島原大変

著者白石一郎
シリーズ文春文庫 し 5 4
発行所文藝春秋
刊行1989/02/10、刷:1991/06/30(第3刷)
文庫の元になった単行本1985/04 文藝春秋刊
入手福岡百道のTNC会館で行われた古本市「第13回ももち古本まつり」で購入
読了2015/05/30
参考島原半島世界ジオパーク 『島原大変』の参考になる

九州の戦国・江戸時代ものの中編4篇『島原大変』『ひとうま譚』『凡将譚』『海賊たちの城』から成る。 いずれもヘンな殿様に翻弄されるマトモな人々を生き生きと描いていて面白い。今住んでいる九州ゆかりの話ということでも興味深い。

『島原大変』は、雲仙火山の寛政の噴火と眉山崩壊に伴う騒動を背景にして、青年医師小鹿野一伯の成長を描いたいわば Bildungsroman である。 一伯は父の代からの島原藩お抱えの医師で、藩主松平忠恕(ただひろ)の持病の臓躁(痙攣を伴う精神疾患か?)の症状をただ一人治めることができた。 藩主は、律義小心で気が弱く、婦人の臓躁と同じ対処をすればよいと気付いたからだった。一伯は秀才で、長崎に遊学し、 島原の他の医者を馬鹿にしているようなところもあった。ところが、眉山崩壊とそれに伴う大津波で多数の怪我人が出たとき、 それに対処する自分の腕が町医者にも劣ることに気付き、ベテラン医師に学びつつ怪我人の手当てを続ける。そのとき、 ずっと気丈に手伝ってくれたのが藩士向井半太夫の妹の愛であった。

さて、ここで描かれている火山活動がどの程度の史料を基にしているのか不明だが、 山本主税『「嶋原大變記」にみる島原藩士の精神と救護活動 』を見ると、詳しく史料を見ているらしいことがうかがえる。 この作品は直木賞候補になっていて、選評によると、 「この作者のいつもの癖で、調べたことを残らず書き込んでいるのが、読んでいてわずらわしい。」(村上元三)とのことで、逆に言えば、 けっこう史料に忠実に描いているということであろう。小説だから参考文献が無いのはしょうがないのだが、 火山活動自体にも興味がある私としては、どこまでが史実なのかを知りたかった。

『ひとうま譚』で出てくる殿様は、豊後岡藩の中川久清である。熊沢蕃山に心酔していて幕府には反抗的な殿様だったとのこと。 小柄で足が不自由だったので、「ひとうま」という鞍で担いでもらって山登りをしていた。 で、この小説は、その山登りの世話をしている大庄屋竹下家の嫁のお季と、担ぎ手をしている菅軍蔵の間の淡い恋物語である。

中川久清が愛した大船山は九重連山の一つである。岡城も大船山も今で言えばいずれも竹田市内にある。 岡藩の領地は、竹田を中心として 九重から祖母・傾まで広がる山間地だったようだ。

『凡将譚』では、大友宗麟の息子の義統(よしむね)が、従者の大村左京の眼を通して描かれる。左京は赤毛で大柄の混血の男で、 ビオラが上手く、マトモな人物であり、主君が亡くなるまで仕えていた。義統は、気が弱くて決断力が無く、気性の激しい父母 (宗麟と奈多夫人)と対照的であった。義統は、その性格のために朝鮮の役で敵前逃亡し、秀吉から取り潰され幽囚の身となる。 秀吉の死後、恩赦があるものの、関ヶ原の戦いでは妻子を人質に取られたために西軍に付き、再び幽閉の身となる。 その後は自らを鞭打ちつつ(キリスト教のぢしぴりな discipline)、衰弱して死んでゆく。

『海賊たちの城』は、来島(くるしま)村上水軍の末裔である豊後森藩の藩主久留島通嘉(みちひろ)が三島宮改築と称して城のようなものを 作ろうとする姿を、人夫使いを任された庄屋の高峰喜三次の眼を通して描いている。ここでも、喜三次はマトモな人物である。 通嘉は、大柄で豪放な人物としてえがかれ、大三島の大山祇神社(三島神社の総本社)と来島を訪れたときに、三島宮改築を大事業に変えることをことを思いつく。 森藩は小藩だったので城を作ることが許されていなかった。そこで、神社を城のように立派にすることを思いついた。 しかし、働かされたり年貢を取られたりする百姓にとってはいい迷惑なわけで、重臣や喜三次は間に立って苦しむ。 最後は、通嘉が病に倒れ、日田代官から注意を受けたのを機に工事は中断して、改築は中途で終わる。

小説によれば、工事は文政7年(1824年)に始まり天保2年(1831年)に終わる。しかし、 玖珠町ホームページによると、栖鳳楼の棟上は 天保3年になっている。1年違って書かれている理由は不明である。

豊後森は今は玖珠町で、三島宮は明治時代に末廣神社と名前を変えている。通嘉が改築した三島宮は、 県の文化財になっていて今も健在である。 しかし三島宮という名前が無くなるとどういう神社かわからなくなるのにどうして改称したのだろうか。