『実存主義とは何か』はこれまでに2度読んだことがあると思う。最初が高校生のときで、次が大学院生くらいのときだったと思う。
最初はあんまりわからず、2度目はだいぶんすっきりわかったように思う。3度目の今は、多少批判的にも読めるようになった。
基本的には、かっこいい、というかいわゆる「男らしい」自由宣言である。自分は自由に自分自身を作るんだ、自分が自分自身を作るんだから何事も自分に責任があるんだ、しかもそれは世界全体にコミットすることだから世界全体に対して責任があるんだ、としている。
これは無神論の完成宣言でもある。神がいないんだから何をしても「自由」なんだというわけである。無神論が完成するのが西欧ではこんなに最近だったんだというのも、そういう文化圏ではない私たちにとってはびっくりすることでもある。つまり、キリスト教世界では、神と倫理があまりにも強く結びついていたために、なかなか脱出に手こずったようだということがわかる。翻って日本では、江戸時代には倫理は儒学と結びついていたわけだが、明治維新、敗戦という2度の大きな変革を経て、倫理は空気とともに浮遊している感じがする。
今読み返してみると、やはりちょっと古い感じがする。「実存は本質に先立つ」というのはある種正しいけど、先天的に決まるような性質や性格もけっこうあるということも近年ではいろいろ確かめられたと思うので、やはり生物学的な事実と整合性のある哲学がまた改めて必要だろうと思う。
倫理学としてみると、結果主義ではなくて義務論ということになる。立派な行動であるかどうかを決める基準は、世界全体に責任を取れるような自由の名の下になされているかどうかである (p.66)。で、もちろんこれだけで行動を一意的に決められるわけではないけれども、それは構わないのだというのがサルトルの考えである。
『100分de名著』の方は、『実存主義とは何か』だけだとちょっと薄っぺらいので、『嘔吐』や『存在と無』などの代表作の関連部分もあわせて読むことで、サルトルの実存主義入門という感じになっている。とくに小説『嘔吐』はすべての回で引用されている。
「実存主義とは何か」の翻訳がわかりづらい部分
一箇所意味が通じず変だと思って
原文を見たら、ちょっと訳が変だった。実は原文より
Philip Mairet による英訳のほうがわかりやすいので、それも参考にして訳しなおしてみた。伊吹訳は原文から訳しているということがよくわかるのだが、直訳過ぎて何を言っているのかわかりづらい。
(原文)Je reste dans le domaine des possibilités ; mais il ne s'agit de compter sur les possibles que dans la mesure stricte où notre action comporte l'ensemble de ces possibles. A partir du moment où les possibilités que je considère ne sont pas rigoureusement engagées par mon action, je dois m'en désintéresser, parce qu'aucun Dieu, aucun dessein ne peut adapter le monde et ses possibles à ma volonté.
(英訳)I remain in the realm of possibilities; but one does not rely upon any possibilities beyond those that are strictly concerned in one’s action. Beyond the point at which the possibilities under consideration cease to affect my action, I ought to disinterest myself. For there is no God and no prevenient design, which can adapt the world and all its possibilities to my will.
(伊吹訳)私は可能性の領域にとどまっているのである。しかし可能なものに期待するのは、われわれの行動がこれら可能なものの全体をふくむという、厳密な範囲内のことである。私の考えている可能性が、私の行動によって厳密に拘束されなくなった瞬間から、私は当然そのような可能性に関心を持たなくなる。なぜなら、いかなる神もいかなる意図も、世界とその可能性を私に意志に適応させることはできないからである。[pp.39--40]
(吉田試訳)私は可能性がある範囲内にとどまっているのである。しかし、期待できる可能性の範囲は、私たちの行動がそのような可能性の総体と厳密な意味で関連している場合に限る [これは ne ... que ... 構文(~だけである)。comporte は英語で言うと comprise ということだが、英語で直訳していないところから見ても、直訳だと意味が取れない。comporte には「許容する」という意味もあることを考えて意訳する。]。考えている可能性が私たちの行動と厳密な意味では関連が無くなった瞬間から、私はそれに関心を持ってはならない。なぜなら、どんな神も、あるいはどんな意図も、世界とその可能性を私の意志に合わせることができないからである。[この後も読むと意味がはっきりするが、全体としては、要するに、他人の行動などの自分がコントロールできないものに期待しちゃいけないよってこと。]