功利主義と分析哲学 ―経験論哲学入門―

著者一ノ瀬正樹
シリーズ放送大学教材 1551914-1-1011(ラジオ)
発行所放送大学教育振興会
刊行2010/03/20、刷:2012/01/20(第 3 刷)
入手九大生協で購入
読了2016/01/19

分析哲学とか経験論哲学とかいわゆる英米系哲学の全体的な紹介である。私には、やはり最後の 1/3 くらいで現代の哲学の動向を紹介している部分が面白かった。参考文献に著者の著作も出てくるので、ふだんから著者がよく考えている問題なのであろうし、やはり現代の問題の方が背景が共有されるのでわかりやすいのだと思う。

しかし、最初の方で、ロックやバークリの紹介をしているところはやや退屈である。ロックやバークリの考え方を理解しようとしているのだが、現代の科学や哲学を前提とすれば、そんなことは無意味ではないだろうか。もっと現代の科学や哲学に立脚して紹介してほしい気がした。

放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1章 経験論の源流

功利主義と分析哲学
功利主義は、ベンサム、ミルが創始。幸福を第一原理とする倫理学。今日では、ピーター・シンガーの動物倫理を要にして、応用倫理に広がっている。
分析哲学は、フレーゲ、ホワイトヘッド、バートランド・ラッセルによる数学の基礎付けに始まる。そして、ヴィトゲンシュタイン、ポパーらの言語哲学や科学哲学を発端とする。 20 世紀哲学の大きな流れで、経験諸科学を参考にしながら、論理や言語を主題的に取り上げる。
現在では、分析哲学という分野の境界はあいまいになっている。「分析哲学」は、実は、世界的にはもはやあまり通用しない分類である。
功利主義も分析哲学も経験を基盤とし、計量化を志向している。功利主義は幸福を、分析哲学は科学との連携と論理性を大事にする。
功利主義も分析哲学も英語圏で展開されてきた。その源流はイギリス経験論。
経験論
「経験的 emperical」という語は、ギリシャ語の「エムペイロス」が元になっていて、「努力することの中に、試みを通じて」というのが原義。 ここでは、「経験的」は、原義にしたがって「努力や試みを通じて」という意味で使うことにする。
哲学通の人は、「経験的」を「感覚や知覚を通じて」という意味に取ることがある。これは、カントの用法にすぎない。この意味は採用しない。
知ることと行うことは連続的である。われわれは、行為を通じて何かを知るのである。
エリザベス・アンスコムによると、行為は観察によらない知識に依存している。たとえば右手を上げる人は、右手を上げるということを知っている。
経験論においては、「程度」が大事である。すなわち、計量化への志向性がある。功利主義の快楽計算も、経験論の特徴を端的に示している。
中世の経験論
イギリスには、実証性や実際性を尊ぶ国民性があるのかもしれない。
中世のオックスフォード学派のグローステストの「光の形而上学」では、世界を数学的・量的にとらえる考え方のさきがけである。
グローステストの弟子のロジャー・ベーコンは実験の重要性を説いた。
14 世紀のウィリアム・オッカムは、普遍は記号に過ぎないとして唯名論を提唱した。
フランシス・ベーコン
16 世紀にはフランシス・ベーコンが現れる。帰納法の提唱で知られる。 "Novum Organum" では、演繹は道具としては使えるが、帰納こそが内容のある知識を得る方法だとした。 演繹は形式的な正しさを保証してはいるが、内容の正しさを保証しているわけではない。
帰納は、いつでも間違う可能性があることも認識していた。間違いは実験を駆使してできるだけ避けるようにする。
ベーコンの帰納法は、観察を無条件で信頼するのではなく、実験を駆使しながら、少しずつ肯定的な法則命題を得る作業を指す。
偏見、すなわちイドラを取り除くことが大切。イドラには、以下の4つがある。 種族のイドラ(人間を基準に断定する偏見)、洞窟のイドラ(個々人の性質や受けた教育による偏見)、 市場のイドラ(社会生活、とりわけ言葉によって生じる偏見)、劇場のイドラ(哲学の学説や誤った学説から生じる偏見)。
単純枚挙を否定。「aはPである」をいくら積み重ねてもも「aはPである」は証明されない。否定的事例の方が大事。「aはQでない」によって「aはQであるという主張」は排除される。 この考え方は、のちのポパーの反証主義につながる。
絶対的な決定実験というのもない。誤ることもあることもはっきり認識している。
実験を重ねると、やがて肯定的な結論を出すときがくる。そのときは決然とジャンプして解釈を開始し、新たな段階に入る。
トマス・ホッブズ
1588 年生まれ。貴族の家庭教師をしていた。フランスシス・ベーコンにも学んだ。主著『リヴァイアサン』。
アリストテレス的目的論を排除し、機械論的自然観を採用した。
感覚的経験には懐疑的で、実在論を採用。幾何学を重要視し、非経験論的傾向があった。
人間は、快楽を追及し苦痛を避ける機械であるととらえる。人間社会は、自然状態では、「万人の万人に対する闘争」という戦争状態になる。
個々人の自然権(快楽の追求)を譲渡する契約によって、国家が形成される。

第2章 ロック哲学の衝撃

ジョン・ロック
1632 年生まれ。自然科学や医学へも傾倒。アシュリー卿の支援の下で研究を行う。
1690 年の『人間知性論』が近世認識論の誕生を告げる西洋哲学の古典となった。カントの「アプリオリで綜合的な判断」という考え方の源も『人間知性論』にある。
『人間知性論』第1巻「生得的観念について Of Innate Notions」
「観念 idea」とは、知性の対象一切のことで、ロック哲学用語。知識や思考や一般的概念も「観念」に入る。
ロックは生得説を批判する。生まれたばかりの赤ちゃんは知識を持っているとは言えない。知識は、認識主体に発生する出来事であると理解される。
しかし、生得説は、あらゆる知識の根底にある知識(論理とか数学原理)があるという意味であって、そのような知識を生得的(本有的とも訳される)としている。赤ちゃんがその知識を持っているかどうかは関係がない。
生得説論者が知識が「正しいかどうか」を問題にしているのに対して、ロックの認識論では、知識を認識主体が「持っているかどうか」(知っているかどうか)を問題にする。
ロック認識論は、道徳論的出自を持つ。そこで、行為との関連を重視する。知識は、努力や注意の積み重ねによって得られることが強調される。
empirical は、もともと「努力したり企てたりすることにおいて」という意味である。この意味で、ロックはまさに経験論の代表。
カント哲学はこれと対照的で、人種や性別の違いというようなことは問題にならない。人間一般で無時間的に成り立つ真理が問題になっている。
ロック認識論は、知識の所有を問題にしているという意味において、知的財産権を議論するためのベースになりうる。
『人間知性論』第2巻「観念について Of Ideas」
観念の起源として感覚と内省、観念の構成として単純と複雑を挙げる。
単純観念は定義されない。これ以上説明できず打ち止めになる概念のこと。たとえば「硬さ、色、存在」。これは、誰もが説明の基盤として用いるという意味で公共性がある。
複雑観念は個々人が案出する。そこで、プライベート性がある。
同一性を、実体、生物、人格に分けて議論している。とくに、人格同一性の根拠は意識である。意識の語源は conscientia(共有知識)であり、ロックの使い方はこれに沿っている。
『人間知性論』第3巻「ことばについて Of Words」
ロックは、言語を「話し手の観念である」とした。この意味で言語を私的なものと考えていたとよく言われる。しかし、ロックは言語の社会性・公共性も前提としていた。 ロックにおける言語のプライベート性は、本人にだけ理解できるという意味ではなく、私的所有を主張できるという意味である。
『人間知性論』第4巻「知識と意見について Of Knowledge and Opinion」
ロックは、「知識とは、観念間の一致不一致の知覚である」とする。しかし、知識も観念の一部なのだったから、これだけではよくわからないことになる。
確率が1の信念が知識で、確率が1以下の信念が意見。ロックは、認識論に確率の考え方を取り入れた。この点で、ロック哲学には現代性がある。
どのような証言によって裏付けられるかによって認識の正しさの確率が与えられる。

第3章 ロックの所有権論

『統治論 Two Treatises of Government』
政治権力の根拠が何であるのかを議論している。
ロックは、「自然状態」においては、人々は「自然法」のもと、緩やかな結合をしているものとする。
「自然法」とは、自己を保存せよ、そして自己保存に矛盾しない限り他者ひいては人類を保存せよ、ということである。
自己保存のためには所有が生じ、所有をめぐって争いを生じる。
争いにおいて「自然法」に違反した者を処罰する権利を各人は有している。
何が正しいかは、「天に訴える appeal to heaven」しかない。しかし、それでは非効率的なので、処罰権を為政者に委譲するという社会システムを作ることになる。
処罰権を誤って行使した為政者には抵抗してよい(抵抗権)。
所有権論
自己保存のためには、いろいろなものを所有する。
ロックは、労働によって所有権を正当化する。そこで、労働所有権論と呼ばれる。
神が創ったもの(たとえば果実とか動物の肉とか)は人類の共有物であるが、それを私的所有物にするのは労働(食べ物なら狩猟採集、土地なら開墾)である。
所有する主体である person は、身体なのか人格なのか?いろいろな議論がある。
ロック的但し書き Locken proviso
所有権には、他者の権利を侵害しないための2つの制約がある。ロックの自然法は、自己保存と他者保存の両方を実現することを目指しているからである。
(1) 十分性条件 ; 他者にも十分なものが残されている。
(2) 浪費条件 ; 不必要なほどたくさん持ってはいけない。
貨幣
ロック的但し書きに違反しない所有物として、「貨幣」が生まれた。貨幣は、他者に十分に残るし、腐ったりしない。生産物を腐らせないためにも貨幣は役に立つ。
ロックは、富の蓄積を許したので、資本主義の源泉ともみなされる。しかし、自然法が基本なので、無制限な富の蓄積を許しているわけではないと解される。
知的所有権
ロックの所有権は person を起点として、労働を介して成立する。一方、観念は person の生成とともに現れる。
そこで、ロックの議論は、知的所有権の議論の基盤となるであろう。

第4章 ジョージ・バークリの非物質論

形而上学と認識論
形而上学 metaphysics とは、存在、自由、神などの根源的な主題を扱う学問である。
認識論は、人間の認識や知識に関する根拠や限界などを論じる。
バークリは形而上学と認識論のハイブリッドというべきユニークな議論をした。
ジョージ・バークリ
1685 年、アイルランド生まれ。ダブリンのトリニティ・カレッジで学ぶ。聖職に就いた。1753 年死去。
ペルキピ原理と非物質原理
人間の広い意味での知識の内容を「観念」と呼んだ。
観念が存在するとは、知覚されることである。=ペルピキ原理 (esse is percipi)
バークリは、ペルピキ原理を、存在することの必要十分条件を示しているとした。=非物質論、観念論
「物質」は、知覚されないから、観念ではなく、理解されない対象である。
「物質」が心の外に存在するとすれば、神は無駄なものを作ったことになってしまう。
バークリは観念を像としてとらえ、悪しき抽象を批判し、その延長線上で「物質」を批判する。
ペルキピ原理が導く二元論
世界は、知覚される「観念」と知覚する「精神」から成るということになる。
では、風が吹く原因は「私」なのだろうか?これは変なので、バークリは、感覚的観念は、神の精神によって産出されると論じる。
しかし、神はア・プリオリに前提されるものではなく、私の精神から推論されるものであるととらえられている。
バークリの経験論
バークリは、知覚を元にしているという意味で、経験論者である。
一方、精神の能動的原因性を、身体的行為に求めている。そこは「努力し試みることの中において」という経験概念に即している。

第5章 ヒュームの因果批判

デイヴィッド・ヒューム
1711 年生まれ。1739 年に主著『人間本性論』を刊行した。1776 年永眠。
『人間本性論』は、「人間の科学」の構築を目指した。この「人間」は、自然に対するところの人間という意味ではなく、自然科学も人間が行うという意味で、自然をも包含するという野心的なものだった。
知覚 perception
ヒュームは、知覚を「印象 impression」と「観念 idea」に分けた。印象は、生々しくて活気のあるものであり、観念は、静的で概念的なものである。観念は印象のコピーであり、印象のほうが根源的である。
そこで、ヒュームは、哲学的問題を考えるにあたって、問題の源泉となる印象をつきとめようとする。
因果関係
個々の印象を結びつけるのは、因果 (causation) である。ヒュームは、因果をかなり広い意味に捉えている。
因果関係が成立していると言うために必要な条件は、時間空間的な接近と、原因の結果に対する先行である。
因果関係が成立しているための十分条件は、必然的結合 (necessary connextion) である。ヒュームは、バリバリの決定論者であった。
では、必然的結合をどのようにして私たちは知りうるのか?それは、恒常的連接 (constant conjunction)、すなわち繰り返し同じことが起こることによって、心の習慣 (custom) ができることによるのである。
自由意志
ヒュームは決定論者だったが、同時に自由意志を認める両立主義 (compatibilism) の立場を取る。
自由な行為は、意志を原因とした行為である。
意志と結果としての行為の間に因果的必然性があるからこそ、責任という問題が生じる。
デザイン論証
神の存在証明として、デザイン論証というものがある。それは、世界はかくも精巧にうまくできているので、それをデザインした神がいるはずだ、という議論である。
ヒュームは、デザイン論証についても論じているのだが、ヒューム自身の立場は明らかではない。
ヒュームの道徳論
ヒュームの道徳論には以下の2つの特徴がある。(1) 道徳が生じるメカニズムの記述をしているだけで、規範を提供してはいない。 (2) 善行を因果的に生み出す人格や性格としての「徳 virtue」を問題にしている。
(1) の道徳的評価の因果的メカニズムの原因としては、快・不快の印象を挙げている。自分に直接利害がなくても、共感の原理によって快苦の印象を抱くことができる。
(2) の「徳」の中には「正義」が含まれる。正義の由来としては、社会共通の利害を挙げている。

第6章 ベンサムの思想

功利性の原理
功利性の原理は、ジェレミー・ベンサムが打ち立てた。まず、人間は快楽と苦痛によって支配されているとする。その上で、「最大多数の最大幸福」を道徳の原理であるとした。
功利主義は、規範の基準を結果の幸福に求めるので、結果主義と呼ばれる。これに対して、基準を意志に求める「義務論」と基準を行為者のありかたに求める「徳倫理学」という立場がありうる。
功利主義における、快楽の総計というのは、社会全体の幸福の量という意味で、決して利己的なものではない。その意味で、著者は「大福主義」と訳を変えることを提案する。
禁欲主義
ベンサムは「禁欲の原理」を批判する。これは手段と目的を取り違えている。たとえば、ストイックな練習をするスポーツ選手も、そのゴールとしては良い成績を収めるという幸福を目標にしている。
共感と反感の原理
「共感と反感の原理」とは、他の人々が共感を感じるか反感を感じるかを道徳の基準にしようとすることである。ベンサムは、彼以前の道徳思想家のほとんどがこの原理を用いているとした。そして、これは詰まるところ自分が気に入るかどうかという主観的な判断に過ぎないと批判した。
ベンサムは、この原理は危険だと考えた。たとえば、同性愛は当時厳罰に処されていたが、ベンサムは功利性の原理からすると、同性愛を厳罰に処す客観的な根拠はないと考えた。
義務論
義務論とは、道徳的評価の基準は意志にあって結果にないという立場である。イマヌエル・カントがその代表的な論者である。たとえば、老人に席を譲ることも、周りから良く思われたいと思ってしたのだとしたら良くないと考える。功利主義では、結果が同じであれば、どの動機がどうであったかは関係ないということになる。
功利主義では、みんなのために一人を犠牲にして良い、という結論を導くかもしれない。たとえば、一人の人を殺して、臓器移植によって五人の人が救われるとする。功利主義だとこれは是認されるかもしれないが、それは人を手段として扱うことになるとして批判される。
義務論では、人を手段として扱ってはならない、とする。しかし、複数の義務が衝突するときにどちらを選んだほうがよいかはわからない。たとえば、がん患者に病名を告知してよいかという問題に対して、カントの義務論に従えば、嘘はつかず本当のことを言うべきだということになるだろう。しかし、その結果はどうなっても良いのだろうか?
刑罰の正当化の問題
義務論からすると、目には目を歯には歯を、という同害報復の原理に行き着く。
功利主義からすると、刑罰はそれを科すことによって得られる社会的な益によって決まる。
ベンサムは、理想的な刑務所である「パノプティコン」を提唱した。これは死刑や流刑より、犯罪者を更生させたほうが社会の幸福量を増大させると考えたことによる。

第7章 ミルと功利主義

ジョン・スチュアート・ミル
1806 年生まれ。父のジェームズに英才教育を施された。
1840 年代に『論理学体系』を著す。帰納法の検証と展開を行った。すべての一般的真理は、個々の事例から導かれなければならない、とした。
ミルは、演繹と帰納は補完的な方法論であるととらえた。
ミルは、因果関係を推定する方法として次の5つを挙げる (1) 一致法 (2) 差異法 (3) 一致差異併用法 (4) 共変法 (5) 剰余法。
『自由論』
ミルは、自然な状態を尊重する傾向が強い。
民主的共和制の時代においてもっとも警戒しないといけないのは、多数者による専制である。この意義は、今でも大きい。
ミルは、個人の自由を徹底的に重視する。他者の行動に干渉できるのは、正当防衛の場合のみ(他者危害原則)。 思想信条の自由は絶対的に認められねばならない。ミルは、麻薬の禁止にさえ疑問を呈している。
ミルの自由主義の問題点 (1) 自己防衛・正当防衛の範囲の曖昧さ (2) 他者に危害を加えない行為の範囲の曖昧さ (3) 真に自立的な個人というものがあるのか(ものの見方は環境や教育に大きく影響されている)。
『功利主義論』
倫理学の古典の一つ。カントの義務論との対比を意識的に行っている。
功利主義は、関係者全部の幸福の総量を最大化するものであることを強調する。
ミルは、快楽の質も問題にしている。知性や想像や道徳的心情に関する快楽を重視する。「満足した豚より不満足な人間であるほうが良く、満足した馬鹿であるよりは不満足なソクラテスであるほうが良い。」
ベンサムは客観的な快苦の判定基準を目指していたのに対し、ミルは快楽の質を問題している以上、客観性が損なわれているのではないか。
功利主義の可能性の利点を2つ挙げる (1) 正義の概念も心情に翻訳して功利主義に吸収できるかもしれない (2) 「モラル・ディレンマ」を解決できる可能性がある。

第8章 論理実証主義と言語分析

19 世紀末の経験論
19 世紀末から 20 世紀前半のドイツ語圏から実証主義的・経験論的傾向の哲学思想が生まれた。
代表的な哲学者はエルンスト・マッハである。世界は感覚という要素から成る、という感覚一元論を提唱した。 そして、学問の役割は、事実や対象を思想に写し取って、経験を代替したり節約したりすることであるという「思惟経済」の考え方を提起した。
もう一人の代表的な哲学者はフランツ・ブレンターノである。哲学の中心課題を心理学の構築に置いた。 ブレンターノは、現象に接することを経験ととらえ、物的現象への経験を外部知覚、心的現象への経験を内部知覚と呼んだ。 哲学の仕事は、内部知覚に訴えながら心的現象を考察することであるとした。
言語論的転回
ゴットロープ・フレーゲは、概念が意味を持つのは命題あるいは文という文脈においてのみであるとする「文脈原理」を提示した。
ルトヴィヒ・ウィトゲンシュタインも言語論的転回を推し進めた。
モーリッツ・シュリックを中心としてウィーン学団が形成される。ウィーン学団は、哲学の科学化を目指した。 明晰性や論理的厳密性を重視し、形而上学を排斥した。認識については経験論を採用し、言語分析の手法を採用した。 シュリックは、「命題の意味とはそれの検証の方法のことである」という論理実証主義のテーゼを提案した。
論理実証主義(論理経験論)
論理実証主義によれば、有意味な命題には2つの種類しかない。ひとつは、経験から独立した、必然性を持つ論理的に妥当な分析命題である。 もうひとつは、経験に基づいた、事実についての総合命題である。
論理実証主義では、倫理的な考察も検討に値しないものとした。倫理的な概念は検証不能であり、ほんものの命題ではないとした。
構文論は、二つのモデル言語に基づいていた。確定言語は、記号列であった。不確定言語は、確定言語に加えて、 「証明可能」とか「分析的」とか「総合的」などの演算子もふくむ。
経験との結びつきを考える上で、意味論も重要である。体験的所与が意味の基礎であるとした。
論理実証主義の問題点からセンス・データの概念へ
感覚や所与は主観的なものだから、普遍的な命題の位置づけがわからない。
感覚や所与自体の確実性も問題がある。
与件の概念は、英語圏では「センス・データ」の概念に変わってゆく。錯覚も含めて、知覚しているものを「センス・データ」と呼ぶ。
アルフレッド・ジュールズ・エアは、「センス・データ」の選択は私たちの決断であると考える。
ラッセルの「センシビリア」は、実在する対象が提供している可能的「センス・データ」であり、 私たちがどのような物理理論を選択するかによって「センス・データ」が決まるとする。
日常言語学派
日常言語の言語分析は、オックスフォード大学の哲学者が展開した。
語用論から言語分析をする。語用論とは、言語とその使用者との関係を論じる。
「○○と約束する」といった表現は「行為遂行的」である。ジョン・ラングショー・オースティンは、この行為遂行的発言において遂行される行為に3つの位相を見出した。それは、発語行為、発語内行為、発語媒介行為である。
ジョン・サールは、事実には「なまの事実」と「制度的事実」があると論じた。制度的事実には、義務や規範に関わる内容が含まれている。

第9章 論理学の展開

出張のため放送は聴き損なう。

ゴットロープ・フレーゲ
フレーゲは、論理的真理のあり方を整理して、数学の基礎づけを行おうとした。これによって、現代論理学が始まった。
フレーゲの枠組みは、ホワイトヘッドとラッセルの『数学原理』に受け継がれ、命題論理と述語論理という形で整理された。
命題論理
命題を単位にした論理学。命題は、真か偽かの真理値を持つ。命題と命題をつなぐ接続語は真理表で特徴付けられる。
接続語には、否定、連言、選言、条件法がある。
述語論理
個体と述語を記号で区別し、全称量化子と存在量化子を導入することで、文を表現する。
その上で、正しい推論を考えるのが述語論理である。
ラッセルのパラドックス
「自分自身の要素にならない集合の集合」を R として、R が R 自身の要素かどうかを考えると、パラドックスに陥る。
ラッセルは、「タイプ理論」によってこのパラドックスを回避しようとした。これは、タイプn+1の集合は、タイプnの集合しか要素とすることができないということを要請するものである。
嘘つきのパラドックス
クレタ人が「すべてのクレタ人は嘘つきだ」と言った。この文の真偽を考えるとパラドックスに陥る。
このような真理値に関わるパラドックスを「意味論的パラドックス」という。
いくつかの解決方法が提案されている。
論理体系を変更するという道筋もありうる。たとえば、真偽以外の真理値を認めるとか、「真でもあり偽でもある」ことを認めるとかである。

第10章 ウィトゲンシュタインの出現

ルトヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
1889 年、ウィーン生まれ。工学を学んだ後、数学の基礎に関心が移る。第一次世界大戦のときに書きためた原稿が『論理哲学論考』になる。 1939 年にケンブリッジ大学教授となる。
前期は、『論理哲学論考』を核心とする。
後期は、ケンブリッジに戻ってから『哲学探究』をまとめてゆく時代。
『論理哲学論考』
7つの主要な命題「世界は成り立っていることがらの全体である」「成り立っていることがら、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立である」 「事実の論理的像が思考である」「思考とは有意味な命題である」「命題は要素命題の真理関数である」「真理関数の一般的形式は、[p, ξ, N(ξ)] である。これは命題の一般形式である」 「語りえないものについては沈黙しなければならない」
確定した世界を論理的に写し取った像が思考である。命題は実在のモデルである。
まとめ:実在と言語との間には対応関係があり、実在を像とする言語だけが有意味な命題である。そして、実在の構成する事態の成立・不成立に対応して、命題の真偽が定まる。
『論考』では、語りうるものを確定することによって、語りえないものを浮き上がらせることを目標とした。
最後に、哲学のナンセンスを導く。
ショーペンハウアーの影響が認められる。ショーペンハウアーの「表象としての世界」と「意志としての世界」は、ウィトゲンシュタインの「語りえるもの」と「語りえないもの」にほぼ対応する。
『哲学探究』[ゲスト:大谷弘(武蔵野大学)]
言葉とは何か?『論考』においては、言葉は事態の成立に対応するのであった。『探究』においては、言葉の使用を重視する。言葉の意味は、コンテキストに依存する。これを「意味の使用説」という。
世界のありかたを記述する以外にも言葉は使われる。例:なんてすばらしい庭なんだ!(簡単)庭を掃除せよ(命令)。
言葉の意味は、それが発せられる現場から離れては意味を持たない。例:散歩中に、友人が「あれはゼラニウムと言うんだよ」と言ったとする。それに対する私の反応は、私の知識(ゼラニウムを知っているかどうかとか)に依存する。ひょっとすると、私はゼラニウムを色の名前だと勘違いしているかもしれない。 『論考』の考察では、そういったことが考えられていない。
そうすると、心の問題はどう考えられるだろうか。「お腹が痛い」と言っている人がいたとき、状況に応じて適切に反応することが、その言葉を理解することである。 これが他の人の心を理解するということである。状況を考えないと、言葉を理解することにならない。 心身二元論を取ると、痛みは本人にしかわからない、ということで終わってしまうが、ウィトゲンシュタインは「痛み」という言葉の意味は私的なものではないとする。
こういった状況の総体を含めた言葉の使用を「言語ゲーム」という。
規則のパラドックス
『探究』において次のような議論がなされている。先生が 0, 2, 4, 6, 8, ... と示して、生徒がその後を続ける。すると、しばらくして 994, 996, 998, 1000, 1004, 1008, 1012 ... とやり始めた。生徒はこう指示されていたと理解したのだ。
そもそも規則性とか必然性とは何なのか?それを確定できるのだろうか?ルールや規則性というのは確定できないのではなかろうか。これが「規則のパラドックス」である。
この問題は、言葉の意味全般に及ぶ。言葉の意味は確定できるのか?たとえば、「きゅうりは丸い」と言ったとして、それは間違いだと言えるのか?

第11章 現代の功利主義

ヘンリー・シジヴィック
ジョージ・エドワード・ムーアは、is から ought to を導くことはできない、と論じ、このような誤りを「自然主義的誤謬」と呼んだ。 功利主義は、快苦という感情的事実に、規範の根拠を求めているのだから、これは功利主義の根幹に関わる批判である。
シジヴィックは、『倫理学の方法』で、倫理学の3つの方法として「利己主義」「功利主義」「教義的直観主義」があるとした。
シジヴィックは、「教義的直観主義」では善悪の境界は曖昧であるとして、これを排する。さらに、「利己主義」は「合理的博愛の原理」を満たさないとして、「功利主義」が最も良いとした。しかし、利己主義を全く排しているわけではない。
規則功利主義
功利主義へのお決まりの批判がある。たとえば、一人の人を殺して、その臓器を用いて複数の人々を助けるのが功利主義では正当化されるのではないかということである。
これに対しては、功利性の原理を規則に適用するという「規則功利主義」で避けるやり方がある。 一方で、功利性の原理を行為に適用する古典的な功利主義を「行為功利主義」とよぶ。どちらが良いかはまだ解決されていない。
選好功利主義
シジヴィックの議論では、道徳の評価の根拠を常識や直観に求めている。これでは解決できない問題がある。
リチャード・マーヴィン・ヘアは、道徳の言葉の論理的性質を明確にすることで、方法論を明確にしようとした。
ヘアは、道徳的判断に求められる性質として、「指令性」と「普遍化可能性」があると指摘した。
ヘアは、指令性を持つ判断は、その指令を発する人の「選好」を表しているとする。 ヘアの「選好功利主義」では、普遍化可能性と両立する形での選好の充足を基本とした。
選好功利主義においては、功利主義と義務論との対立がなくなる。
ヘアは、さらに道徳判断が発生する状況に「直観的レベル」と「批判的レベル」の2つのありかたを設けている。 「直観的レベル」とは、不確実な情報の元で判断をする状況である。このときは、一般的な道徳原則に従うのが妥当である。 「批判的レベル」とは、十分な情報の元で論理的に判断する状況である。ここでは、選好功利主義に基づいて判断がなされる。 このようにすると、功利主義への批判を上手にさばくことができる。
考慮すべき関係者とは誰か
幸福量や選好充足量を測る範囲は、国民だろうか人類全体だろうか?将来世代の人間を考慮する必要があるだろうか? 他の生物の幸福を考慮する必要があるだろうか?
ピーター・シンガーは、『実践の倫理』において、ヘアの「普遍化可能性」を強調する。ヘアは関係者の利益すべてを考えないといけない、とする。そこで関係者の範囲が問題になる。
シンガーの立場で一つ問題になるのは、妊娠中絶や嬰児殺しの正当化である。胎児や嬰児は、利害を感じるような「人格」ではないからである。
シンガーの立場でもう一つ問題になるのは、動物解放論である。動物は快苦を感じるので「関係者」に入れられる。このことから、動物実験や食肉を否定する。
person の概念
シンガーの person の概念には動物まで入ってくる。
person は、日本語では「人格」と訳されるから、人の問題だと思ってしまう。しかし、person はラテン語の動詞 persono「反響させる、声を上げる」に由来する。そこで、person は「音や声を出す主体」のことである。だから、person に動物が入ってもおかしくはない。
そこで、person の範囲がどこまでかということに不確実性がでる。
moral luck
行為には運に左右される部分がある。功利主義の場合は、その行為の結果が問題になるので、同じことをしても不測の事態によって道徳的評価が変わることがある。このことは、トマス・ネーゲルによって主題化された。
このことは、功利主義が「努力し試みることにおいて」という経験論の文脈に属していることの証である。

第12章 帰納の謎

経験に由来する知識
やってみなければわからない=経験しなければわからない
帰納は不確実だけれども不可欠。
ヘンペルのカラス
経験は「証明」されないけれども「確証」される(確からしさが高まる)。
「すべてのカラスは黒い」(S1)と「すべての黒くないものはカラスでない」(S2)は同値である。しかし、黄色いバナナを見ることは S2 を確証するように思えるが、S1 を確証するようには思えない。これはどういうことか?
実は、S1 という命題には、背景仮説や背景条件が含まれているのではないか。
グルーのパラドックス
ネルソン・グッドマンが提示したパラドックス。述語「グルー」(現在より前はグリーン、現在より後はブルー)を導入する。これまで見出されたエメラルドがすべてグリーンだったとすると、それは「すべてのエメラルドはグリーンである」という仮説と「すべてのエメラルドはグルーである」という仮説の両方を同程度に確証するのではないか?
すなわち、帰納はあらゆる規則を確証してしまうことになる。
カルナップによる批判:「グルー」は普遍的ではないおかしな述語である。グッドマンによる反論:「ブリーン」という述語を考える。現在より前に検査された時はブルー、それ以外のものはグリーンである。これを導入すると、「グリーン」と「グルー」が対称的であることがわかる。
反証主義と理論負荷性
カール・ポパーは、帰納的推論に科学的知識の基礎に置くことはできないとした。
普遍的法則に対して、そこから導かれるテスト命題が偽であることが発見されれば、普遍的法則が偽であることがわかる。ポパーは、「推測と反駁」によって科学的知識が進歩する、とした。
ノーウッド・ラッセル・ハンソンは「観察の理論負荷性」を提起した。理論によって観察が成立する。これが正しければ、ポパーの反証主義は大きく毀損される。
ポパーは、観察の理論負荷性と融和するように反証主義を維持しようと試み続けた。
クーンは、観察の理論負荷性を発展させて「パラダイム論」を提唱した。これを文字通り受け取ると、異なるパラダイムの間では理論の優劣が付けられないということになる。
生物学の哲学
問題になることの一つは、進化をどうやって確認できるのか、ということである。
もう一つの問題は、自然選択と遺伝的浮動をどうやって区別するのか、という問題である。

第13章 自然主義の興隆

ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン
論理を規約から引き出すには論理が必要。
経験主義の二つのドグマ。ここでいう経験主義とは、論理実証主義のこと。二つのドグマとは、(1) 分析的真理と総合的真理という二種類の真理がある (2) 有意味な言明は経験的所与に還元できる、という考え方のことである。
第一のドグマに関しては、分析性とは何かを説明しようとすると循環に陥る。
第二のドグマに関しては、一つの言明は個々独立には確かめられない(ホーリズム)。
認識論は、知識に確実な基礎を与えることができない(ヒューム的苦境)。認識論は、心理学あるいは自然科学の一部として、人間が知識に至る道筋を研究する(自然化された認識論)。
自然化された認識論の問題点
自然科学と連動した認識論という考え方は健全である。
クワインの主張は、知識は自然現象だとする過激なものである。しかし、制度的事実は自然現象ではないのではないか。たとえば、裁判の審議過程を脳状態から探究することに意味があるのだろうか?[吉田注:この議論は、半分しか正しくないと思う。第一に、自然科学のとらえかたが狭いのではないか。自然科学の方法は、生理学的なレベルには限られない。いろいろなレベルがある。第二に、クワインはあまりこういう制度的事実を重視していなかったのではないか。]
行為の因果説
行為の説明には、理由を挙げるものと原因を挙げるものとがある。
デイヴィドソンの「行為の因果説」では、行為の理由はそれが行為の原因であるときに行為を説明する、とする。
行為の因果説は、自然主義となじみが良い。
心の哲学
心は物理的に理解できるのか?これはまだ解明されていない問題である。
倫理学の自然化は可能か?
自由と決定論は両立するか?両立しないとするのが、非両立主義である。非両立主義で、かつ自由が成立するとするのが、自由主義 (libertarianism) である。他方で、自由と決定論が両立とする両立主義もあり、これもまだ決着がついていない。
脳神経倫理とよばれる分野がある。われわれが意識する前に準備電位が発生することがわかっている。
進化論的な見地からの道徳の議論がある。
実験哲学という動きもある。アンケートを取るなどして根拠や説明を与える。実験哲学から、意図という概念に道徳的な考慮が混ざっていることがわかってきた。

第14章 認識の不確実性

確率と曖昧性
科学では、不確実であることを前提として確率的にものごとを表すようになってきた。とくに量子力学における「不確定性原理」という本質的な不確実性が明らかになるにつれ、それが哲学にも影響を与えるようになった。
日常的な状況では、いろいろな不確実性が入り込む。
確率 probability と曖昧性 vagueness という不確かさ
主観的確率と客観的確率
主観的確率とは、各人の期待の度合い、信念の度合い (degree of belief) である。純粋に個人的なものと、間個人的に共有されるものとがある。
客観的確率には、頻度説と傾向性 (propensity) がある。頻度説は、実際に起こった現象の統計に基づく。傾向性は、まだ起こっていない事象について客観的に理解される確率である。
確率的因果 (probabilistic causality)
原因と結果の間の確率的関係性。
確率的因果の哲学は、ハンス・ライヘンバッハに始まり、パトリック・スッピスらが体系化した。
2つの出来事の間に相関があったからといって、因果性があるとは限らない⇒偽の原因
ある出来事Cは、出来事Eの生起確率を低めてしまうにもかかわらず、出来事Eの原因であるということもある。
シンプソンのパラドックス;ある集団内では c は e の生起確率を高め、別の集団内でも c は e の生起確率を高めるが、2つの集団を合計すると c は e の生起確率を低めるという事態が起こる。
条件文と確率
「pならばq」は、p が偽ならば q がどんなものであっても真になってしまう。これはおかしいのではないか?
ストルネイカー仮説;A ならば B に対する確率は、A という条件の下での B に対する条件付確率である。
ストルネイカー仮説を認めると、いかなる命題相互も確率的に独立であるというトリヴィアリティ結果が導かれる。これは受け入れがたい。
歴史の不確実性に確率概念を適用するという考えもある。
曖昧性
明確な境界線が引けない述語が数多くある。たとえば、「寒い」を真にする客観的な境界温度は存在しない。
ソライティーズ・パラドックス (sorites paradox、連鎖式パラドックス);2 ℃が寒いとすれば 2.1 ℃も寒い。ならば、2.2 ℃も寒いことになり、ついには 40℃も寒いことになってしまう。
重評価論 (supervaluationism);キット・ファインは、人為的に境界線を定めるとき、そのどんな境界線においても真になるものが本当に真であるとした。
認識説 (epitemicism);ティモシー・ウィリアムソンは、曖昧な述語にも事実としては鮮明な境界線があるのだが、私たちはそれを「知らない」とする。
曖昧性をめぐる議論はこのほかにも山ほどある。

第15章 ベイズ主義の展開

意図的行為
エリザベス・アンスコムは、意図的行為の特徴は、観察に依らない知識を持っていることだとした。
観察に依らない知識は、実践的推論と対応する。
義務論理
義務、許可、禁止などを様相論理のように定式化する分野を「義務論理」という。
ベイズ的意思決定理論
ベイズの定理を利用して意思決定を考える。
データ b に基づく a の確率 P(b|a) を考える。新しいデータが得られるたびに a の成り立つ確率が上がってゆく。
確率を規定して、期待効用 (expected utility) を最大化する選択を行うべきであるというのが、「証拠的意思決定理論」である。
ニューカム問題
期待効用最大化ではちょっとおかしな結論になる「ニューカム問題」といわれる問題がある。
それは、因果性が関わってくる問題で、その問題意識によって「因果的意思決定理論」が提案された。
しかし、「証拠的意思決定理論」と「因果的意思決定理論」の間の対立は今も解決されていない。
古証拠問題
古くから知られている証拠 b は、それが真である確率は 1 であるとしよう P(b)=1。すると P(a) = P(a|b) となる。
すると、一般相対性理論が、すでに知られていた水星の近日点移動という古い証拠を元に確かめられた、ということはどう説明できるのだろうか?
逆向き因果
逆向き因果は量子論で出てくるし、もっと卑近な例では仮現運動でも現れる。
因果性の問題は重要である。