夏目漱石歿後 100 年ということで、漱石と科学の関係である。語り口も柔らかで、楽しく聞き流すことができる。
漱石が科学ファンで科学に憧れていたことが分かって面白い。漱石は文学論を科学化しようとしたが、果たせなかった。
それでも、小説の一部に科学の話題を取り入れていたので、そんなところを読んで楽しもうという趣旨である。
漱石が生きていた時代 (1867-1916) は、現代物理学が始まった時代であることが重要であったようだ。特殊相対論が 1905 年、一般相対論が 1915 年、
ラザフォードの原子模型が 1911 年、ボーアの原子模型が 1913 年という感じで、漱石の後半生と重なる。
漱石は、寺田寅彦と親しく付き合いつつ、こういった動きにも関心を持っていたようである。
放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 「坊ちゃん」はなぜ物理学校出身の数学教師に設定されたのか
- 夏目漱石
- 漱石は 1867 年生、1916 年歿ということで、歿後 100 年。
- 時代柄、明治の知識人は、西欧文明、ひいては近代科学と対峙しなければならなかった。
- 漱石は、寺田寅彦と親しかった。寅彦は、『吾輩は猫である』の水島寒月のモデルである。
- 『坊ちゃん』
- 1906 年「ホトトギス」に発表。
- 漱石は英語の先生だったのに、なぜ物理学校出身の数学教師に設定したのか。
- 「坊ちゃん」は3年で物理学校を卒業した。実は、物理学校は卒業に厳しく、入学者の 5.4% しか卒業できなかった。
- 漱石自身も数学の成績が良かった。イギリス留学中にはだんだん文学が嫌になった。この気持ちを『坊ちゃん』にぶつけたのではなかろうか。
- 「坊ちゃん」は、難しい数学の問題を生徒に出されて困る。漱石も、私塾の講師をしたとき、幾何の説明で冷や汗をかいたことがあった。
- 悪い役の「赤シャツ」は文学が専門、「うらなり」は英語教師、これに対して良い役の「山嵐」は数学教師。
- 漱石と数学
- 漱石は数字が好き。よく給料の話しも書いてある。
第2回 「吾輩は猫である」の水島寒月は大物理学者になれるのか
- 『吾輩は猫である』の水島寒月
- 物理学者の水島寒月は好意的に描かれている。
- 首縊りの力学;12人の人間をいっぺんに絞殺するにはどうしたらよいか?数式を使って説明してある。元ネタは、サミュエル・ホートン (1866) Philosophical Magazine。
- 寒月はケルビン卿も圧倒するほどの大論文を書くだろう、と書かれている。ケルビン卿は、当時の物理学の大御所。
- 水島寒月のモデルは、寺田寅彦とされる。椎茸を食べたら前歯が欠けたという話が出てくるが、これは実際に寺田寅彦が経験した話。
- 「猫」が書かれた時は、寅彦 27 歳。博士論文を書いていた。博士論文の題目は「尺八の音響学的研究」。大正2年、nature にX線回折に関する論文を発表している。X線回折の研究では、その後、学士院恩賜賞を受けている。
第3回 「吾輩」はニュートン力学を理解する「猫」である
- 『吾輩は猫である』の「猫」
- 『吾輩は猫である』は風刺小説であるとも考えられる。
- 「猫」は、観察眼が鋭い上に博識。「自然は真空を忌む如く、人間は平等を嫌うということだ」
- ニュートン力学を理解する「猫」
- 落雲館中学校から庭に飛んできたボールの軌道に関して、「猫」はニュートン力学による分析をする。
- 英語のリーダーの中の話で万有引力の話が出てくる。「巨人引力」としている。
- ニュートンのリンゴの逸話は、William Stukeley (1752) "Memoirs of Sir Isaac Newton's Life" に出ている。
第4回 ニュートンの光学実験と漱石の『文学論』
- ニュートンの光学研究
- ニュートンの最初の論文は光学の論文。トリニティカレッジのチャペルにあるニュートン像は、プリズムを手にしている。
- ニュートンは、プリズムの実験から白色光は様々な色が混ざったものであることを示した。
- 水島寒月のの光学研究
- 『猫』の寒月は、球形のレンズを作ろうとして、連日レンズを磨いている。
- キーツの『レイミア』
- 1819 年、キーツは物語詩『レイミア』の中で近代科学の特徴を詩にしている。
冷たい学問に一触れしただけで、
魅力が逃げ去ってしまわないか?
かつて天には壮麗な虹があった。
いま、その横糸も織り目もわかり、
ありふれた物のつまらないカタログに組み入れられる。
このように、キーツは近代科学を攻撃的なものだととらえていた。
- 漱石は、『文学論』でこれを引用した後、次のような講釈をしている。
科学者が事物に対する態度は解剖的なり。(中略)即ち一物に対する科学者の態度は破壊的にして、自然界に於て完全形に存在するものを、
細に切り離ちて、其極微に至らざれば止まず。
漱石の時代は、20 世紀初頭だから、原子論が確立し始める時代である。上の文章は、そのように物理学がより小さな世界を調べる方向に向かう潮流を捉えている。
第5回 『三四郎』の野々宮宗八はなぜ地下室で実験を行ったのか
- 『三四郎』
- 明治41年、連載開始。九州から上京した三四郎の青春小説。
- 物理学徒の野々宮宗八が登場する。三四郎は、野々宮の実験室を訪れて、光線の圧力測定の説明を受ける。
- 光線の圧力測定
- 光線の圧力測定は、Physical Review に載っていた論文に基づく。寺田寅彦が漱石に話をした。
- 野々宮は、ノイズを避けるために、地下室で夜間に実験をしている。漱石は、実験においてノイズを減らすことが大事であることを理解していた。
- 広田先生は、実験の工夫を評して「どうも物理学者は自然派じゃ駄目のようだね。」と言っている。
つまり、ありのままの自然を見るのではなくて、光以外の圧力の影響をうまく排除するような人為的な状況を作る必要がある。
こういう自然科学の方法を漱石はよくわかっていた。
- ニュートリノ物理学
- 1956 年、Cowan と Reines がニュートリノの検出に初めて成功。
- 日本にノーベル賞をもたらしたカミオカンデ、スーパーカミオカンデが地下に設置されているのは、ノイズを避けるためである。
これも、邪魔な要因を排除して真理に近づくという実験科学のやり方をよく示している。
第6回 漱石の俳句と寺田寅彦の科学研究
- 俳人漱石
- 漱石は俳句も多く作っている。とくに熊本の第五高等学校時代にたくさん作っている。
- 寺田寅彦はこの五高時代の学生で、寅彦も漱石に俳句を教えてもらうようになった。
- 漱石がイギリスに行くときに寅彦に贈った句「秋風の一人を吹くや海の上」
- 「南窓(なんそう)に写真を焼くや赤蜻蛉(あかとんぼ)」五高の物理教室の窓に写真の焼枠がおいてある。そこに赤蜻蛉が写真のようにじっととまっている。
- 「化学とは花火を造る術(すべ)ならん」化学の定義のような句。
- 漱石の俳句を題材にした寺田寅彦の科学研究
- 「化学とは花火を造る術(すべ)ならん」寅彦は、弟子の中谷宇吉郎と線香花火の実験研究をした。
- 「落ちさまに虻(あぶ)を伏せたる椿哉」寅彦は、椿の花の落下の力学を研究した。紙で作った円錐をモデルとして実験と計算を行った。"On the motion of a peculiar type of body falling through air --- camellia flower"
第7回 漱石はロンドンでなぜ原子論に興味を抱いたのか
- 漱石のイギリス留学
- 最初はケンブリッジに行ってみたが、裕福な人ばかりが留学しているので、これらの人々と一緒にはいられないと思った。
- 留学では使えるお金が 1800 円だったのでなかなか生活が苦しいという手紙を藤代禎輔に書いている。
- ロンドン大学で「現代文学史」という講義を聴いたが、あまりレベルが高くなかったようで、出席をやめてしまう。
- ロンドンでは、シェイクスピア学者のクレイグの個人教授以外は、引きこもり生活をする。文学書をいくら読んでも無益だとも書くようになった。
- 池田菊苗
- ある日、化学者の池田菊苗がロンドンの漱石の前に現れる。2人は気が合った。
- 帰国する池田を見送った後、妻に宛てて「近頃は文学書は嫌になり候。科学上の書物を読み居候。」と書いている。
- 原子論
- 漱石は、Prof. Rücker の British Association における講演 (1901 年) が新聞に載ったものを読んで面白いと思った。
- Prof. Rücker は、19世紀の科学を振り返り、今後の重要な課題を3つ語っている。原子論、熱の運動説、光の波動説の3つである。
- 当時は、反原子論者もいた。ドイツのオストヴァルト、オーストリアのマッハがその代表的論客だった。
見えないものをあるとするのは間違っているとした。彼らは、原子を単なる作業仮設とし、実在を論じるのは無意味だとした。
彼らは、エネルギーを議論の基盤とした。
- これに対して、Rücker は、原子論を支持し、見えないから実在しないとするのは誤りだとしている。
- 19 世紀末、J.J. トムソンが、陰極線の実験とゼーマン効果から電子の存在を示唆していた。その後、ラザフォードやチャドウィックが原子と原子核の存在を明らかにする。
第8回 大科学者ファラデーの名台詞と漱石の博士号辞退事件
- ロンドン王立研究所
- 漱石は、池田菊苗を王立研究所に案内した。池田は Davy Faraday Laboratory で研究を行うことになっていた。
- Humphry Davy は電気分解を用いて8つの元素を発見した。これは一人の科学者の元素発見の最多記録である。
- Michael Faraday は貧しい家に生まれ、製本職人になった。しかし、科学への思いが抑えがたく、1813 年、Faraday は Davy の助手になる。
- Faraday は、科学上の大発見をたくさんした。生涯清貧に甘んじ、Sir を辞退し、王立研究所の所長就任を辞退し、王立協会会長就任も辞退した。
- 漱石の博士号辞退事件
- Faraday が没した年に漱石が生まれる。
- 漱石も権威を嫌っていた。漱石は、文学博士の学位を辞退した。
- 大正3年、明治大学から招待状を受け取った時、学長宛に自分のことを文学博士と書くなという手紙を書いている。
第9回 物理学者マクスウェルの詩と漱石の解釈
- マックスウェル
- マックスウェルは、1831 年生まれ、1879 年死去。スコットランドの大地主の家庭に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業したエリートであった。
- 1864 年、電磁気学のマックスウェル方程式をまとめた。
- マックスウェルは詩人でもあった。漱石は『文学論』で、マックスウェルの詩「女性のための物理学講義」を取り上げている。
- 漱石の『文学論』
- 漱石は、科学の研究方法を文学に応用しようとした。
- 引用されている詩「女性のための物理学講義」第二部冒頭は、学者をからかっている部分。
- 漱石の解説は、物理学者を尊敬しすぎ。詩の中では、数字を科学的記号として用いていると解説しているが、そんな科学的意味はない。
マックスウェルはうまく韻を踏むように erg(エルグ)や second(秒)を使っている。
- 漱石の『行人』の中に次のような場面がある。「私」がHさんを訪れると、明日講義があるので苦しんでいると言われる。
漱石は、当時講義をするのに苦しんでいたのだろう。
- 漱石の科学的文学論の試みはやがて挫折する。漱石はやがて創作に転ずる。
第10回 文学研究と創作における科学とのかかわり
- 漱石の『文学評論』
- 『文学評論』は、漱石の講義「十八世紀英文学」をまとめたもの。
- 漱石は、科学は how を記述するものであって why は棚上げする、と正しく認識している。このことは、ニュートンも『プリンキピア』の中で書いていた。
- 漱石は、文学も why ではなく how を記述するのだとした。
- さらに、漱石は、文学研究や文学史も科学的に行えるとした。これはさすがに行き過ぎていると著者は考える。
ニュートンは、研究対象を自然に限定している。
[吉田注:私は、著者は逆の方に行き過ぎていると思う。文学も部分的には科学的に研究できるはず。]
- 漱石は文学論に数式を入れたりしている。が、それはどう見ても失敗であった。
- 漱石は、のちに講演「私の個人主義」で、文学研究に科学主義を取り入れようとしたことの失敗を認めている。
この失敗が、漱石が英文学者から創作家に転じた一つの理由であろう。
第11回 漱石が見た芸術と科学の美
- ケプラーの太陽モデル
- ケプラーは『宇宙の神秘』において、惑星が6個あるのは、正多面体が5つあることと関係あると考えて、
球と正多面体を組み合わせた太陽系モデルを作った。
- ケプラーは、ティコ・ブラーエの観測データを精査することで、球で作った太陽系モデルが誤っていたことに気づき、
惑星の運動が楕円軌道であることを発見した。
- このように、科学者は美を追求する。
- 漱石の科学者観
- 漱石も、科学者は芸術家と同じように好きなことをしていると言っている。
- 寺田寅彦も、科学者には科学特有の美的享楽があり、それは芸術とも似たところがあると書いている。
- 『夢十夜』
- 第六夜では、運慶が明治の世に生きている。
- 見物人の一人がこう言う。「なに、あれは眉(まみえ)や鼻をのみで作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、のみと槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから、決して間違うはずがない。」
- 科学も、自然の中に埋もれている美を掘り出す。
第12回 空間論・時間論を寺田寅彦と論じた漱石
- 相対性理論と漱石
- 今年の2月に重力波が直接観測されたと発表された。重力波の存在は、アインシュタインが一般相対論によって百年前の1916年に予言した。が、きわめて弱いのでなかなか観測できなかった。
- 大正4年に漱石は寺田寅彦に雑誌『アセニーアム』に出ていた相対論の本の書評の切り抜きを送った。
- 特殊相対性理論は、アインシュタインが1905年に発表した。これは漱石が『吾輩は猫である』を発表した年である。特殊相対論の鍵は、光速度不変の原理。これに基づくと、時間の概念が相対的なものになる。
- 一般相対性理論は、1915年にアインシュタインが発表した。
- 明治43(1910)年、長岡半太郎がヨーロッパに行ったところだと、相対論が物理学の革命だとして話題になっていた。
- 1911年、ラウエが相対論の最初の教科書を書いた。
- 寅彦と漱石と相対論
- 大正4年1月に、寅彦は、丸善でラウエの相対性理論の教科書を買い求めている。先に述べた漱石から寅彦への手紙は、その翌月の2月。
- 大正5年、漱石死去。寅彦はたいへん淋しがった。
- 大正6年、『渋柿』の追悼号には、寅彦が漱石を追悼する和歌を14首寄せている。「或時は空間論に時間論に生れぬ先の我を論じき」
第13回 漱石が生きた時代と科学の激動期
漱石が生きた時代の科学の進歩を見てゆく。漱石が生きた時代は物理学の激動期と重なっていた。
- 漱石の時代
- 漱石は 1867 年生まれ。1867 年亡くなったのは、ファラデー。1867 年生まれで同じ歳なのは、キュリー夫人。
- 湯川秀樹に『漱石と私』という随筆がある。湯川の義理の父親は医師で、漱石はその病院に入院している。
その経験が『行人』の中に書かれている。
- X 線と放射能の発見
- 1895 年、レントゲンが X 線を発見した。当時尋常中学校の生徒だった寺田寅彦がその新聞報道を読んだことを日記に記している。
- 寺田寅彦は、1913-1914 年、X 線による結晶構造解析の研究に取り組んだ。
- 1896 年、ベクレルがウラン化合物の放射能を発見。キュリー夫人はこの研究を発展させた。これがさらに原子論につながる。
- 光量子仮説
- 1905 年、アインシュタインが光量子仮説を提唱。
- 1920 年代末に量子力学が完成する。
- 『明暗』
- 『明暗』は、漱石の未完の遺作。
- 小説の冒頭で、ポアンカレーの論考「偶然」が引用されている。漱石は、寺田寅彦の訳を読んだようだ。
- ポアンカレは、偶然は、原因の複雑さから生まれるとしている。この論考は、20 世紀初頭の量子力学の誕生以前に書かれたもので、決定論に基づいている。