道元 正法眼蔵

著者ひろさちや
シリーズNHK 100 分 de 名著 2016 年 11 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2016/11/01(発売:2016/10/25)
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2016/11/14

『正法眼蔵』のような難解な大著はなかなか自分では読まないから、こうやって短期間でエッセンスだけを解説してもらうのが良い。

まとめると、自我を滅却して、ありのままの世界を眺めるべし、ということらしい。すると、すべてのものは仏性であり、現在がすべてであることがわかる。自他の区別も無く、生死の区別もなく、迷悟の区別もない。生活のすべてが修行である。

こういう世界観は哲学であるともいえるが、反哲学でもある。何でもいっしょくたに仏性にしてしまうと、あまり議論することがなくなるからだ。というわけで、この解説でも最後に「不戯論(ふけろん)=無駄な言葉遊びの議論はするな」というのがでてくる。それで、議論じゃなくて修行だよということになるから「只管打坐」という話になる。そんなことを言っている割に『正法眼蔵』という小難しい大著を書いてしまうというのが、道元の哲学的なところであろう。

「100分de名著」放送時のメモ

第1回 「身心脱落」とは何か?

道元
ひろ「道元は、空海、親鸞と並んで日本を代表する仏教哲学者。」
『正法眼蔵』
著者は道元。1231年から没年まで執筆を続ける。
「眼」=智慧
道元の悟りまで
14歳で比叡山に出家
道元は疑問を抱いた。人間には仏性があるのに、なぜ仏になるために修行が必要なのか?
宋に留学。師の如浄の「身心脱落」という言葉を聞いて、道元は悟る。
身心脱落
身心脱落とは、自我を捨てること。
ひろ「悟りの世界に合一する。悟りたいというのは邪心。仏になったつもりで修行する。」
現成公案(げんじょうこうあん)
現成公案=今現れている世界をどう理解するか?
『正法眼蔵』の最初に在家信者のために書かれた。
身心脱落すれば、迷いも悟りも衆生も仏もない。
自分の方から悟ろうとするのは迷い。悟りは宇宙の側から来る。
ひろ「迷っても構わない。」
薪は薪、灰は灰。灰が昔薪であったと見ることには意味がない。灰はもう一度薪に戻るわけではない。
芥川龍之介『蜘蛛の糸』を道元的に読む
カンダタの眼に映った他の罪人たちが、自分の中にある他人の身心。これも脱落させないといけない。他人のことも気にしてはいけない。

第2回 迷いと悟りは一体である

「生死(しょうじ)」の巻
江戸時代に永平寺の宝蔵から発見された。
生死は涅槃に対する言葉で、迷いの中にいる状態。
迷いと悟りは一体。迷うときは迷え。
身心脱落して「仏のいへになげいれて」=「仏の心になりきる(ひろ)」
「祖師西来意(そしせいらいい)」の巻
西来意=達磨大師がわざわざインドから中国に来た意味
公案:男が口に枝をくわえて木からぶらさがっている。その男が西来意を問われる。
道元の答え:樹と男とは一体。男と男に問うた人も一体。西来意が西来意を問うている。なりきれば問いも答えもいらなくなる。
自力と他力
自力=猿の道。猿の子は親にしがみつく。
他力=猫の道。猫の子は親に咥えられる。
「唯仏与仏」の巻
仏法は、ただ仏と仏のみがわかる。人間にはわからない。
ひろ「必要なだけわかれば良い。」
ひろ「あるがままを拝む。」
仏でない者に仏の道は見えない。私達は、まず歩み始めなければならない。歩み始めなければ、何もわからない。
ひろ「迷いと悟りはコインの裏表。」
ひろ「しっかり迷って、悟りがやってくるのを待っていれば良い。」

第3回 全世界が仏性である

北越入山
道元が北越に入ったのは、『護国正法義』を書いたために既成仏教から弾圧を受けたからではないか。
当時日本では浄土思想がはびこっていた。
道元は、既成仏教とは距離を置いて、世俗のことに汚されない弟子を育てようとしたのだろう。
仏性
「一切衆生、悉有仏性」の読み解きをした巻。
道元の解釈では、全世界が仏性で、あらゆるものは衆生であり、仏性の中に生きている。
種も芽も花も仏性、あらゆる段階が仏性。無仏性もまた仏性。死んでも仏性が無くなるわけではない。
時節若至(じせつにゃくし)は、普通の読み方なら時節がまだ至っていないということだが、道元によれば「至っていない」こともまた仏性である。
有時(うじ)
道元が時間を論じた巻。
過去も未来もなく、常に現在を生きている。
しっかり生き、しっかり死ぬ。今を大事に生きる。

第4回 すべての行為が修行である

生活禅
仏性は遍在しているが、修行することで初めて仏性を感じる。
行住坐臥、すべてが禅。生活そのものが禅=只管打坐。
道元は中国で典座(食事係)の老僧に会った。そこで、生活そのものが禅であることを学んだ。
修行をすると、自然と悪いことができなくなる=諸悪莫作。自然と「諸悪莫作」と聞こえてくる。
四摂法(ししょうぼう)
布施(ふせ)=欲張らないこと、へつらわないこと
愛語(あいご)=相手を肯定する気持ちを伝える
利行(りぎょう)=自分と他人の利益を同じものと考える
同事(どうじ)=相手の立場でものを考える
八大人覚
道元の晩年の教え

放送テキストのサマリー

第1回 「身心脱落」とは何か?

道元の悟り「身心脱落」
道元は、貴族のうちに生まれたが、幼くして両親を亡くし、比叡山に学ぶことになった。
道元は次のような疑問を持った。人間はもともと仏性を持っているにもかかわらず、なぜ修行が必要なのか?
道元は、宋に渡り、如浄禅師の下で悟りを得る。
道元は、「身心脱落」と悟った。すなわち、自我を滅することが悟りだと感じた。私たちは、悟るために修行するのではなく、仏性があるがゆえに修行をし、悟りを求める自我を消滅させるのだ。
「現成公案」
「現成公案」は、『正法眼蔵』の最初の巻で、在家信者のために書かれた部分。
身心脱落すれば、迷いも悟りも無く、生も滅も無い。あるのは、あるがままの世界―現成―である。
自己を脱落させるということは、他己をも脱落させるということである。

第2回 迷いと悟りは一体である

道元、立宗へ
宋から帰国後、建仁寺に入る。
1227 年に『普勧坐禅儀』、1231 年に『弁道話』を表すことで、道元は、坐禅が仏教の基本であるとした。 1233 年には『正法眼蔵』を書き始める(p.52 では、1233 年、p.23 では、1231 年になっている)。
1230 年に深草の安養院に移り、1233 年には禅の道場として観音導利院(のちの興聖宝林寺)を建立する。
「生死(しょうじ)」
「生死」は、江戸時代になってから発見されて『正法眼蔵』に加えられたもので、もともと俗人を対象にして書いたものだと見られる。
迷いの中に悟りがあれば迷わないし、悟りを求めてあくせくしなければ迷わない。
生死にこだわらず、仏にまかせて、仏の心のままに生きるようにする。
真実の相(諸法実相)になりきる。ありのままのものを拝む。
迷うときは迷う。悟りは向こうからやってくる。

第3回 全世界が仏性である

道元、北越入山
寛元元 (1243) 年、44 歳で越前に移る。翌年、大仏寺を建立。寛元四 (1246) 年、大仏寺を永平寺と改名。
永平寺では、出家修行をする「本物のプロ」を養成する。
建長五 (1253) 年、京都にて 54 歳で示寂。
「仏性」
「仏性」は『正法眼蔵』の中でもかなり長大な巻で、道元 42 歳のときに公表された。
『涅槃経』の「一切衆生、悉有仏性」を「一切は衆生なり、悉有が仏性なり」と読んだ。これは漢文では許されない読み方だが、サンスクリット原典を考えると、まんざら間違っているとも言えない。道元の読み方では、一切が命あるものであり、全世界は仏性なのだということになる。すべての存在が仏の世界にいるということになる。
「時節若至(じせつにゃくし)」は、通常、仏性が現前する時節はまだ来ていないけれども将来もし来たら、と解釈される。道元の解釈では、時節はすでに至っており、至っていないというのは「不至」という仏性のことである。すなわち、現在をそのまま仏の世界として受け入れる。
「有時(うじ)」
「有時」の巻は、道元の時間論。道元は、時を現在においてのみ存在するとする。過去も未来も無く、現在が連続する。すべての存在は、現在においてあり、仏の世界にいる。生も死も同様に仏性である。
わかりやすくいえば、「反省するな、希望を持つな、ただ現在なすべきことをせよ」。

第4回 すべての行為が修行である

修行
仏性は、単なる知識として知っているだけでは分からない。仏性は、修行によって活性化されるものである。
修行と悟りは一つである。われわれは本来悟っているのであり、その上で修行をする。
生活のすべてが修行であり、坐禅である。=「只管打坐(しかんたざ)」
「諸悪莫作(しょあくまくさ)」
「諸悪莫作」の巻では、悪について説明される。
何が悪かは固定的なものではない。修行しているうちに、仏性を活性化すると、自然と悪いことができなくなる。
「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」
この巻では四つの徳目が挙げられている:布施、愛語、利行、同事
「布施」とは、むさぼらないこと、欲を出さないこと、へつらわないこと。
「愛語」とは、慈愛の心を起こし、いたわりの言葉をかけること。
「利行」とは、すべての衆生に利益を与えること。道元においては、自分と他人の区別はない。
「同事」とは、自分と相手とを区別しないこと。
「八大人覚(はちだいにんがく)」
この菅では、大人(だいにん)として相応しい8つの教えが示されている:少欲、知足、楽寂静(ぎょうじゃくじょう)、勤精進(ごんしょうじん)、不忘念(ふもうねん)、修禅定(しゅぜんじょう)、修智慧(しゅちえ)、不戯論(ふけろん)
少欲=欲を少なくする
知足=すでに得たものの一部を他人に回す
楽寂静=静かな生活を楽しむ
勤精進=自分の利益に執着せず、仏道に精進する
不忘念=いつも仏の教えを忘れない
修禅定=心静かに瞑想して真理を観察する
修智慧=ものごとをありのままに見る眼を修得する
不戯論=ものごとを複雑にせず、ありのままを知ること