オイディプス伝説は、エディプスコンプレックスという語とともに知っていたのだが、ソポクレスの『オイディプス王』はこの「100分de名著」で初めて知り、短いと聞いてちゃんと戯曲を読んでみた。 読み始めてみると、思わず引き込まれて、『アンティゴネ』も含めて一日で読み終ってしまった。 『オイディプス王』『アンティゴネ』は、遠い古代ギリシャの話とはいえ、悲劇のドラマチックさが凝縮されていて、悲劇の典型というのは昔から今までずっと変わらないのだとわかった。登場人物たちは抗えない運命に呑み込まれて不幸な結末へと流されてゆく。それを第三者的なコーラスが盛り上げるというのは、日本の能でも見られるような演出である。コーラスがどんなふうに歌ったのかを想像してみるのも面白い。 その後、『コロノスのオイディプス』も買って翌日には読み終わった。こちらは悲劇ではないが、やはりそれとして盛り上がる。
上演された順番から言えば、『アンティゴネ』→『オイディプス王』→『コロノスのオイディプス』なのだが、 扱っている物語の順番は『オイディプス王』→『コロノスのオイディプス』→『アンティゴネ』である。 『オイディプス王』では、オイディプス王が自らの不幸な運命に気づき自らの目を突くまでが描かれる。 『コロノスのオイディプス』は、その後、娘アンティゴネに手を引かれて放浪するオイディプスの死の直前から死までの物語である。 『アンティゴネ』では、オイディプスの息子のポリュケイネスとエテオクレスが合い争って刺し違えて二人とも死んだ後、 禁を犯しポリュケイネスを弔ったアンティゴネとその許婚の王子ハイモンが死に、クレオン王が自らの誤りに気付く。
オイディプス王
『オイディプス王』は、自分のせいではなく出されたアポロンの神託に抗おうとするも、すべてが裏目に出て神託通りに不幸に突き落とされる運命になる悲劇である。オイディプスの性格の方に注目すると、そんなに正義感が強くなければ、ここまでの悲劇にならなかったのにとも思う。が、もちろんこうであればこそ、悲劇の名作となったわけである。
多くの人が、悲劇の最高傑作であると称える。たとえば、「100 分 de 名著」の島田雅彦も、松岡正剛も。2400 年も生き残っているというのは、まあそういうことである。
文庫で探すと、岩波(藤沢訳)、ちくま(松平訳)、新潮(福田訳)の3種類があるようであった。本屋で立ち読みすると、福田訳が一番新しいし読みやすそうだったので、福田訳で読んでみることにした。昔シェイクスピアをよく福田訳で読んでいて、本屋で立ち読みしたときに福田訳がその名調子を髣髴させたせいでもある。Jebb の英訳本に基づいているようだが、それほど古典ギリシャ語からの訳であることにこだわらなければ、福田訳が良いと思った。「100 分de名著」は藤沢訳を採用している。ちくま文庫版は刊行年は新しいが、元の翻訳は古いようである。文庫に限らなければ、蜷川幸雄演出の舞台用に山形治江が現代ギリシャ語台本から訳したもっと新しい訳があるようだ。
その山形氏によれば、福田訳は自由すぎるそうだ。実際、web 上にある Jebb 訳と比べてみると、福田訳ではけっこう自由に言葉を補って訳していることがわかる。おそらく、福田氏は上演を念頭に置いているために、禁欲的に訳して分かりづらいところには註を付けるというスタイルは取りたくなかったものと思われる。言葉を補うことでそのまま上演出来るスタイルにしたかったのであろう。たとえば、冒頭のオイディプスの台詞は、福田訳では「わが子らよ、古き建国の父祖カドモスの子孫、テバイの同胞(はらから)よ。」で始まっているが、ここの「テバイの同胞よ」という部分は、藤沢訳にも Jebb 訳にもない。註無しでも理解できるようにと福田氏が付け加えたものであろう。戯曲の翻訳にはつきまとう問題である。
クライマックスのオイディプスが自分の罪に気付いて嘆く台詞を福田訳と藤沢訳(100分de名著テキスト)で比較してみる。
比べると、福田訳は Jebb 訳が簡潔すぎてわかりづらいところに言葉を足して訳していることがわかる。藤沢訳の方はそれよりも少しあっさりしている。accursed をこんなふうに訳すのは、福田訳は藤沢訳を真似たのだろうか。Jebb 訳:Oh, oh! All brought to pass, all true. Light, may I now look on you for the last time—I who have been found to be accursed in birth, [1185] accursed in wedlock, accursed in the shedding of blood.
福田訳:おお、そうか、そうなのか!すべてが生ずべくして生じたのだ、すべてが本当なのだ!光よ!これがお前の見おさめだ、 生れるべきにあらざる人から生れ、交わるべきにあらざる人と交わり、流してはならぬ人の血を流した呪うべき人間、それがこの俺なのだ!
藤沢訳:ああ、思いきや!すべては紛うことなく、果たされた。おお光よ、おんみを目にするのも、もはやこれまで ―生まれるべからざる人から生まれ、まじわるべからざる人とまじわり、殺すべからざる人を殺したと知れた、ひとりの男が!
コロノスのオイディプス
ここでは、オイディプスが自らの死期を悟り、テセウスの治めるアテナイを祝福した後、従容として死ぬ。神に嫌われていたオイディプスが、神との和解を果たした様子が描かれ、ほっとする。二人の息子が権力亡者で親不孝なのに対して、二人の娘は親孝行で、とくにアンティゴネは目が見えなくなったオイディプスにずっと付き添う神々しいまでに献身的な娘として描かれる。
翻訳は少し古くてわかりづらいところがある。注はそこそこついているものの、アッティカがアテナイとコロノスを含む地域の名前であるとか、カドメイアとテーバイが同じとかいったような大事な点の説明が無いのが困った。今だからネット検索すればすぐわかるけれど、不親切である。こういうのは昔の翻訳ではありがちだけど、岩波も放っておかずに手を加えてもらいたいものだ。
アンティゴネ
『アンティゴネ』は、国家の正義と個人の正義の間の相剋が生む悲劇と言っても良いだろうし、専制君主の我儘が生んだ悲劇と言っても良いだろう。ここでは、『オイディプス王』では冷静だったクレオンが、頑固な君主として登場する。諫言を聞かなかったために、身内の自殺を招き、悲しみのどん底に落とされる。そういう意味でいうと、最近はやりの「愛国心」とか「ぶれない宰相」の陥穽が表現されているとも言えるだろう。「ぶれないで粛々と」物事を進める政治家には天罰が下らないのかな。
『オイディプス王』にも『アンティゴネ』にも、盲目の予言者テイレシアスが登場し、言っていることが本当によく当たる。リアリズムからすれば、もちろんこんな人物はあってはならないわけだが、悲劇で大事なのは運命や宿命だとすれば、それを強調する人物として劇を盛り上げるのに不可欠な人物なのである。盲目であればこそ、真実が良く見えているのである。