オイディプス王・アンティゴネ

著者Σοφοκλησ
訳者福田恆存
シリーズ新潮文庫 3291、ソ 3 1
発行所新潮社
刊行1984/09/25、刷:2014/02/25(14刷改版)
原題Οιδιπουσ Τυραννοσ, Αντιγονη
初演429/420 BC (Oidipous Tyrannos), 442/441 BC (Antigone)
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読了2015/06/07
参考英訳 Sophocles, Oedipus Tyrannus, by Sir Richard Jebb, Ed.

コロノスのオイディプス

著者Σοφοκλεουσ
訳者高津春繁
シリーズ岩波文庫 32-105-3、赤 105-3
発行所岩波書店
刊行1973/04/16、刷:2014/03/14(第24刷)
文庫の元になったもの1964/09 筑摩書房「世界古典文学全集」第8巻
原題Οιδιπουσ Επι Κολωνωι
初演401 BC
入手九大生協で購入
読了2015/06/20

ソポクレス オイディプス王

著者島田雅彦
シリーズNHK 100 分de名著 2015 年 6 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2015/06/01(発売:2015/05/25)
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2015/06/25

オイディプス伝説は、エディプスコンプレックスという語とともに知っていたのだが、ソポクレスの『オイディプス王』はこの「100分de名著」で初めて知り、短いと聞いてちゃんと戯曲を読んでみた。 読み始めてみると、思わず引き込まれて、『アンティゴネ』も含めて一日で読み終ってしまった。 『オイディプス王』『アンティゴネ』は、遠い古代ギリシャの話とはいえ、悲劇のドラマチックさが凝縮されていて、悲劇の典型というのは昔から今までずっと変わらないのだとわかった。登場人物たちは抗えない運命に呑み込まれて不幸な結末へと流されてゆく。それを第三者的なコーラスが盛り上げるというのは、日本の能でも見られるような演出である。コーラスがどんなふうに歌ったのかを想像してみるのも面白い。 その後、『コロノスのオイディプス』も買って翌日には読み終わった。こちらは悲劇ではないが、やはりそれとして盛り上がる。

上演された順番から言えば、『アンティゴネ』→『オイディプス王』→『コロノスのオイディプス』なのだが、 扱っている物語の順番は『オイディプス王』→『コロノスのオイディプス』→『アンティゴネ』である。 『オイディプス王』では、オイディプス王が自らの不幸な運命に気づき自らの目を突くまでが描かれる。 『コロノスのオイディプス』は、その後、娘アンティゴネに手を引かれて放浪するオイディプスの死の直前から死までの物語である。 『アンティゴネ』では、オイディプスの息子のポリュケイネスとエテオクレスが合い争って刺し違えて二人とも死んだ後、 禁を犯しポリュケイネスを弔ったアンティゴネとその許婚の王子ハイモンが死に、クレオン王が自らの誤りに気付く。

オイディプス王

『オイディプス王』は、自分のせいではなく出されたアポロンの神託に抗おうとするも、すべてが裏目に出て神託通りに不幸に突き落とされる運命になる悲劇である。オイディプスの性格の方に注目すると、そんなに正義感が強くなければ、ここまでの悲劇にならなかったのにとも思う。が、もちろんこうであればこそ、悲劇の名作となったわけである。

多くの人が、悲劇の最高傑作であると称える。たとえば、「100 分 de 名著」の島田雅彦も、松岡正剛も。2400 年も生き残っているというのは、まあそういうことである。

文庫で探すと、岩波(藤沢訳)、ちくま(松平訳)、新潮(福田訳)の3種類があるようであった。本屋で立ち読みすると、福田訳が一番新しいし読みやすそうだったので、福田訳で読んでみることにした。昔シェイクスピアをよく福田訳で読んでいて、本屋で立ち読みしたときに福田訳がその名調子を髣髴させたせいでもある。Jebb の英訳本に基づいているようだが、それほど古典ギリシャ語からの訳であることにこだわらなければ、福田訳が良いと思った。「100 分de名著」は藤沢訳を採用している。ちくま文庫版は刊行年は新しいが、元の翻訳は古いようである。文庫に限らなければ、蜷川幸雄演出の舞台用に山形治江が現代ギリシャ語台本から訳したもっと新しい訳があるようだ。

その山形氏によれば、福田訳は自由すぎるそうだ。実際、web 上にある Jebb 訳と比べてみると、福田訳ではけっこう自由に言葉を補って訳していることがわかる。おそらく、福田氏は上演を念頭に置いているために、禁欲的に訳して分かりづらいところには註を付けるというスタイルは取りたくなかったものと思われる。言葉を補うことでそのまま上演出来るスタイルにしたかったのであろう。たとえば、冒頭のオイディプスの台詞は、福田訳では「わが子らよ、古き建国の父祖カドモスの子孫、テバイの同胞(はらから)よ。」で始まっているが、ここの「テバイの同胞よ」という部分は、藤沢訳にも Jebb 訳にもない。註無しでも理解できるようにと福田氏が付け加えたものであろう。戯曲の翻訳にはつきまとう問題である。

クライマックスのオイディプスが自分の罪に気付いて嘆く台詞を福田訳と藤沢訳(100分de名著テキスト)で比較してみる。

Jebb 訳:Oh, oh! All brought to pass, all true. Light, may I now look on you for the last time—I who have been found to be accursed in birth, [1185] accursed in wedlock, accursed in the shedding of blood.

福田訳:おお、そうか、そうなのか!すべてが生ずべくして生じたのだ、すべてが本当なのだ!光よ!これがお前の見おさめだ、 生れるべきにあらざる人から生れ、交わるべきにあらざる人と交わり、流してはならぬ人の血を流した呪うべき人間、それがこの俺なのだ!

藤沢訳:ああ、思いきや!すべては紛うことなく、果たされた。おお光よ、おんみを目にするのも、もはやこれまで ―生まれるべからざる人から生まれ、まじわるべからざる人とまじわり、殺すべからざる人を殺したと知れた、ひとりの男が!

比べると、福田訳は Jebb 訳が簡潔すぎてわかりづらいところに言葉を足して訳していることがわかる。藤沢訳の方はそれよりも少しあっさりしている。accursed をこんなふうに訳すのは、福田訳は藤沢訳を真似たのだろうか。

コロノスのオイディプス

ここでは、オイディプスが自らの死期を悟り、テセウスの治めるアテナイを祝福した後、従容として死ぬ。神に嫌われていたオイディプスが、神との和解を果たした様子が描かれ、ほっとする。二人の息子が権力亡者で親不孝なのに対して、二人の娘は親孝行で、とくにアンティゴネは目が見えなくなったオイディプスにずっと付き添う神々しいまでに献身的な娘として描かれる。

翻訳は少し古くてわかりづらいところがある。注はそこそこついているものの、アッティカがアテナイとコロノスを含む地域の名前であるとか、カドメイアとテーバイが同じとかいったような大事な点の説明が無いのが困った。今だからネット検索すればすぐわかるけれど、不親切である。こういうのは昔の翻訳ではありがちだけど、岩波も放っておかずに手を加えてもらいたいものだ。

アンティゴネ

『アンティゴネ』は、国家の正義と個人の正義の間の相剋が生む悲劇と言っても良いだろうし、専制君主の我儘が生んだ悲劇と言っても良いだろう。ここでは、『オイディプス王』では冷静だったクレオンが、頑固な君主として登場する。諫言を聞かなかったために、身内の自殺を招き、悲しみのどん底に落とされる。そういう意味でいうと、最近はやりの「愛国心」とか「ぶれない宰相」の陥穽が表現されているとも言えるだろう。「ぶれないで粛々と」物事を進める政治家には天罰が下らないのかな。

『オイディプス王』にも『アンティゴネ』にも、盲目の予言者テイレシアスが登場し、言っていることが本当によく当たる。リアリズムからすれば、もちろんこんな人物はあってはならないわけだが、悲劇で大事なのは運命や宿命だとすれば、それを強調する人物として劇を盛り上げるのに不可欠な人物なのである。盲目であればこそ、真実が良く見えているのである。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 運命とどう向き合うか?

『オイディプス王』について
紀元前 430 年ころソポクレスが書いた戯曲。
ギリシャ神話のオイディプス伝説に基づいて、そのクライマックス部分を演劇化したもの。
ギリシャ演劇
もともと神話は、吟遊詩人が一人で語っていた。神話は、口承で伝えられた。
しかし、このころから、複数の人で演じる演劇が作られるようになった。さらに、コロス(コーラス)という語り手役も取り入れられた。
前提となる物語
『オイディプス王』は短い劇で、観客は以下のようなストーリーを予め知っていることになっている。
テバイの王ライオスは不吉な神託を受ける。「息子は王を殺し、王の妃を妻とするであろう。」
その神託の実現を避けるため息子は棄てられたのだが、拾われてコリントスの王子オイディプスとして成長する。 そして、オイディプスはまた不吉な神託を受ける。「父を殺し、母と交わるだろう。」
オイディプスは、この神託の実現を避けようとして他国に放浪する。そのとき、ある老人一行から道を譲れと言われ、怒って殺した。 殺した相手が誰だったのかオイディプスは知らなかったが、それは実の父であるライオスであった。
そのころテバイはスフィンクスに苦しめられていた。スフィンクスが出す謎を解いたオイディプスは、テバイの王となり先王の妃イオカステ(実の母)を娶った。
劇の始まり
テバイでは天災や疫病が続いていた。オイディプスは「先王ライオスを殺した犯人を追放せよ。」という神託を受ける。そこで、オイディプスは断固として真相を暴こうとする。

第2回 起承転結のルーツ

ギリシャの伝統と起承転結の構造
ギリシャ文明の特徴は、海を通じたネットワークにあった。諸学は対話によって磨き上げられた。
ギリシャ悲劇は、そうした対話や議論が視覚化されたものだ。
ギリシャにおける議論をするという風土が、起承転結の構造の洗練をもたらしたのではないか。
【起】謎の提示
テバイには災厄が次々に起きている。先王ライオス殺しの犯人を追放しなければならない。先王ライオスを殺したのは誰か?
【承】移り変わる容疑者
予言者テイレシアスは、自分に疑いをかけられそうになって、本当のことを言わざるを得なくなって、犯人はオイディプスであると言う。オイディプスは、次にクレオンに疑いの目を向ける。
[オイディプスは、自信家でキレやすい。]
【転】犯人探しから自分探しへ
イオカステは、ライオスが子を捨てたことを言う。そして、ライオスは三叉路で殺されたと言う。そこで、オイディプスは自分に思い当たる節があることがわかった。コリントス王の使者が来て、王の死を告げる。そこで、使者は、オイディプスがコリントス王の本当の子ではないと言う。
[ここで、逆転と認知が同時に起こっている。(アリストテレスによる)]
【結】恐ろしい真実
オイディプスはライオスの息子であることが明らかになる。確かに神託は当たって、オイディプスは父を殺し、母と交わっていたのだった。イオカステは自害。オイディプスはピンで眼を突く。
[王を裁くことができるのは王だけ。]

第3回 人間の本質をあぶりだす

父殺しと近親相姦=神託「父を殺し、母と交わるだろう」
父殺し=父を超える立派な男になる。それがプレッシャーになって息子は父がいなければよいと思う。一方、父は早いうちに芽を摘んでおこうと思う。
近親相姦=母と似たところのある女性を求める。
エディプス・コンプレックス
息子は母親を独占しようとする。父親はライバルだが、父親は強いので歯向かえない。そのような葛藤を通じて人間は成長する。
自分探しと捨て子
コリントスからの使者の言葉によって、物語は自分探しに移る。
島田「自分探しによって、幻滅するからやめておいたほうが良いかもしれない。でも、実は自分探しが失敗に終わるということは自己認識が間違っていたということだから、そこから始めるのがよいかもしれない。」
童話「みにくいアヒルの子」も、捨て子と自分探しの物語。
自己批判を徹底することができる者だけが真実にたどり着くことができる。
文学の誕生
ここででてきた「父殺し、近親相姦、自分探し、捨て子」という4つのテーマは、その後も普遍的なテーマとしてさまざまな文学に現れる。

第4回 滅びゆく時代を生き抜く

『コロノスのオイディプス』作品情報
『オイディプス王』の続編。ソポクレス最晩年の作品。
オイディプスは娘アンティゴネに手を引かれて放浪する。そして最後にコロノスにたどり着く。その最期の一日を描いたソポクレスの戯曲。
[あらすじ1] コロノスに着いたオイディプス
いろいろな人がオイディプスに会いにやってくる。
オイディプスは運命を冷静に見つめることができるようになっている。
滅びゆく時代の物語
ソポクレスが『コロノスのオイディプス』を書いたのは、アテナイの衰退期。作品中のテーバイの混乱の様子は、アテナイの現状の反映であった。
アテナイは、ソポクレスの死後、スパルタに敗れ、やがてはマケドニアに敗北する。
[あらすじ2] オイディプスの怒り
息子2人は相争っており、いままで追放していた父を自分側に引き入れて守護神にしようとする。
オイディプスは怒り、息子2人が刺し違えて死ぬであろうという呪いをかける。
[あらすじ3] オイディプスの最期
オイディプスはゼウスの雷で自分の死期が来たことを知る。
庇護してくれたテセウス王に感謝し、アテナイの守り神となることを誓う。これは、コロノス出身のソポクレスの願いを反映しているのだろう。
オイディプスは娘に感謝し去らせた上で、テセウスの前で最期を迎える。

放送テキストで知った豆知識