司馬遼太郎スペシャル

著者磯田道史
シリーズNHK 100分de名著 2016 年 3 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2016/03/01(発売:2016/02/25)
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読了2016/03/23

司馬遼太郎没後20年記念で、司馬作品をいくつかみてゆく番組だった。学者らしい分析がなされていて、多角的に司馬作品をながめられるようになっている。

私は、司馬遼太郎の作品はある程度読んではいるのだが、ここで取り上げられている4作品は読んでいなかった。

放送時のメモ

第1回 「戦国」から読み解く変革力―『国盗り物語』を中心に

歴史を作った歴史家
後世の歴史に影響を与えた日本の歴史家として著者は次の3人を挙げる。頼山陽(『日本外史』)、徳富蘇峰(『近世日本国民史』)、そして、司馬遼太郎。
歴史文学
歴史文学は、史実に近い方から、史伝小説、歴史小説、時代小説の3つに分けられる。司馬遼太郎が書いたのは、歴史小説。
藤沢周平が時代の静的なたたずまいを描いたのに対し、司馬遼太郎は時代の動的な変動を描いた。
『国盗り物語』
下克上から三英傑に至る歴史を描いた小説。
軍隊=暴力装置の起源を考察してあるとも読める。
ここでは、後半の織田信長編を見てゆく。
司馬の三英傑像
『国盗り物語』の後半は、明智光秀の視点で描かれている。光秀には、古い視点を語らせた。
司馬遼太郎は、社会に与えた影響という観点からの人物評価を明確に書く。
「信長は、すべてが独創的だった。」、信長は「合理主義者」。合理主義者の信長は、比叡山焼き討ちを断行し、人間を機能で評価し、能力で家臣を登用した。
信長のおかげで、日本は世俗的になった。宗教の力は失われた。これが、日本が技術立国で実利的な国になる元になった。
秀吉は「人たらし」。秀吉は、人の心を読むのがうまかった。秀吉は、明朗で柔軟。
家康は「器用」な「現実主義者」、そして「狡猾」。無味で現実的。司馬は家康をあまり好いていなかったようだ。
まとめると、信長は破壊者。秀吉は建設者。家康は持続可能な社会を作った。幕末から明治で言えば、吉田松陰→高杉晋作→山県有朋という流れがこれに対応するであろう。
『国盗り物語』では、秀吉に代表されるような庶民の力、上意下達の官僚的組織の起源などが描かれている。

第2回 「幕末」に学ぶリーダーの条件―『花神』を中心に

幕末を描く司馬文学
司馬は幕末を描いた作品を多く残した。倒幕側を主人公にしているものも佐幕側を主人公にしているものもある。
『花神』
司馬は、軍隊への不信感から歴史小説を書き始めた。
その日本軍の起源を探るところから、合理主義者大村益次郎を描いた。
著者は、この『花神』が司馬の最高傑作であると考える。
西洋式の軍隊が明治新政府を作った。
大村益次郎(村田蔵六)
大村益次郎は、長州藩の村医者の家に生まれた。家を継いだが、無口で無愛想だったので、患者からの評判は良くなかった。
その後、桂小五郎によって長州藩に呼び戻され、軍隊を西洋化した。戊辰戦争での功績が認められ、明治政府では兵部大輔(ひょうぶたいふ)に任じられ、日本陸軍の創始者となった。
大村益次郎は、合理的な考え方をする人だった。即物的に技術的に軍隊を捉えた。
大村のコミュニケーション能力には欠陥があり、人の神経を逆撫でするようなところがあった。
大村は技術者として、ただ勝つことだけを考えた。
大村は合理的だったのに、昭和の陸軍には合理性がなくなっていた。昭和の軍隊には精神論が蔓延していた。
司馬は、攘夷思想を持った人々を大村と対比した。多くの攘夷論者は思想に酔っていた。大村も攘夷論者だったが、冷静だった。
桂小五郎(木戸孝允)が大村を重用した。桂は、オタクを理解する常識人だった。桂は大村を最後まで守った。桂は剣豪だったが、もはや剣の時代ではないということを理解していた。

第3回 「明治」という名の理想―『「明治」という国家』を中心に

明治維新
国民国家に転換して列強に伍するか、植民地となるかの選択の中で、前者を選んだのが明治維新であった。
1853 年、黒船来航。そこで、幕府は洋式の海軍を作ろうとした。オランダのカッテンディーケが来日。勝海舟も彼に学んだ。勝海舟は、渡米して開国を目指すべきことを悟った。
倒幕は、「攘夷」に酔うことで成し遂げられた。正しいのは、攘夷ではなくて開国であったのにもかかわらず。革命には陶酔が必要。幕府を倒さないと、外国にやられるという危機感があった。
攘夷とセットになる尊王思想の下では、武士も庶民も天皇の家来であった(「草莽(そうもう)の志」)。「尊王」は身分制を壊す。庶民も革命に参加できることになった。
革命で幕府は倒したものの、新政府には新国家の構想がなかった。新国家は手探り状態で始まった。しょうがないので、ヨーロッパに留学していろいろ学んだ。
江戸時代の遺産
新国家ができたのは、江戸時代の遺産のおかげだった。
江戸の多様性が明治の礎となった。江戸時代には、藩の気質の違いに応じて様々な人材が育っていた。薩長土肥を比べると、薩摩はゼネラリスト、長州は官僚、土佐は議会制を作り、佐賀は着実にものごとを進めた。全国からそれぞれの気質の優秀な人材が集められて新しい時代を作った。
江戸時代は民度が高かった。庶民は識字率が高かった。さらに、江戸人は正直で公共心が高かった。
江戸時代には東アジア蔑視志向が出てきた。
格調の高いリアリズム
明治時代は、格調の高いリアリズムで支えられた。それは、社会と公共に貢献するリアリズムである。
たとえば、長州の井上勝(まさる)は、武士だったが鉄道技師になって国家のインフラを支えた。
伊予の秋山真之(さねゆき)は、合理的な思考で日本海海戦を勝利に導いた。対照的に、乃木希典は愚将であった。

第4回 「鬼胎の時代」の謎―『この国のかたち』を中心に

鬼胎の時代
昭和初期は、明治体制が不覚にも孕んだ鬼胎(異胎)の時代。日本の歴史の中でも特異な非連続な時代であった。この時代は、日露戦争の勝利に始まり、太平洋戦争の敗戦で終わる。
司馬は、ナショナリズムとパトリオティズム(愛国主義)とを区別する。前者は、単なるお国自慢(自分の国がかわいい)。 後者は、自分の国をいっそう良くして周囲からも尊敬されるようにしようという気持ち。
日露戦争の勝利によって、日本は謙虚さを失う。日本が窮地にあったことを知らず、人々は勝利に浮かれた。
日露戦争の後で、軍人が華族になるようになる。すると、軍人は立身出世を目指し、戦争をしたいと思うようになった。
ドイツへの傾斜
明治 14 年の政変ころから、日本は国家モデルをプロイセン・ドイツにするようになる。 1871 年にプロイセン軍がフランス軍を破るのを見てしまったのが一つの理由である。
日本軍は、ドイツから参謀本部システムを輸入した。そうして、統帥権なるものを作った。 この統帥権が犯すべからざるものとなっていって、軍部の統制が効かなくなった。
未来を生きる人たちへ
本来大事なものは何か?
司馬は『二十一世紀に生きる君たちへ』というメッセージを残した。ここでは、「いたわり」の気持ち(共感性)を大切にすることを訴えた。 さらに、「自己の確立」が大事だと述べた。付和雷同にならないようにしなければならない。
まとめ
司馬作品は、動態の文学。動く時代を描いた。これが生きるためのいろいろなヒントを与えてくれる。