日本史の謎は「地形」で解ける
竹村公太郎 著
PHP 文庫、PHP 研究所 [電子書籍]
刊行:2014/01/22
底本:2014/01/23(文庫第 1 版第 9 刷)
文庫の元になった単行本:『土地の文明』2005/06 PHP 研究所刊、『幸運な文明』2007/02 PHP 研究所刊、をもとに再編集。
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読了:2015/02/15
著者は、元建設省の技術系官僚で、以前「脱ダム」がさかんに言われていたころ、ダムの重要性を力説する講演を名古屋大学でされたのをたしか聞いたことがある(環境学研究科の講義の一環)。
記憶によれば、戦後の風水害による死者の推移を示しながらダムを含めた治水の重要性を説明されていたのには説得力があった。
ダムの問題は、単純に脱ダムとかダム推進とか十把ひとからげにするのがいけないので、
基本的なダムの重要性は認識しつつ、個別の問題を丁寧に議論していく必要があるということだろう。
そういう著者なので、地形というよりは、むしろインフラに着目して歴史をながめてみた、というのが本書の眼目である。
インフラ、とくに都市のインフラは歴史的にも重要なはずだが、今までの歴史の教科書ではあまり重視されていなかった。
著者の議論の歴史学的妥当性は私にはよくわからないが、説得力があると思った。
技術史的な視点の無い歴史は空虚になるということがよくわかる。
しかし、以下のようにサマリーを書いてみると、論拠がちょっと弱いと感じられるところもあった。とはいえ、
こういうインフラの問題は歴史文書にも残りにくいかもしれないから、どこまで論拠を補強できるものかよく分からない。
以下、サマリー
- 第1章 関ヶ原勝利後、なぜ家康はすぐ江戸に戻ったか 巨大な敵とのもう一つの戦い
- 秀吉による江戸への転封命令に家臣が激怒したのは、湿地で人が住めるようなところではなかったからだろう。にもかかわらず、家康がこれを受け入れたのは、治水による土地改良で、広大な水田ができると見込んだためだろう。
- 家康は、1592 年に日比谷入江を埋め立て、城下町を作る準備をした。
- さらに、家康は 1594 年から利根川を東の銚子へ流す工事を始めた。
- 関ヶ原の戦いで勝った家康がさっさと江戸に戻ったのも、この工事を進めたかったからだろう。
- 利根川を東へ結ぶ赤堀川が開通したのは、家康の死後の 1621 年であった。本格的に利根川が銚子に流れるようになったのは、1654 年の綱吉の時代であった。その後、利根川・赤堀川の切拡げ工事は現在に至るまで続いている。
- 第2章 なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたか 地形が示すその本当の理由
- 比叡山は、京都への東からの唯一の玄関口である逢坂峠を見下ろす位置にある。
- 比叡山は、長岡京遷都の時に、この逢坂の防御のために創建されたと見られる。いまだ制圧していない「夷」が攻めてくるとすれば、ここからであった。
- 信長が、1568 年に上洛するときに足利義昭を奉じていたのは、僧兵軍団に対する盾にするためであった。
- 逢坂峠を自由に往来できるようにするに、信長は是が非でも比叡山を叩きのめしておく必要があった。峠は狭いので、大軍団を率いていても、僧兵と戦うのは難しい。
- 第3章 なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたか 日本史上最も狭く小さな首都
- 頼朝が若いころ配流されていたのは今の韮山町で、三浦半島や房総半島とも行き来していた。つまり、頼朝は湘南ボーイだった。
- 鎌倉は防御しやすい。背後は山、前面の海は遠浅で、大きな船が接岸できない。
- しかし、鎌倉は狭いし、京都からも遠い。なぜ、頼朝はこんなところを本拠にしたのか?当時の京都は、人口密度が高く、おそろしく不衛生だった。『方丈記』にもあるように、疫病や天変地異に悩まされていた。頼朝はこの疫病をおそれていたのではないか。湘南ボーイとしては、そんな汚いところには行きたくなかったのであろう。これに対し、鎌倉は、山が近いのできれいな水もあり、山の幸も燃料もある。海も近いので、海の幸もある。疫病のためには人口も増えない方が良い。
- 頼朝の死因は不明である。鎌倉に閉じこもるのを不満に思った誰かが謀殺したのではないか? [吉田註:でも、結局、その後も幕府は鎌倉から出なかったのだから、この説は無理があるのでは?]
- 第4章 元寇が失敗に終わった本当の理由とは何か 日本の危機を救った「泥」の土地
- 日本人は牛馬を大切にして、去勢もしなかった。それで、牛車や馬車は発達しなかった。
- 一方、モンゴル軍は、牛馬の動力が進軍の原動力だった。
- 元寇のとき、モンゴル軍が船上に寝泊まりしたのは、日本の平野が湿地だらけで、牛馬が突進できる乾いた平坦地がなかったからだ。モンゴル軍は、泥だらけの湿地と、緑が鬱蒼と茂る山地や丘陵地に進軍を阻まれた。
- 日本の平野に湿地が多いことも、日本で牛車や馬車が発達しなかった理由である。東海道も木曽三川の輪中地帯を横切れず、宮から桑名まで海路で抜けた。
- ベトナムもモンゴル帝国の支配を受けなかった。それは、モンゴルの船団を身動きが取れないようにして打ち破ったからである。
- 第5章 半蔵門は本当に裏門だったのか 徳川幕府百年の復讐①
- 江戸城の半蔵門は裏口だと思われているが、実は表口であろう。根拠は以下の通り。
- 甲州街道と直結している。甲州街道は尾根道で安全である。
- 橋ではなく、土手で堀を渡っている。これは、防御と言う意味では危険である。表口だからこそしっかりした構造にした。
- ある古地図で、「御城」という字を正立させる向きは、半蔵門が下である。
[吉田註:ネット上で古地図を見ると、地図によって文字の向きが違うので、一概にそう言えるのかどうか不明。]
- 皇太子殿下は、公式行事の時は半蔵門を通る。
- 二重橋や大手門の側は湿地で、大名たちが入る門だった、すなわち徳川から見れば格下の人々のための門だったのではないか。
- 第6章 赤穂浪士の討ち入りはなぜ成功したか 徳川幕府百年の復讐②
- 半蔵門から甲州街道の周辺は、御三家や親藩の屋敷がある重要地帯だった。
- にもかかわらず、赤穂浪士はこのあたりに多く潜伏していた。ということは、江戸幕府は意図的に赤穂浪士を匿っていたのではないか。
- 一方、吉良上野介邸は、もともと外堀の内側にあったが、本所の倉庫街に移転させられていた。
江戸幕府が、討ち入りを成功させるためにそうしたのだと考えられる。
- 事件後、赤穂浪士の子息たちは復権する一方、吉良家は血筋が途絶えて断絶した。
- 第7章 なぜ徳川幕府は吉良家を抹殺したか 徳川幕府百年の復讐③
- 吉良家は足利市の血を引く名門だった。徳川家は、昔から吉良家を恨んでいたと考えられる。
- 吉良家は、矢作川下流を領地にしており、矢作川が運ぶ土砂を使って沖へ沖へと干拓地を広げていた。
一方、徳川家は、矢作川の少し上流の岡崎を領地にしていた。
- 家康が若いころ仕えていた今川家は、吉良家の分家だった。
- 1605 年、徳川家康は、矢作川の流路を無理やり変えて、岡崎の水はけを良くし、吉良領では干拓地を広げられないようにする一方、
新矢作川河口付近で新田開発を進めた。
- 家康は吉良家を潰すことはしなかった。というのも、吉良家は「高家」で、朝廷との仲介をしていたからだ。
徳川家が征夷大将軍になるには、朝廷に同意をさせる必要があった。
家康が矢作川の流路を変えたのは、秀忠が征夷大将軍になった 1605 年であった。それまでは、吉良家を利用する必要があった。
その後の徳川家でも、朝廷との仲介役が必要だったので、赤穂浪士事件までは、吉良家は高家筆頭であった。
- 第8章 四十七士はなぜ泉岳寺に埋葬されたか 徳川幕府百年の復讐④
- 赤穂浪士は、討ち入りの後、高輪大木戸を通り抜けて泉岳寺に向かった。このようなおそらく血だらけだった集団が大木戸を通り抜けられたということは、幕府から通せという指示があったのに違いない。
- 赤穂浪士が葬られた泉岳寺は、徳川家康が創立した徳川家にとって重要な寺である。泉岳寺のお手伝い普請の一部を浅野家が担ったという縁で、泉岳寺が浅野家の菩提寺になったという縁はあるにせよ、徳川家ゆかりの寺に犯罪者であった赤穂浪士が埋葬されたということは、そこに幕府の意思があったと見るべきであろう。
- 高輪大木戸は、討ち入りの8年後、今の「札の辻」から「高輪大木戸跡」まで移された。「高輪大木戸跡」は泉岳寺のすぐ江戸側である。
そして、そこから少し南へ行くと、港でもあった品川宿に至る。
ということは、大木戸の移動は、江戸に出入りする旅人や商人を泉岳寺に誘導するために行われたのではないか。
江戸幕府は、泉岳寺を忠臣蔵テーマパークにして、人々に「忠義」の心を植え付けようとしたと考えられる。
- 第9章 なぜ家康は江戸入り直後に小名木川を作ったか 関東制圧作戦とアウトバーン
- 小名木川は、徳川家康が作った運河で、行徳の塩を押さえるために造ったというのが定説である。しかし、吉良領の塩を押さえていた家康がそれほど塩を必要としていたとも思えないのに、1590 年の江戸入り直後に建設したのは解せない。
- 小名木川は、当時の湿地帯の中を海岸線に沿って東西にまっすぐ作られている。これは、海況に影響されず、隅田川、中川、江戸川に行くために必要だったのだと思われる。当時、関東は湿地帯が広がっていたので、水路を押さえることが、北条氏の残党が残っている関東地方を制圧するために重要だと家康が考えたのだろう。
- 家康は、江戸に入るとき、大阪の佃村の漁民を連れてきて、隅田川河口にあった中洲の佃島に住まわせた(今の中央区佃1丁目の一部)。彼らは、家康が信頼した船舶操縦士集団で、軍事用の水路を行き来していたと考えられる。
- 第10章 江戸100万人の飲み水をなぜ確保できたか 忘れられたダム「溜池」
- 溜池から赤坂見附にかけての一帯は、江戸時代、江戸の飲み水を供給するためのダム湖であった。今の霞が関ビルのあたりがダム堰堤だったと見られる。
- この「溜池」は、玉川上水ができる前は清水谷公園からの湧水を利用し、玉川上水ができてからはその水を引き込んでいた。
- 明治時代の人口急増に伴う水質悪化のため、1898 年に淀橋浄水場が作られ、「溜池」の役割は終わった。
- その後、東京の水は、多摩川だけでは足りなくなって、利根川も使うようになった。
- 第11章 なぜ吉原遊郭は移転したのか ある江戸治水物語
- 江戸幕府にとって、荒川(現在の隅田川)の治水が大きな問題だった。
- 1620 年には、洪水を東に誘導するために、隅田川の西側に日本堤を作った。日本堤は、小高い丘だった浅草寺から北西の台地に向かって延びている。
- 1657 年の振袖火事をきっかけに、幕府は都市改造を行って、江戸を隅田川の対岸に拡げた。そのために、隅田川の東側も守る必要が出てきた。そこで、墨田堤・荒川堤を造って、これと日本堤で挟まれる地帯を遊水地帯とした。
- 堤防は維持管理をする必要がある。幕府は吉原遊郭を日本堤に移転し、墨田堤の周辺には向島の料亭街を作った。そうすることによって人通りができるので、堤が踏み固められるし、水漏れなどが監視されることになる。
- 第12章 実質的な最後の「征夷大将軍」は誰か 最後の“狩猟する人々”
- 世界のどこでも、農耕民族は狩猟民族を制圧してきた。旧約聖書のカインによるアベル殺しもその表現であると解釈できる。
- 日本では、稲作には集団の力が必要だったので、強固な共同体ができた。日本の「征夷大将軍」の「夷」も狩猟民族の意味である。
- 日本で最後に駆逐された「狩猟民」は誰か?毛利家がそうだったと考える。中国地方には平野が無く、毛利家は水軍の将であった。広島城も、大田川河口デルタの大きな洲である「広島」に築かれた。これは、海に出撃するための拠点である。関ヶ原の合戦の後、毛利家は農耕の民になった。
- 第13章 なぜ江戸無血開城が実現したか 船が形成した日本人の一体感
- 日本は、水上交通によって全国がつながっていた。それが日本人としての帰属意識を生んだ。
- 欧米列強は、土地の人々を分裂させることで植民地支配をしていた。
日本でも幕末には、薩長を英国が支援し、幕府をフランスが支援するという形で分裂が図られていた。
ところが、勝・西郷会談によって江戸城の無血開城が実現し、江戸が戦火から守られ、日本は植民地化を免れた。
- 第14章 なぜ京都が都になったか 都市繁栄の絶対条件
- 京都が長い間都であったのには地形的な理由がある。まず、日本列島の中心に近くないといけないから、中部から近畿のあたりがふさわしい。
次に、大陸との窓口である日本海と、気候の良い太平洋の両側にアクセスできるところでないといけない。
敦賀湾から南に行くと、琵琶湖に至る。ここから淀川を経て大阪湾に出る間のどこかが良いということになる。
宇治川、桂川、木津川が合流する巨椋池の近くで、かつあまり洪水にならない所といえば、京都ということになる。
- 琵琶湖も交通の要衝だから、その周囲も栄える。現在、名神高速と北陸自動車道が通る滋賀県は、
県民一人あたりの製造業粗付加価値額が全国でもトップクラスである。
- 第15章 日本文明を生んだ奈良は、なぜ衰退したか 交流軸と都市の盛衰
- 奈良は、ホテル・旅館客室数が全国最低であるなど、社会インフラが弱い。なぜそんなことになったのか。
- 大陸から瀬戸内海を通って、近畿地方に来るとする。淀川は流量が多すぎるので、大和川を通ることにする。すると、奈良盆地のどこへでも行ける。
そういうわけで、奈良盆地は便利なのであった。
- しかし、淀川ルートが開発されてみると、琵琶湖からさらに東へ向かう道がある(東海道、中山道)があるという意味で、
ずっと便利であった。そこで、奈良はさびれてしまい、社会インフラが整備されなかった。
- 奈良に近鉄、阪奈道路、名阪国道が通ってみると、奈良は交通が便利な割に社会インフラが弱いところということになってしまった。
- 第16章 なぜ大阪には緑の空間が少ないか 権力者の町と庶民の街
- 東京には緑の空間が多いが、大阪には少ない。なぜか?
- 東京の緑の空間は、かつての権力者が作り行政が引き継いでいるものばかりである。
大阪は庶民の街だったので、土地が細分化され、緑の空間ができなかった。
- 第17章 脆弱な土地・福岡はなぜ巨大都市となったか 漂流する人々の終の棲家
- 福岡には、大河川も広い沖積平野も無いので、飢饉に弱いし渇水も多い。低湿地なので、洪水にも弱い。
- にもかかわらず、福岡が大都市であるのは、大陸からの玄関口であるせいだ。
- 第18章 「二つの遷都」はなぜ行われたか 首都移転が避けられない時
- 日本の首都は、奈良→京都→江戸(東京)、と変わってきた。そこに必然性はあるのか?
- 奈良から京都へ遷都したのは、資源問題が原因である。大和川は流域面積が小さいので、人口が増えると森林が足りなくなる。
森林を伐採しすぎて山が荒れると、盆地は土砂で埋まり水はけが悪くなる。そこで、桓武天皇は奈良盆地を脱出し、
より広い淀川流域に移った。
- 徳川家康が京都から江戸に首都を移したのも同様の理由である。当時関西圏は人口が増えすぎて、森林が荒廃していた。
そこで、家康は、広大な利根川流域に未来を託した。さらに、家康は木材基地を全国に分散させて、森林への負荷を下げた。
- ひょっとすると、邪馬台国から奈良への遷都も、流域の狭い福岡から大和川流域へという形で行われたのかもしれない。