自称「保守」政治家が改革とか維新とか言いまくるという oxymoron(撞着語法)がそれと気付かれない狂った世の中にあって、正しい「保守」とは何かを著者が論じている。メインの論敵としているのは、新自由主義である。かなりいちいちその通りと思えて、すいすい読めた。著者は、19 世紀初頭の詩人かつ思想家であったコールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)の考えを紹介することで、保守とはこういうものだということを提示する。
おもしろいのは、保守の考え方は、経済としてはケインズとか社会主義者のオーウェン (Robert Owen) に近いということだ(第3章 4 社会を防衛せよ―保守と革新が一致する)。実際今の日本でも、社民党が一番保守的で、自民党は改革改革と叫ぶことからみて革新的である。著者が書いている通り、共産主義も新自由主義も合理主義という意味で同じ穴の狢なのである。保守主義者は「理性が発見した抽象的な原理原則を掲げた急進的・抜本的な改革に対しては、徹底的に抵抗する(p.241)」。
保守とは、言い方を変えると、一人の人間の智恵より歴史と伝統が見出した智恵の方が優れていることがあるだろうと考えることで、姿勢としては謙虚である。でもそういう謙虚な人であれば、なかなか声高に自己主張しないであろうし、一見不合理な主張をすることになることがあるので、論理的に支持するのが難しい。一方で、むやみに伝統を守れという人も伝統の複雑さを知らないからそんなことが言えるのだと思う。かくして、「真正の保守主義者と呼ぶに値する人物は、いつの時代も、ごく少数だった (p.251、あとがき)」ということになるのだろう。
ポラニー兄弟 (経済人類学者の Károly Polányi と科学哲学者の Mihály Polányi) が両方とも登場しているのも興味深い。ポラニー兄弟は 20 世紀半ばに活躍した。兄のカールは、市場経済の破壊性を分析したが、その先駆者としてオーウェンとかコールリッジが挙げられている。
コールリッジの科学にたいする考え方も興味深い。コールリッジは、機械論的哲学を批判し、聖書が未来への預言であるようなことを書く。現代的な視点からすると、コールリッジが言いたいことも理解できる。それは、当時の機械論的哲学は現代の科学から見ると狭すぎるということだ。現代科学や科学哲学はそれほど狭くもないので、コールリッジが現代に生きていたら、そんなに聖書寄りのことは言わないかもしれない。ポラニー兄弟の弟のマイケルが登場するのは、現代的な科学哲学を使ってコールリッジを擁護するところである。マイケルは、科学における推量 (p.185) とか暗黙知 (p.195) の役割を強調した。著者はこういった概念を用いて、コールリッジを擁護している。
コールリッジの教育論も興味深い。日本のいわゆる「保守」の人は道徳を教えたがるけれど、コールリッジは教育は知育であると考えている (p.152)。コールリッジは、徳を伝授することは出来ないと考えていた。有識者は、知識の伝達を通じて間接的に徳を教え、営利精神の過剰を矯める。これまたその通りだと思う。道徳は教科として教えるような性質のものではない。
私が一番しっくり来ないのは宗教のところで、それはまあ日本人とイギリス人では宗教的バックグラウンドが違うのでしょうがない。そこは日本風にアレンジして考えないといけないところだと思う。