お金も家も物も最低限しか持たない生活を貫いた。
ノーベル文学賞を辞退した。

第3回 地獄とは他人のことだ

アンガジュマン engagement (英 commitment)
政治参加、社会参加、現実参加
行動すること、そのことによって自分の自由だけでなく他人の自由をも望むこと
他人とは
対人関係はまなざしの闘いである(眼差しの相克)。
他人に見られるということは、自分の世界が盗まれるということである。私は、他人によって規定される(対他存在)。
眼差しの相克
小説『嘔吐』で、ロカンタンは、肖像画のエリートたちに見られている気がする。ロカンタンは、エリートたちの視線に打ちのめされる。ところが、突然、ロカンタンが肖像画のエリートを正面から見返すと、それはぶよぶよした猥雑な肉体に変わった。
「さらば、下種どもよ」(ロカンタンが肖像画の部屋を出る時の言葉)
他者のまなざし(『存在と無』第三部「対他存在」)
即自=事物(実際に存在しているもの) vs 対自=意識(存在しないもの)
対他存在=他者から見られている私
他者から見られることによって、自分の世界が盗まれ、自分が相手に委ねられること=他有化 alienation=疎外
他人の眼差し=自由の受難
「地獄とは他人のことだ」(戯曲『出口なし』)
サルトルが眼差しをこれほどまでに気にするのは、サルトルが自分の薮睨みを気にしていたせいかもしれない。
ジャン・ジュネ(評伝『聖ジュネ』)
ジュネは、少年の時、大人から「お前は泥棒だ!」と決め付けられた。ジュネは、それから泥棒になることによって、自由を得た。
他人からの規定を自分の決定に変えるという「ずれ」のうちにサルトルは自由を見た。
ジュネは、その後、詩人となり、弱者と連帯する活動家になった。
弱者の連帯
他者に見られることで、差別が生まれる。上からの眼差しによって、差別を受ける。
「被抑圧者のうちにおける階級意識の出現は、<対象―われわれ>を羞恥において引き受けることに起因する」(『存在と無』)

第4回 希望の中で生きよ

アンガジュマン
サルトルは、戦前は政治とは無縁だった。生きることの不条理や無意味さを描く小説家だった。
サルトルは、ドイツ軍の捕虜になり、収容所の中で様々の人に接する。そして、パリに戻った後、レジスタンス運動に参加してゆく。
雑誌「Les Temps Modernes(現代)」の中で、作家は状況の中に巻き込まれており、逃れることができないと述べる。
engagement = 自分を拘束すること、自分を巻き込むこと、自分を参加させること。
自由は自分だけのものではない。「アンガジュマンが行われるやいなや、私は私の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。他人の自由をも同様に目的とするのでなければ、私は私の自由を目的とすることはできないのである。」(『実存主義とは何か』pp.64-65)
戦後のサルトル
戦後は、政治に発言する言論人として生きる。反体制的で、弱者や抑圧された人々を支援していた。サルトルの考えに皆が注目した。
1966 年、来日。日本でもサルトルブームが起こった。
ヒューマニズム(人間中心主義)
戦前の『嘔吐』では、「独学者」のヒューマニズムにロカンタンは吐き気を催していた。しかし、戦後はヒューマニズムを高らかに宣言する。
ヒューマニズムといっても、人間を礼賛するのではない。投企と主体性を結合させるのが、実存主義のヒューマニズムである。
投企
投企=project、前に投げる
「人間は主体的にみずからを生きる投企なのである。」(『実存主義とは何か』)
戦後のサルトルの4つの方向性
(1) マルクス主義を作り直す試み。労働の中に自由の可能性を読み取ろうとする。
(2) 文学のアンガジュマン。物と物との関係は人間が作り出す。文学作品は、読者の意識の自由の中で完成する。
(3) 弁証法的理性批判。史的唯物論の中に他者論を組み込む。未完。
(4) 他者性の中の人間存在の追究。反逆による疎外からの解放。
サルトルのラストメッセージ
「私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これを作り出さねばならない。」(『いま、希望とは』)
サルトルは、認識は悲観的であっても、意識は楽観的であった。
人間の運命は、人間の手中にある。